「五月雨の 空だにすめる月影に 涙の雨は はるるまもなし――」
絵巻に書かれた歌を詠った時――床に落ちた紐が生き物のように蠢いて小雨の足に巻き付き――
「ちょっと、いいかしら?」
突然扉が開いた。
その瞬間、世界の時間が元に戻ったように、絵巻が放っていた淡い光は消え――やはり気のせいだったのか、と小雨が思った時。扉を乱暴に開けた張本人である雲雀が、小雨の顔を覗き込んだ。
鷹のような鋭い眼光が、小雨を捉える。
「ひ、雲雀姉さん……」
「あんた、さっきまで、泡沫様と一緒にいたようだけど」
雲雀は鬱陶しそうに長い髪を乱暴に掻き上げ、小雨を睨み付けた。
「えっと、それは……」
まさか見られていたとは思わず、小雨は言葉を濁した。別にやましいことをしているわけではないが、どうにも彼女に言われると、悪いことをしているような気になる。
「うちの店の決まりを、忘れたわけじゃないわよね?」
「え……」
「恋は御法度よ。恋に落ちた女から、死んでいく。あんただって、分かっているでしょう? わっちらがやっているのは、所詮ただの絵空事。一晩限りのまやかし。ごっこ遊びに過ぎないのよ。だから、本気になってはいけない。ふりならともかく、本気になった女に遊女は務まらない。使い物にならなくなった遊女のなれの果てを、知らないわけでもないでしょう」
「そ、それは……」
逆らってはいけない。そう思った小雨は、言いかけた言葉を飲みこみ「はい」と素直に頷いた。
禿は、遊女に逆らえない。たとえ自分の専属の姉さんでなくとも、禿からしたら遊女の言葉は絶対である。それゆえ、小雨は口を閉ざしたが――それが余計に雲雀を苛つかせ、彼女は小雨の胸ぐらを掴んだ。
「本当に、分かっているの? あんたの姉さんも、あんたの世話していた禿も、恋のせいで死んだんだ」
「……っ」
絶句する小雨の頭を掴み、雲雀は乱暴に小雨の顔を覗き込み――
「何よ、これ」
その途中、雲雀は小雨の膝の上の絵巻に気が付いた。そして、親指と人差し指でつまんで持ち上げる。
「絵巻?」
「返してください!」
思わず、小雨が雲雀に縋り付いた。
「ち、ちょっと誰も取りはしないわよ。ていうか、あんた、字が読めないんでしょ? こんなの持っていて、意味あるの?」
「それは、せせ姉さんの物です」
「せせ姉さんの? あー」
雲雀は得心したように声を漏らした。
「そういうこと」
雲雀は小馬鹿にしたように薄ら笑いを浮かべた。それが妙に小雨の心をざわつかせた。今まで感じた事のない感情が胸の奥から湧き出た。
「雲雀姉さん! 何処ですか?」
と、その時――遠くから雲雀を呼ぶ童女の声が響いた。
「はいよ! 今行く」
雲雀はそう廊下に向かって叫んだ後、小雨を見下ろす。
「そうそう、言い忘れていたわ。あんた、明日からわっちの禿になるのよ」
「え……」
「あんただって、ここ長いでしょ。姉さんが死んだからって、雑用ばかりさせておくのも、店として困んのよ。ちゃんと、色について学ばせないと。だって、あんた……」
と、雲雀はそこで一度言葉を切ると――小雨に顔を近付けた。
雲雀の髪が直接頬を撫で、むず痒い感触になった時――雲雀が嘲笑うように囁いた。
「もうすぐ水揚なんだから」
「……っ」
思わず小雨は絶句した。
その小雨を見下ろし、雲雀は腕を組みながら笑った。
「良かったじゃない。これで、もうすぐこの豚小屋ともおさらば。少しはマシな生活になるんじゃない?」
「……っ」
身体が無意識に震え出し、小雨は両腕で自分の身体を抱き締める。その態度すら滑稽とでも言うように、雲雀は嗤う。
「あんたも知っての通り、水揚の相手は、色を知り尽くした年配の男。ちょうど、わっちの客に、蕾を乱暴に散らせたいって妙な癖のある男がいてね……いい機会だから、あんたの水揚の相手に推薦しておいてあげたわ」
「ま、待ってください。私は、まだ……」
「ええ、知っているわ。だけど、逆に良かったじゃない? 出来る心配ないんだし」
「……」
この人には、何を言っても無駄だ。
この人は、自分を傷つけ侮辱して、楽しんでいる。
自分を見下ろす雲雀を見て、小雨はそう感じた。
しかし、今まで感じていた恐怖はない。むしろ――
「それじゃあね……日程はわっちが決めてあげるから。楽しみに待っていなさい」
そう軽く手を振りながら、雲雀は去って行った。その時、乱暴に絵巻が床に投げられた。自分によくしてくれた姉さんの形見の品でもあり、慌てて小雨は拾いあげる。
――良かった、破れていない。
中を開いて確認した時、再び絵巻の絵画と和歌が目に入った。
絵巻の中には、川の畔で、哀しげな女が水面を見つめている。
空には三日月が浮かんでいるが、女の周りには雨が降っている。
今にも身投げしそうな女の姿は悲壮感溢れ、思わず泣き出しそうになった。
「……っ」
