高熱にうなされて起きたら、どうも一年分の記憶が消えてたらしい。

 「……なにを、忘れたんだっけ?」

 毎年変わらない夏の匂いを吸い込んで、蝉の声が響く空の入道雲へ俺は問いかける。

 ――俺の人生、楠木(くすのき) 夜千(よるかず)の記憶からページが抜け落ちた。

 記憶喪失……と言っても、一年前までの記憶が消えた訳じゃない。
 俺の生きてきた十六年の人生から一年分。精密検査によれば正確には『一年に相当する記憶量』が消えたのだと医者から説明された。
 曰く「去年までという意味ではなく、記憶全体から虫食いのように所々欠けてる」程度とのこと。つまるところ、すぐには日常生活へ影響がない。実際最後に受けた授業内容は思い出せるし、家族や友達との記憶も概ね覚えている。
 「みなもとのよりとも」という人物が生きたという時代の記憶が、スッポリ無くなってた事に気付いて、さっきようやく実感できたところだ。
 それに人間は毎日の出来事を一つ一つ覚えてる訳じゃない。小学校の昼休みにドッジボールをした記憶だって、一個もあれば十分だ。
 だから記憶喪失なんて、大したことないと思ってた。教室の扉を開く前までは。
 「あ、おは……よ」
 真夏の蒸し暑い教室で一人、女の子が待っていた。
 わざわざ人が少ない夏休み中の学校へ呼び出した本人が、机に座って足を揺らしている。長い黒髪をなびかせ、窓からの風に当たって涼を取っていた。映画のワンフレームから切り取ったような光景が時間と共に流れる。
 声を発することも忘れかけた時、俺はその女子の名を口にした。
 「実里(みのり)
 彼女の名が『麦野(むぎの) 実里(みのり)』であることを反芻して、記憶が正常か確かめる。
 寝てる間に、俺は幼馴染のことも忘れていたのだろうか。つい先週話した記憶もあるのに、記憶の中の彼女より大人びて見えた。ただ記憶は鮮やかだ、失っていない。
 数秒見つめている間に、その彼女がいつも通りだと実感できる。小さい頃の無邪気さと天真爛漫さを含みつつ、妙にいつもより落ち着いた雰囲気を纏っていた。
 「おはよっ、カズ」
 「待たせたな、暑かったろ?」
 「気にしないで。あたしが呼んだんだもん」
 窓からのそよ風に揺れる髪の長さに、吸い寄せられたみたいに目を引かれる。
 記憶の確認のため、アルバムを漁っていたからなのか。今の実里と幼い頃の姿が点滅のように交互で目に映った。
 「記憶喪失はだいじょぶそ?」
 「ところどころ記憶が欠けてるみたいでさ。何を忘れたのか、自分でも分かんないんだ」
 「そっか。でも、あたしのこと覚えててくれたから、ひとまず及第点!」
 「どーも」
 記憶の整合性を確かめる間も与えず、彼女のペースに全てを持ってかれる。
 「問題でーす。あたしとカズの関係は?」
 「かれこれ十年以上の付き合いになる幼馴染。家は真ん前の超ご近所さん」
 「好きな食べ物は?」
 「鮎の天ぷら」
 「アルメニアの一番有名な郷土料理は?」
 「それはたぶん元から知らね」
 「あははっ、バレたか~」
 流れるように冗談を言う。そう、実里はこういうやつだった。
 「じゃあさ、山行くのにサンダル履いて靴擦れしたときの……って、ごめん! やっぱ今のやっぱな――――」
 「そんなことあったっけ?」
 覚えのないことを言われ、頭を傾げた。
 「えっ……」
 実里はやけに驚いた顔をして、数秒もの間固まっていた。何か間違えてしまったかと汗が逆流する。
 すると実里はずいっと顔を近付けた。
 「ねえ、もしかして忘れてる? 中学生のあの夏にあったこと」
 「何年の夏――」
 言いかけた時、俺は違和感に気付いた。
 俺と実里は中学の夏休みに、一緒に過ごしてなんていなかった。お互い部活や塾が忙しく、ただの登校日よりも会う機会が少なかったから。
 けどきっと、それは思い違いだ。切ない表情で見つめる実里が、俺に失った記憶があることを告げていた。
 「おぼえ、てない」
 彼女の反応に怯えながら、恐る恐る口に出した。目線をそらして、忍び足のように言葉を運ぶ。
 「三年の時の記憶なら確実にあるよ。ほとんど塾に行ってた記憶だけど……」
 「それじゃあ、山のことも、あたしのおばあちゃん家でゴーヤ食べたことも、自転車のことも――」
 焦った様子で実里は指折り数えた。
 「まさか、小二までの夏も、ぜんぶ?」
 「なんのことか、さっぱり……もしかして俺、何か重要なこと忘れてる?」
 「……紙飛行機の勝負、どっちが勝ったかは?」
 「悪い……紙飛行機で勝負してたことすら、思い出せない」
 立ち上がっていた実里は座り、沈黙が流れた。
 気まずい静寂に耐えかねていた時、声色を変えて彼女は信じ難いことを告げる。
 「あたしね、来週になったら引越しちゃうんだ。地元から出ちゃうの」
 時間の流れが止まったように感じた。
 小さい頃から一緒にいることが当たり前だった実里が、いなくなってしまう事実を頭が受け入れようとしない。既に穴だらけな脳内は真正面から殴られたようだった。
 衝撃、当惑、失意、に揉まれながら、詰まった喉から言葉を絞り出す。
 「それも、覚えてなかった……ごめん」
 「あっ、これは言ってなかったことだから。今伝えたこと。知らなくて当然」
 「そう、か。それでも、変わんないか……」
 「うん、もうしばらく会えなくなっちゃうの。だから、今日はこうして学校まで呼び出したんだけど」
 「そうだったのか、それは――」
 「今はそんなことどうでも良い。忘れて」
 俺の遠慮なんて吹き飛ばしてしまうほど、彼女は強く手を引いた。
 俺が握り返すと実里は走り出す。
 「今から行くよ!」
 連れられるがまま教室を飛び出した。
 「えっちょ、行くってどこに!?」
 「私たちにとって、大事な場所!」
 「待って、俺なんも持ってない! せめて一回家に……」
 「モバ充とお金はあたしが持ってるから。時間ないしこのままで良い!」
 じっとりした汗から逃げるみたいに廊下を駆け抜けた。蝉の声も、葉の擦れる音も、耳元から遠のいていく。
 振り返った実里は、見たこともないほど焦った顔をしていた。
 「あの記憶を思い出させれるのは、あたししかいないから」
 ――昇降口を抜け、靴もしっかり履かせてもらえない内に校門を通り過ぎた。
 昔から足の速かった実里に置いていかれないよう、必死で足を交互に前へ出す。

 澄み渡った蒼の空へ吸い込まれるように、消えていった記憶を求めた俺達は雲を追いかけた。