規制されてしかるべき私達の

 ——金曜日 放(ほう)課(か)後(ご)  和佳(わか) 治正(はるまさ)


 まるで新築(しんちく)のように清潔(せいけつ)な香りがするロビー。
 最新のテクノロジーを感じさせるエレベーター。
 洗練(せんれん)されてシンプルなのに、温(ぬく)もりのある装飾(そうしょく)が施(ほどこ)された廊下(ろうか)。
 クラスメイトの家というよりも、大(だい)企業(きぎょう)のオフィスにでも招(まね)かれたみたいで、俺は完全(かんぜん)に委縮(いしゅく)してしまっていた。
 そして、一番奥(おく)の部屋の前で星見さんは足を止めると、鍵(かぎ)を使わない未知(みち)の仕組(しく)みで開錠(かいじょう)する。
 ついに、その扉(とびら)が開(ひら)かれた。

「おおおお邪魔(じゃま)致(いた)します! この度(たび)は、怪我(けが)のお手当(てあ)てをしていただきに」
「あ、誰もいないから。お母さん、今日遅(おそ)くて……、まだまだ、帰(かえ)らないから」

『今日、うち、親居(い)ないんだ』

 それは、甘(あま)酸(ず)っぱいときめきをもたらす、男子憧(あこが)れの殺し文句(もんく)。
 のはずなのだけれど、鞄(かばん)を二つも抱(かか)えて疲労(ひろう)困憊(こんぱい)の彼女の声に、そんなドキドキ要素(ようそ)は微塵(みじん)も感じられなかった。
 心拍(しんぱく)数(すう)に限(かぎ)っては、ずいぶんと上(あ)がっている様子(ようす)だけれども。
 彼女はヨロヨロとリビングに荷物(にもつ)を置(お)くと、制服(せいふく)のポケットの中身(なかみ)をテーブルの上に並(なら)べた。
 そして、ぼんやりと天井(てんじょう)を見上(みあ)げて、立(た)ち尽(つ)くしていた。
 意地(いじ)を張(は)って俺のリュックを背負(せお)い続けたものの、思っていた以上にハードだったのだろう。
 なにせ、あのリュックは十五キロある。
 そして俺も、女の子の家でどう立(た)ち回(まわ)れば良いのか全(まった)く見当(けんとう)がつかず、玄関(げんかん)に立(た)ち尽(つ)くしていた。

「何してるの? 上(あ)がって」

 やっと振(ふ)り返(かえ)ってくれた星見さんが、呼(よ)び掛(か)けてくれる。
 だけど俺は、まだ靴(くつ)を脱(ぬ)げなかった。

「いや、思ったんだけどさ。娘(むすめ)が男を家に上(あ)げたりしたら、お父さんが怒るんじゃないかな?」
「あぁ、……大丈夫だよ」

 少しの間(ま)があった。彼女の視線(しせん)が、少しだけ迷(まよ)うように揺(ゆ)れる。

「お父さん、私が物心(ものごころ)つく前に亡(な)くなってるから」

 ああ、そういうことだったのか。彼女の一瞬(いっしゅん)の躊躇(ためら)いが、とても身近(みぢか)に感じられた。

「うちと同じだね」
「え、そうなの?」

 微(かす)かな緊張(きんちょう)を示(しめ)していた彼女の頬(ほほ)が緩(ゆる)んで、柔(やわ)らかで素直(すなお)な声を出した。
 気の強(こわ)張(ば)りがほぐれたのが、見てとれた。

「うん。俺が産(う)まれてすぐに母親が病気(びょうき)で亡(な)くなってさ。少ししてから、父親もね」
「そっか。うちは、お母さんは元気。ほとんど家にはいないんだけどね」

 そっか、和佳くんは、ご両親(りょうしん)ともいないんだね。そう言ってすぐ、彼女は首を傾(かし)げた。
 そして、きょとん、とした不思議(ふしぎ)そうな表情で口を開(ひら)く。
 でも、それじゃあ和佳くんは