小雨は、絵巻を腕に抱いたまま部屋を飛び出した。
絵巻に書かれた歌を詠った時――床に落ちた紐が生き物のように蠢いて小雨の足に巻き付き――
「ちょっと、いいかしら?」
突然扉が開いた。
その瞬間、世界の時間が元に戻ったように、絵巻が放っていた淡い光は消え――やはり気のせいだったのか、と小雨が思った時。扉を乱暴に開けた張本人である雲雀が、小雨の顔を覗き込んだ。
鷹のような鋭い眼光が、小雨を捉える。
「ひ、雲雀姉さん……」
「あんた、さっきまで、泡沫様と一緒にいたようだけど」
雲雀は鬱陶しそうに長い髪を乱暴に掻き上げ、小雨を睨み付けた。
「えっと、それは……」
まさか見られていたとは思わず、小雨は言葉を濁した。別にやましいことをしているわけではないが、どうにも彼女に言われると、悪いことをしているような気になる。
「うちの店の決まりを、忘れたわけじゃないわよね?」
「え……」
「恋は御法度よ。恋に落ちた女から、死んでいく。あんただって、分かっているでしょう? わっちらがやっているのは、所詮ただの絵空事。一晩限りのまやかし。ごっこ遊びに過ぎないのよ。だから、本気になってはいけない。ふりならともかく、本気になった女に遊女は務まらない。使い物にならなくなった遊女のなれの果てを、知らないわけでもないでしょう」
「そ、それは……」
逆らってはいけない。そう思った小雨は、言いかけた言葉を飲みこみ「はい」と素直に頷いた。
禿は、遊女に逆らえない。たとえ自分の専属の姉さんでなくとも、禿からしたら遊女の言葉は絶対である。それゆえ、小雨は口を閉ざしたが――それが余計に雲雀を苛つかせ、彼女は小雨の胸ぐらを掴んだ。
「本当に、分かっているの? あんたの姉さんも、あんたの世話していた禿も、恋のせいで死んだんだ」
「……っ」
絶句する小雨の頭を掴み、雲雀は乱暴に小雨の顔を覗き込み――
「何よ、これ」
その途中、雲雀は小雨の膝の上の絵巻に気が付いた。そして、親指と人差し指でつまんで持ち上げる。
「絵巻?」
「返してください!」
思わず、小雨が雲雀に縋り付いた。
「ち、ちょっと誰も取りはしないわよ。ていうか、あんた、字が読めないんでしょ? こんなの持っていて、意味あるの?」
「それは、せせ姉さんの物です」
「せせ姉さんの? あー」
雲雀は得心したように声を漏らした。
「そういうこと」
雲雀は小馬鹿にしたように薄ら笑いを浮かべた。それが妙に小雨の心をざわつかせた。今まで感じた事のない感情が胸の奥から湧き出た。
「雲雀姉さん! 何処ですか?」
と、その時――遠くから雲雀を呼ぶ童女の声が響いた。
「はいよ! 今行く」
雲雀はそう廊下に向かって叫んだ後、小雨を見下ろす。
「そうそう、言い忘れていたわ。あんた、明日からわっちの禿になるのよ」
「え……」
「あんただって、ここ長いでしょ。姉さんが死んだからって、雑用ばかりさせておくのも、店として困んのよ。ちゃんと、色について学ばせないと。だって、あんた……」
と、雲雀はそこで一度言葉を切ると――小雨に顔を近付けた。
雲雀の髪が直接頬を撫で、むず痒い感触になった時――雲雀が嘲笑うように囁いた。
「もうすぐ水揚なんだから」
「……っ」
思わず小雨は絶句した。
その小雨を見下ろし、雲雀は腕を組みながら笑った。
「良かったじゃない。これで、もうすぐこの豚小屋ともおさらば。少しはマシな生活になるんじゃない?」
「……っ」
身体が無意識に震え出し、小雨は両腕で自分の身体を抱き締める。その態度すら滑稽とでも言うように、雲雀は嗤う。
「あんたも知っての通り、水揚の相手は、色を知り尽くした年配の男。ちょうど、わっちの客に、蕾を乱暴に散らせたいって妙な癖のある男がいてね……いい機会だから、あんたの水揚の相手に推薦しておいてあげたわ」
「ま、待ってください。私は、まだ……」
「ええ、知っているわ。だけど、逆に良かったじゃない? 出来る心配ないんだし」
「……」
この人には、何を言っても無駄だ。
この人は、自分を傷つけ侮辱して、楽しんでいる。
自分を見下ろす雲雀を見て、小雨はそう感じた。
しかし、今まで感じていた恐怖はない。むしろ――
「それじゃあね……日程はわっちが決めてあげるから。楽しみに待っていなさい」
そう軽く手を振りながら、雲雀は去って行った。その時、乱暴に絵巻が床に投げられた。自分によくしてくれた姉さんの形見の品でもあり、慌てて小雨は拾いあげる。
――良かった、破れていない。
中を開いて確認した時、再び絵巻の絵画と和歌が目に入った。
絵巻の中には、川の畔で、哀しげな女が水面を見つめている。
空には三日月が浮かんでいるが、女の周りには雨が降っている。
今にも身投げしそうな女の姿は悲壮感溢れ、思わず泣き出しそうになった。
「……っ」
小雨は、絵巻を腕に抱いたまま部屋を飛び出した。
