「ちょ、ちょっとっ、待ってっ……っは……はぁ」

 執事の後ろを必死で着いてきたリーゼロッテの息が上がり、自分の体力の限界を伝えようと、執事へと声をかけたその時だった。
 一際大きな扉の前で執事がようやくその足を止めた。

「し、失礼しました。あまりの驚きに、一刻も早くベルンハルト様にお会いしようと、つい急ぎすぎました」

「い……いえ。だい、じょうぶ、ですぅぅ」

 未だに整わない呼吸をなんとかしようと、リーゼロッテは大きく息を吐いた。
 リーゼロッテのそんな様子を見ている執事の顔が明らかに狼狽えていて、王城の使用人では見ることのできない顔に、ほんの少し心が弾む。

「本当に、申し訳ありません」

「ふふっ。もう大丈夫です。ロイエンタール伯爵への挨拶もできますから、ご安心なさって」

 リーゼロッテが微笑みかければ、執事は更に所在なさげに視線を泳がせた。

「ロイエンタール伯爵には、内緒にいたしましょうか?」

 執事の顔色を見ながら、そんな提案をもちかければ、更に酷く視線が揺らめく。

「うふふ。それでは、内緒です」

 リーゼロッテは人差し指を口元に当てて、穏やかに笑いかけた。使用人とこんなやり取りをしたことなどない。王城では誰もがリーゼロッテのことを遠巻きに見ていて、実のない言葉を口先だけで発していたはずだ。
 ベルンハルトとのやり取り、そして旅の最中の御者とのやり取り、さらにこの執事とのやり取り。その全てがリーゼロッテに、ロイスナーでの暮らしが楽しいものになる予感を感じさせてくれる。

「ん゛ん゛っ」

 執事とリーゼロッテが笑い合っているところへ、突然くぐもった咳払いが聞こえてきた。
 二人で顔を見合わせて咳払いに耳を澄ませれば、どうやら扉の向こうから聞こえてきたことがわかる。
 扉の奥にいるのは、ベルンハルトのはずだ。リーゼロッテを連れて、早く入ってこいとの催促のつもりだろうか、ベルンハルトの咳払いの意図を読んだ二人は、更に笑いを深める。

「ベルンハルト様。リーゼロッテ様をお連れしました」

 執事がすました声を作り、扉の向こうへと声を上げるのを聞けば、リーゼロッテはそのギャップに更に笑いが酷くなった。

「通してくれ」

 咳払いで催促をしていたくせに、ベルンハルトのすました声に、リーゼロッテはそろそろ我慢の限界を迎えそうである。
 大きな声を上げて笑い出してしまいそうなのを、なんとか堪えて、開かれた扉の向こうへと足を踏み入れた。

「ロイエンタール伯爵。大変遅くなりました。これから、よろしくお願い致します」

 扉を入って真っ直ぐ、部屋の突き当たりには大きな窓が付けられていた。その窓を背にして、直ぐ前の大きな机がベルンハルトの執務机だろう。
 いくつもの書類が積み上げられたその机を見れば、ベルンハルトの仕事の忙しさを垣間見ることができる。
 ベルンハルトがリーゼロッテの着替えを待たずに挨拶に来る様に言ったのは、改めてゆっくり時間をとることができないからかもしれない。

 執務机の前に立ち、リーゼロッテの挨拶を受けたベルンハルトの顔には、やはり仮面が付けられていて、自らの城であってもそれを外すことはないということがわかる。

(やっと素顔を見られると思っていましたのに)

 仮面の下の素顔が気になって仕方ないリーゼロッテは少し気を落とすが、その仮面の下を暴くのもまた楽しみの一つだと、即座に思考を切り替えた。

「こちらこそ、よろしく頼みます。それから、私のことはベルンハルトと呼んでください。いつまでもロイエンタール伯爵では……」

「わかりました、ベルンハルト様。わたくしのこともリーゼロッテとお呼びください」

「それは……」

「かまいません。ベルンハルト様は既にわたくしの、旦那様なのですから」
 
 リーゼロッテがすぐにベルンハルトの名を呼び微笑みかければ、仮面の白さと対照的に、その耳の赤さが目立って見える。

「し、城の中のことは、そこにいるアルベルトに聞いて下さい。アルベルト、後は頼む」

 リーゼロッテのことを案内していてくれた執事はアルベルトというらしい。
 ベルンハルトの言葉を聞いたアルベルトが静かに頷くと、それを見届けたベルンハルトはすぐに机に向かってしまった。
 温室や、婚約披露のときの様に穏やかに話ができると思っていたリーゼロッテは、ベルンハルトの態度に少しがっかりしながらも、書類の山に向き合うベルンハルトのことを頼もしく思う。

「リーゼロッテ様。お部屋にご案内いたします」