「どうして生きているの?」

 どうして、生きているの……?
 ん? え?
 まさか俺も、両親の後(あと)を追(お)え、と……⁉
 彼女の発(はっ)した疑問(ぎもん)が、頭の中でこだまして、混乱(こんらん)した俺の思考(しこう)は停止(ていし)した。
 そして目の前では、何故(なぜ)か彼女も停止していた。
 不思議といった表情で見合いながら、相手(あいて)の返答(へんとう)をひたすら待(ま)つ。
 凍(こお)り付(つ)いた空間(くうかん)の中で、お互(たが)いの首だけがゆっくりと横(よこ)に傾(かたむ)いていく。
 すると、彼女は徐々(じょじょ)に目を見(み)開(ひら)いて、口を大きく開(あ)けていった。
 驚愕(きょうがく)、といった表情(ひょうじょう)を示(しめ)した彼女は、ついに、声を発(はっ)してくれた。

「や、いや、違(ちが)、その、どうし……、どうやって、生(い)き、き」

 壊(こわ)れかけたロボットのようになりながら言葉を探(さが)す彼女を、見(み)守(まも)る。

「ご両親がいないのなら、……今は、どうやって暮(く)らしているの?」

 ああ、そういう意味だったのか。
 彼女の真意(しんい)に安心して、俺も口を開(ひら)く。

「母方(ははかた)の婆(ばあ)ちゃんが面倒(めんどう)見てくれてる。優しい婆ちゃんだよ」
「そうなんだ。優しいお婆ちゃん……。いいね」

 祖母(そぼ)が世話(せわ)をしてくれていることを伝(つた)えると、打(う)って変(か)わったように、お互いの緊張(きんちょう)が柔(やわ)らかにほどけた。
 それは、俺にとっては珍(めずら)しくて、新鮮(しんせん)なことだった。
 親がいない事を話すと、だいたい空気がぎこちなくなる。
 それが、いつも苦手(にがて)だった。
 だけど俺と星見さんなら、ただの自己(じこ)紹介(しょうかい)として、何(なん)の気(き)無(な)しに話せる。
 哀(あわ)れまれることも気の毒(どく)がられることもなく、純粋(じゅんすい)に自分の生(お)い立(た)ちを説明(せつめい)するだけ。
 だから、なんだか新鮮(しんせん)だった。たぶん、彼女もそうなのだろう。

「ねえ、いつまで玄関(げんかん)にいるの? 早く上(あ)がって。薬箱(くすりばこ)、すぐ用意(ようい)するから」

 疲(つか)れも休(やす)まったのか、少し元気づいた彼女に促(うなが)されて、俺は、いよいよ女の子の暮(く)らす部屋へと足を踏(ふ)み入(い)れる。
 ご両親は居(い)なくとも丁寧(ていねい)に頭を下(さ)げて、挨拶(あいさつ)を口にした。

「おじゃじゃします」

 しっかりと明瞭(めいりょう)に噛(か)んだ俺は、ついに廊下(ろうか)へと上がった。
 背筋(せすじ)を伸(の)ばして、周(まわ)りをジロジロと見(み)渡(わた)さないように配慮(はいりょ)し、首を固定(こてい)して歩く。
 すると、薬箱を探(さが)している星見さんが、微(かす)かに震(ふる)え出(だ)した。
 恐(おそ)らくあれは、俺の滑稽(こっけい)さを笑っているのだ。
 ギクシャクと廊下(ろうか)を行進(こうしん)してくる俺の姿(すがた)が、おもちゃの兵隊(へいたい)でも彷彿(ほうふつ)とさせたのだろう。
 顔を見なくてもわかる。
 男子ってのは、女子の笑(わら)いに敏感(びんかん)なのだから。
 だけど、それで良かった。
 俺は、不躾(ぶしつけ)な男と思われるよりは、不(ぶ)器用(きよう)な紳士(しんし)として在(あ)りたい。
 例(たと)えそれが、不審(ふしん)人物(じんぶつ)にしか見(み)えないとしても、だ。
 そうしてリビングに辿(たど)り着(つ)いたものの、俺の緊張(きんちょう)は思っていた以上に極(きわ)まっていた。
 女の子の部屋で、いつどこに座(すわ)って良(い)いのかが、わからない。
 思えば、高校入試(にゅうし)の面接(めんせつ)試験(しけん)では、促(うなが)されるまで座ってはいけなかった。
 あれがマナーの正解(せいかい)だとすれば、今は立(た)ち尽(つ)くすのが正解か?
 再(ふたた)び棒(ぼう)立(だ)ちで停止(ていし)していると、薬箱(くすりばこ)を見つけた星見さんが、やっと振(ふ)り向(む)いてくれた。

