沈んでいく。光の届かない世界に。溶けていく。冷たいのに温まる水泡の抱擁に。泡が一つ、二つ、三つ、連なって次々に弾けていった。深海に沈んで姿を消してしまった記憶は多い。けれど大切な記憶はまだ、形を失ってなんかいなかった。
 泡が耳元で溶ける時、海の冷たさが引いて幻想だと分かる時、この夢が俺の潜在意識の奥底だと確信する時。これまでにない鮮やかな過去が息を吹き返す。
 ――夢は昼間の記憶を情報整理する過程で生じる幻覚だと、いつかの記事で読んだことがある。夢の海溝に落ちながら、失っていた記憶が激流のように、渦潮のように、現れ続けた。

 つばめの手を握り、俺は水底を漂った。彼女の言っていた大切な記憶を、水泡の中に収まった思いを俯瞰する。
 「こんな大切なこと、俺は忘れてたんだな」
 『忘れてたんじゃないよ。思い出すのに時間がかかっちゃっただけ』
 「……ありがとう。つばめのおかげで、やっと思い出せたよ」
 『えへへ。カズくん、また笑えるようになったね』
 「ああ、つばめのお陰だよ。さっき教えてくれたこと、実里にもしっかり伝えにいくよ」
 『うん! つばめ、ミノリちゃんにも笑ってほしいからね』
 顔の見えないまま、つばめは一緒に沈んで来てくれた。
 「それとさ。あの時、酷いこと言ってごめんな。あんなお別れになって、申し訳なかった」
 『ううん、つばめ気にしてないよ』
 「俺も実里も、つばめのこと大事に想ってた。大切な友達だった。これまでも、これからも」
 『つばめも同じ! ずっとずぅっと、だいすきなお友達!』
 「……って、夢の中で言っても、つばめ本人には伝わんないよな」
 『そんなことないよ。カズくんの言葉、つばめに届いてる』
 「ははっ……だったら良いな」
 うんうんと、何度もつばめは首を縦に振った。
 「実里にはさ、まだ言えてないこと沢山あるんだ」
 『それなら言わなくちゃ。伝えられるうちに』
 「俺、今度はちゃんとできるかな?」
 『大丈夫、きっとできるよ』
 ――つばめがそう言った瞬間に、深海の水は蒼空に変わった。水泡は集まって入道雲になり、魚たちは涼しげな風と化す。晴れ渡る空に昇った太陽が照らす時、つばめの顔についた真っ白な絵の具が流される。
 あの夏と同じ、満面の笑みを浮かべたつばめの顔がハッキリと瞳に映った。
 『だってカズくんは、つばめのつまんなかった夏。変えてくれたんだから――』
 ずっと続いていた夏の一日が、ようやく終わった気がした。ツバメは透明な空の彼方まで、夏の匂いを残して飛び去っていく。

 ※

 「――つばめッ!」
 意識が繋がると同時、俺は布団を跳ねのけて飛び起きた。
 目覚めた部屋には誰もいない。布団もカーテンも天井も白い無機質な空間があっただけだ。見慣れない光景と薬品の匂いで、ようやく自分が病室にいることに気が付く。
 「ここ、は……病院?」
 地元にある小さな診療所の病室だった。ここには予防接種の時にしか来ていなかったから、それが今はベッドに横たわっていたことが新鮮だった。
 「実里が、助けを呼んでくれたんだな」
 夢に沈む直前の記憶をパラパラと思い出す。今回ばかりは熱で忘れてしまった、なんてことはない。つばめの家で起きたこと、夢の中の出来事。全部思い出せる。
 「そうだ、伝えないと! つばめの言ったことの、本当の意味――っておもっ、なんだこれ?」
 ベッドから立ち上がろうとした時、俺は妙に体が気だるいことを不審に思った。インフルエンザで数日寝込んだような、何日も動かなかったことによる体の重さだ。
 ここで俺は、病室に差し込む陽光が朝日なことを理解した。
 「待て、今は朝……? 今日は何日――」
 壁掛けのデジタル時計に目をやると、山に行った日から二日も経っていたことを知る。
 「どよう、び……実里が、街を出る日!」
 錆びたように固まった体を起こし、病室の窓を開ける。幸いにも一階の角部屋だった。氷嚢を床に投げ、窓を全開にしたところで、病室に看護師のお姉さんが入って来る。
 「楠木くん! 目を覚ましたのね」
 今は一秒も惜しかった。俺の目覚めを喜んでくれてるお姉さんに謝りながら、鉄棒の要領で窓枠を越えた。
 「ごめん看護婦さん! 俺行かないとッ!!」
 「えっ? あちょっ、動いたら……ってどこいくの!?」
 病衣のまま、診療所のスリッパをそのままに、全速力で駆け出した。
 「楠木くん!!」
 「ごめんなさい、ちゃんと戻ってきます!」
 肺も心臓も起きていない。走りづらい履物に、万全じゃない体は教科書を詰め込んだリュックを背負ってるみたいだ。酸素もロクに吸えていない。ただそれでも、心だけが鉛の四肢を動かした。
 「まだ行っちゃだめだ。あのこと、伝えないと!」
 診療所は実里の家から遠い。向かう途中にある街の景色が、嫌でも目に付いた。学校も、通学路も、駄菓子屋も、飯屋も、公園も、街の至る所に思い出の残像が映っている。どの光景にも必ず、彼女の笑顔が焼き付けてあった。
 投影された幻想を見る度、頭の奥で何度も俺の名を呼ぶ声が響く度、地面を蹴る力が増した。
 「これで満足してたまるか……!」
 もう幼馴染を、過去へ置き去りにさせたくなかった。
 千切れそうなぐらい手足を前に突き動かしていたところ、大衆食堂『しくると』の看板が目に入る。店前には掃き掃除をしている店主のおっちゃんと、長年おっちゃんが出前に使ってる自転車があった。
 正常な判断が下る前に、俺の体は動いていていた。
 「おりゃ、よるかずくんか? 入院したって聞いてたがどうした、そんな慌てて」
 「おっちゃん、そのチャリ貸してくれ!」
 「へぇあ? でもこれ出前の……」
 「頼む、ちゃんと戻しにくるから! 心配だったら半日後に俺んちまで電話ちょうだい!」
 「ほ、ほぉ……まあ一日ぐらいなら良いが」
 「ありがとう!!」
 店主のおっちゃんに勢い任せで頭を下げ、自転車のペダルに足を掛ける。状況に追いつけずポカンとしていたおっちゃんは、「気をつけてな」とだけ言って不思議そうに俺を見送った。

 土曜の朝、皆がまだ眠っている街の道路を自転車で駆け抜けた。全体重を前に、ただがむしゃらに実里の元を目指した。
 「みのりっ、待って…………あと、少しだけッ!!」
 蒸発しかける夏を追い越す勢いで、灼熱をペダルに乗せた。