「え、なんで立ってるの? 座りなよ。ふふ、着席(ちゃくせき)着席(ちゃくせき)」

 俺の挙動(きょどう)に引(ひ)いたりせず、笑(わら)いながら言ってくれたことに安心する。
 ただ、星見さんが着席と言いながら、犬にお座(すわ)りを指示(しじ)するようなハンドサインをしたことが気になった。
 おそらく、俺はいま彼女の中で、『男子』というカテゴリーから、『マスコット』的なカテゴリーへと降格(こうかく)されたのだ。
 まあ、別(べつ)に良いのだけれども。
 床(ゆか)に腰(こし)を下(お)ろすと、星見さんは薬箱を開(ひら)き、消毒(しょうどく)液(えき)と絆(ばん)創(そう)膏(こう)を取り出して、固(かた)まった。
 彼女の首が極(ごく)僅(わず)かに傾(かたむ)く。
 あれ、どうするんだっけ……? とでも思っているのだろう。
 たぶん、彼女は傷(きず)の手当(てあ)てをし慣(な)れていない。
 そんなふうに読(よ)み取っていると、彼女は急(きゅう)に顔を上(あ)げた。

「和佳くん、まずは傷口(きずぐち)を洗(あら)おう。そこのシンクでいいから」

 星見さんは、いかにも手慣(てな)れているかのような口(くち)振(ぶ)りで、座(すわ)ったばかりの俺をシンクへと立(た)たせた。
 そして俺が手を洗(あら)い始(はじ)めると、その隙(すき)を狙(ねら)ったかのように、パントマイムの要領(ようりょう)で手順(てじゅん)の確認(かくにん)をし始(はじ)める。
 傷口に消毒(しょうどく)液(えき)を掛(か)け……、ティッシュで拭(ふ)いて……、絆(ばん)創(そう)膏(こう)を貼(は)る。
 その身振(みぶ)りを見た限(かぎ)り、全(まった)く問題(もんだい)はなさそうだ。
 安心(あんしん)して、俺は彼女のもとへと戻(もど)る。
 そして促(うなが)されるままに手を差(さ)し出(だ)すと、星見さんは傷口に消毒液を掛けた。

「んぐゥッ⁉ 痛(いた)ァッ‼」
「えっ、大丈夫(だいじょうぶ)⁉」

 予想(よそう)以上(いじょう)の強烈(きょうれつ)な刺激(しげき)に、思わず声を上(あ)げてしまう。
 だけど彼女の手際(てぎわ)には、何も落(お)ち度(ど)はなかった。

「ごめんごめんッ。はぁッ、久(ひさ)しぶりだからかな。思(おも)ってたよりも沁(し)みて、驚(おどろ)いたんだ。……たぶん、効(き)いてるんだろうね」
「あ、そうなんだ。効(き)いてるなら、良かった。じゃあ続けるね」

 そう言って彼女は、全(すべ)ての傷に消毒液をまんべんなく掛けていく。

「あッ、くーッ、効(き)く。これは効いてるなぁ」
「……ふふ、がんばって」
「……」
「……」
「あっ、ぐぅぅっ。いやぁ、効いてるね! これは、治(なお)りも早(はや)そうだ!」
「……良かった。ふふ、もう少しだけ、我慢(がまん)して」
「…………。ぐぉぉーっ、効くぅ!」
「……はは」

 俺が冗談(じょうだん)めかすように痛(いた)がると、星見さんは困(こま)ったように眉(まゆ)を下(さ)げて笑(わら)う。
 実際(じっさい)に激痛(げきつう)なのだけれど、俺はそれを堪(こら)えて、ひたすら嘘(うそ)っぽく呻(うめ)くしかなかった。
 そうしていないと、星見さんの表情はみるみる暗(くら)くなり、深刻(しんこく)そうになってしまう。
 たぶん、俺の傷(きず)を見て、罪悪(ざいあく)感(かん)に苛(さいな)まれているのだろう。
 私のせいで負(お)わせた怪我(けが)だ。
 そんなふうに思(おも)い詰(つ)めているのかもしれない。
 だからか彼女は、まだ血(ち)の滲(にじ)んでくる生傷(なまきず)までも、入念(にゅうねん)に手当(てあ)てしてくれた。
 消毒(しょうどく)液(えき)を細胞(さいぼう)の芯(しん)にまで浸透(しんとう)させるかのように、ティッシュを強(つよ)く押(お)し当(あ)ててくれる。
 白目(しろめ)を剝(む)くほど痛(いた)かった。
 そして、やっと絆(ばん)創(そう)膏(こう)を貼(は)ってくれた。
 剝(は)がれてしまわないようにと、とてもとても丁寧(ていねい)に、ぴっちりと。

「……はい、終(お)わったよ」
「助(たす)かったぁ‼」

 心の底(そこ)から叫(さけ)んでしまう。
 苦行(くぎょう)のような介抱(かいほう)からの解放(かいほう)に、思わずオーバーな歓声(かんせい)を上(あ)げてしまった。
 俺は慌(あわ)てて、誤魔化(ごまか)しの言葉を繋(つな)ぐ。

「いや、その、消毒液ってこんなに沁(し)みるんだね! 手当てしてもらうのなんて、小(ちい)さい頃(ころ)以来(いらい)だったから忘(わす)れてたよ」

 すると彼女も、共感(きょうかん)を示(しめ)すように小さく頷(うなず)いた。そうだよね、と。

「私も、最後(さいご)に手当てしてもらったのは保育(ほいく)園(えん)の頃かも。この消毒液も懐(なつ)かしいな」

 そう言って、幼児(ようじ)向(む)けキャラクターがプリントされた消毒(しょうどく)液(えき)の容器(ようき)を見ると、星見さんは優(やさ)しく目を細(ほそ)めて、すぐさま見(み)開(ひら)いた。
 真(ま)っ青(さお)な顔になった彼女が、急(きゅう)に飛(と)び掛(か)かってくる。

「嫌(いや)ぁぁぁ‼」 
「ギャアアアアアアアアアアアア‼」

 絶叫(ぜっきょう)する星見さんに絶叫する。
 彼女は俺の腕(うで)を掴(つか)むと、丁寧(ていねい)に貼(は)り付(つ)けたばかりの絆(ばん)創(そう)膏(こう)を乱(らん)暴(ぼう)に引(ひ)き剥(は)がし始(はじ)めた。

「痛(いた)アァッ‼ なんで⁉ 痛アァッ‼ なんで⁉ やめてェェ!」
「使用(しよう)期限(きげん)があったの‼ 九(きゅう)年前(ねんまえ)! この消(しょう)毒(どく)液(えき)、九年前に駄目(だめ)になってたの‼」

 驚愕(きょうがく)する俺の手を引(ひ)いて、彼女は無我(むが)夢中(むちゅう)でシンクへと走(はし)り出(だ)す。
 壁(かべ)に打(う)ち当(あ)たって何度(なんど)も弾(はず)む俺の身体(からだ)は、まるで子供(こども)に振(ふ)り回(まわ)される風船(ふうせん)のようだった。
 そして、冷(つめ)たい水道(すいどう)水(すい)が容赦(ようしゃ)なく傷口(きずぐち)に掛(か)けられる。
 白目(しろめ)を剥(む)くほど痛(いた)かった。

「どうしよう、早く治(なお)りますようにって、念(ねん)入(い)りに染(し)み込(こ)ませちゃったよぉ」

 星見さんが子供のように喚(わめ)いた。
 そして俺の傷口を擦(こす)り、絞(しぼ)り出(だ)すように抓(つね)って、毒液(どくえき)を体外(たいがい)に出(だ)そうと懸命(けんめい)に痛(いた)めつけてくる。
 噛(か)み殺(ころ)しきれない呻(うめ)きが俺(おれ)の口から漏(も)れる。
 その度(たび)に、彼女の焦(あせ)りは極(きわ)まってしまう。

「凄(すご)く痛(いた)がってたのって、期限(きげん)が切(き)れてたからなのかな⁉ 膿(う)んだりしたらどうしよう。病院(びょういん)……、和佳くん、病院に行こう?」 
「大丈夫‼ なんかもう、凄い大丈夫だよッ‼」

 急(きゅう)ごしらえの笑顔(えがお)を貼(は)り付(つ)けて叫(さけ)び、彼女の荒(あら)療治(りょうじ)から自分の腕(うで)を救出(きゅうしゅつ)する。
 自前(じまえ)のタオルハンカチで腕(うで)を包(つつ)むと、ジンジンと泣(な)きじゃくるように傷(きず)が疼(うず)いていた。
 ヤンキーにやられた時よりも、ずっと酷(ひど)い。
 疲弊(ひへい)のままに、リビングの床(ゆか)へと座(すわ)らせてもらう。
 すると、へたり込(こ)むように星見さんも壁際(かべぎわ)に腰を下(お)ろした。

「私、いつも……」

 俯(うつむ)く彼女の口から、本当に微(かす)かな独(ひと)り言(ごと)が落(お)ちた。
 膝(ひざ)を抱(かか)え、涙(なみだ)を塞(せ)き止めるように固(かた)く瞼(まぶた)を閉(と)じ、握(にぎ)った手を額(ひたい)に押(お)し当(あ)てている。
 今にも自分の頭を殴(なぐ)り出(だ)しそうなほど、身体を強張(こわば)らせながら。
 だけど、両肩(りょうかた)は力(ちから)無(な)く下(さ)がり、落胆(らくたん)するような呼気(こき)が漏(も)れている。
 酷(ひどい)い自己(じこ)嫌悪(けんお)に苛(さいな)まれているのだろう、ということが見てとれた。
 おそらく暗(くら)い気持ちに心が呑(の)まれ過ぎて、俺が見ていることにも気付いていない。
 暮(く)れ始(はじ)めた陽(ひ)が、カーテンを褐色(かっしょく)に染(そ)めていく。
 外が仄(ほの)暗(ぐら)くなるにつれて、心の中まで陰(かげ)っていくようだった。
 じゃあ、俺そろそろ帰るね。
 なんて間違(まちが)っても言い出せない雰囲気(ふんいき)だった。
 どうしたものか、と視線(しせん)を泳(およ)がせていると、ふと、それが目に入った。
 星見さんがポケットからテーブルに出したスマートフォンの隣(となり)に、ライターと一緒に置(お)かれている、それが。

「あ。星見さん。もしも吸(す)いたければ、気にせずにそれ、吸ってよ」
「え……。あ、あっ。私、いつもの癖(くせ)で、出して、その、これは」

 慌(あわ)てる彼女を落ち着かせるために、出来るだけ柔(やわ)らかい発声(はっせい)を意識(いしき)する。

「大丈夫。俺の身近(みぢか)な人達も、いつも吸ってるからさ。だから変な偏見(へんけん)はないよ。これ、気分が良くなるんだろ?」
「……気分は、良くならないかな」
「え、美味(うま)いもんなんじゃないの?」
「うん。どちらかと言うと、不味(まず)いと思う」

 星見さんは箱(はこ)の中から一本抜(ぬ)き取ると、口にも咥(くわ)えずに、それをただ眺(なが)めた。
 正直(しょうじき)に言って、不味い、という意見(いけん)は新鮮(しんせん)だった。
 俺の周(まわ)りのおじさん達は、実(じつ)に美味(うま)そうに、それを吸うからだ。
 食後(しょくご)のそれを、食事(しょくじ)自体(じたい)より美味(うま)そうに吸うおじさんばかりだから。
 吸っていると味覚(みかく)が変わって、煙(けむり)が美味(おい)しく感じるようになるのかと思っていた。
 じゃあ、どうして吸うの? 俺がそう問(と)う前に、彼女は言葉を続けた。

「ただ、嫌(いや)な事ばかり考えてしまう時に、良いんだ」
「え、どういうこと?」

 その彼女の言葉は、実に興味(きょうみ)深(ぶか)かった。
 コレは美味(うま)いぞ、カツ丼よりも美味(うま)いぞ。
 そう言ってくるおじさん達なんかよりも、よっぽど俺の食指(しょくし)は動かされた。

「頭が回(まわ)らなくなって、ぼーっとして、考えられなくなるの」
「……それ、いいな。夜、寝(ね)る前とかに欲(ほ)しいな」

 共感(きょうかん)を口にした俺に、彼女は意外(いがい)そうに顔を上(あ)げた。

「あと、俺、シャンプーしてる時にも欲しいな」
「それは難易(なんい)度(ど)高(たか)くない?」

 そう言いながらも、彼女は頷(うなず)いた。でも、わかる、ベッドもお風呂(ふろ)も辛(つら)い、と。
 だけど、その表情は微(かす)かに明(あか)るかった。

「和佳くんが私と同じように感じてるなんて、意外。穏(おだ)やかで、暗(くら)い気持ちとは無縁(むえん)な人かと思ってたから」
「ひどいな。俺だって、頭の中が煩(わずら)わしくて辛(つら)い時はあるよ」

 俺も、夜の布団(ふとん)と風呂場(ふろば)は、強迫(きょうはく)的(てき)に自己(じこ)嫌悪(けんお)に襲(おそ)われる場所だ。
 一番苦(くる)しくて、一番誰(だれ)にも助(たす)けを求(もと)められない場所。
 ただただ堪(た)えるしかない、独(ひと)りの時間。
 何度も囚(とら)われて、これからも囚われ続けるのであろう、ぼんやりとした地獄(じごく)。
 互(たが)いに、シンパシーが通(つう)じ始(はじ)めたのを感じる。
 彼女は初(はじ)めて鏡(かがみ)を見た猫(ねこ)のように、興味(きょうみ)深(ぶか)そうに、艶(つや)やかな瞳(ひとみ)で覗(のぞ)き込(こ)んできた。
 
「和佳くんは、シャンプーの時、どんなふうに辛(つら)くなる?」

 そうだね……。そう言ってから、俺は素直(すなお)に打(う)ち明(あ)ける。

「今日はクレープを食べてた星見さんに、何故(なぜ)かウインクしちゃったことを思い出して、恥(は)ずかしさで死(し)ぬかな」

 確(たし)かにあれは変(へん)だった!
 そう微笑(ほほえ)む彼女に、男の子は緊張(きんちょう)すると変になっちゃうんだよ、と可笑(おか)しな言い訳(わけ)をしながら照(て)れ笑(わら)う。
 すると、腫(は)れた頬(ほほ)が引(ひ)き攣(つ)って痛(いた)み、俺はたぶん、とても酷(ひど)い顔になった。
 突然(とつぜん)、星見さんが立ち上がる。
 
「駄目(だめ)だ、私。こんなもの吸って、頭を鈍(にぶ)らせてる場合じゃない。そんなの、絶対(ぜったい)駄目」

 持(も)ってて! そう言って俺の手にそれを押し付けると、星見さんはシンクへと走った。
 そして、保冷(ほれい)剤(ざい)を二(ふた)つと、薄(うす)いタオルを掴(つか)んで戻(もど)ってくる。

「これなら大丈夫だから。私が試験(しけん)勉強(べんきょう)の時に毎回(まいかい)頭(あたま)に当(あ)ててるやつだから、安心して」

 保冷(ほれい)剤(ざい)をタオルで包(くる)むと、彼女は俺の目の前に屈(かが)んだ。
 花を思わせる清潔(せいけつ)な香りと柔(やわ)らかな生地(きじ)が、俺の顎(あご)から頭頂部(とうちょうぶ)へと沿(そ)わされる。
 そして、頬(ほほ)に保冷剤が当(あ)たるように調整(ちょうせい)して、結(むす)ぼうとしてくれている。だけど

「わ、ぁっ……」
「痛い?」
「いや、だ、大丈夫!」

 感嘆(かんたん)を漏(も)らしかけた口をすぐに閉(と)じる。
 その光景(こうけい)は、俺にはあまりにも刺激(しげき)が強(つよ)かった。
 目の前が、女の子の胸元(むなもと)でいっぱいになってしまったのだ。





 思わず眼(め)を閉(と)じるが、それも不自然(ふしぜん)だと思い、できる限(かぎ)り視線(しせん)を真下(ました)へと向(む)けて、俺は必死(ひっし)に紳士(しんし)を保(たも)った。
 だけど彼女のひんやりとした指(ゆび)が、無自覚(むじかく)に何度(なんど)も、俺の熱(ねつ)っぽく腫(は)れた頬(ほほ)をなぞる。
 その度(たび)に、俺の紳士(しんし)はタキシードをかなぐり捨(す)てようと転(ころ)げ回(まわ)るが、それを懸命(けんめい)に抑(おさ)え続け、そして、見事(みごと)に俺は耐(た)えきった。

「……お待(ま)たせ。結(むす)び方(かた)、きつくない?」

 強張(こわば)り過(す)ぎて口が固(かた)まってしまい、上手(うま)く答(こた)えられない。
 すると、ふっ、と笑(わら)って、星見さんは目を細(ほそ)めた。

「なんだか、……和佳くん可愛(かわい)くなっちゃった」

 ええっ⁉
 動揺(どうよう)のままに声を上(あ)げてしまったけれど、俺は、ちゃんとわかっている。
 今の可愛いは、異性(いせい)として向(む)けられた言葉ではない。
 マスコットに対(たい)する可愛いだ。英語ならファニーが近(ちか)いのだろう。
 そうわかっているのに、顔が赤(あか)らんでしまい、どうしても抑(おさ)えられなかった。
 苦(くる)し紛(まぎ)れに、手のひらで必死(ひっし)に扇(あお)いで冷(さ)まそうとする。

「え、大丈夫? タオル巻(ま)いたの暑(あつ)かった?」
「あ、ああ。いや、俺、人(ひと)一倍(いちばい)暑がりだからさ。気にしないで」

 そうなの? そう言って、彼女は立ち上がる。

「じゃあ、ベランダ開(あ)けるから、涼(すず)んで」

 ベランダの窓(まど)を開(あ)けると星見さんは、止(と)まった。
 彼女の金の髪(かみ)とスカートを風が揺(ゆ)らす。
 その涼やかな景色(けしき)に誘(さそ)われて、火照(ほて)った俺は、思わず隣(となり)へと歩(あゆ)み寄(よ)った。

「すごい……」

 彼女が、そう呟(つぶや)いた。
 その視線(しせん)の先を追(お)った時、俺は思わず、息(いき)を呑(の)んだ。
 眩(まばゆ)い夕陽(ゆうひ)が瞳(ひとみ)へと差(さ)し込み、俺の網膜(もうまく)に張(は)り付いていた不埒(ふらち)な残像(ざんぞう)を焼(や)き消(け)した。
 そして強(つよ)く吹(ふ)き込んだ春(はる)の夕風(ゆうかぜ)が、脳内(のうない)の煩悩(ぼんのう)を一気(いっき)に洗(あら)い流(なが)していく。
 浄化(じょうか)の火。
 そう思うほどの美(うつく)しい夕景(ゆうけい)が、いっぱいに広(ひろ)がっていたのだ。
 ふと、隣(となり)を見ると、彼女はこちらを向(む)いていた。
 何かに見入(みい)る子供のように、ぽかんと口を開(あ)けて。

「青春(せいしゅん)だ」

 あどけない表情(ひょうじょう)から、ぽとりと落(お)ちたその言葉に、じんわりと笑(わら)いが込(こ)み上(あ)げてくる。
 それでも、彼女は表情を変(か)えず、感(かん)じ入(い)るかのように、また景色へと視線(しせん)を戻(もど)した。
 目の前では、高校の校舎(こうしゃ)が温(あたた)かな夕空(ゆうぞら)に浸(ひた)っていた。
 グラウンドの運動(うんどう)部員(ぶいん)達(たち)も、帰路(きろ)ではしゃぐ生徒達も、皆(みんな)、一緒に浸(ひた)っている。
 吹奏(すいそう)楽(がく)部(ぶ)の奏(かな)でる曲や、響(ひび)いてくる笑(わら)い声までも、どこか朱色(しゅいろ)に感じるほどだった。
 全(すべ)て等(ひと)しく、夕焼(ゆうや)けに染(そ)まっていた。
 この景色(けしき)を眺(なが)めている、星見さんと俺も含(ふく)めて。
 彼女はまた、大切(たいせつ)そうに呟(つぶや)いた。

「これ、青春(せいしゅん)だよ……」

 初(はじ)めてクリスマスプレゼントを見つけた時、幼(おさな)い彼女は、こういう反応(はんのう)をしたのかもしれない。
 なんとなく、そう思った。
 その無垢(むく)な瞳(ひとみ)は、自分達を俯瞰(ふかん)から眺(なが)めて、感動(かんどう)しているかのようだった。
 今、私達は青春(せいしゅん)の中(なか)に居(い)るんだ、と。
 ただの女子高生が、そんな当(あ)たり前(まえ)のことを、信じられない、といった様子(ようす)で。

「私さ、高校でも嫌(きら)われてるよね」

 突然(とつぜん)の言葉に、思わず返答(へんとう)を見失(みうしな)ってしまう。
 間(ま)が空(あ)いてしまった。
 だからもう、下手(へた)な誤魔化(ごまか)しでは通用(つうよう)しないだろう。
 残念(ざんねん)なことに、全員(ぜんいん)にではないものの、それは事実(じじつ)だった。
 正確(せいかく)には、同級生のうち、三分の一くらいから彼女は疎(うと)まれている。
 小中学校の同窓生(どうそうせい)から根強(ねづよ)く嫌(きら)われていたらしく、入学当初(とうしょ)からすでに悪評(あくひょう)が広(ひろ)まっていたことも原因(げんいん)のひとつだろう。
 主(おも)に冷淡(れいたん)な話し口調(くちょう)が理由(りゆう)とされ、現(げん)に彼女の言葉(ことば)足(た)らずな言(い)い回(まわ)しは、その裏(うら)付(づ)けとなってしまっていた。
 そして、致命(ちめい)的(てき)となったのは、入学式後すぐに起(お)こしたクラスメイトとの口論(こうろん)らしい。
 詳(くわ)しくは知らないが、相手の子だけではなく、周囲(しゅうい)からも非難(ひなん)されるような発言(はつげん)をしてしまった、と聞いたことがある。
 さらに、極(きわ)め付(つ)けまであったのだ。
 その騒動(そうどう)の後日(ごじつ)、突然(とつぜん)、黒かった髪(かみ)を明るく染(そ)めて、ピアスまでして来たという話だ。
 今や、そのインパクトが一人(ひとり)歩(ある)きしてしまい、彼女を、周(まわ)りと調和(ちょうわ)する気の無い人、として孤立(こりつ)させてしまった。
 ただ、ここまで会話(かいわ)をした俺には、わかる。
 彼女は、ほとんどの場合、話す時に目が合わない。
 瞳(ひとみ)を斜(なな)め上(うえ)に移動(いどう)させたまま、言葉を口にしていることが多い。
 その癖(くせ)は、言葉を吟味(ぎんみ)してはいるが、間(ま)に耐(た)えられず、文章(ぶんしょう)を構成(こうせい)しきる前に声に出してしまっている可能(かのう)性(せい)が高い、と俺は思う。
 それは、気遣(きづか)いの無い人物ではなく、むしろ、気を遣(つか)いすぎる人物に見られる特徴(とくちょう)なのではないかと思

「やっぱりそうなんだ」

 しまった。
 脳内(のうない)に没頭(ぼっとう)していたせいで、無言(むごん)を肯定(こうてい)だと捉(とら)えられてしまった。
 慌(あわ)てふためく俺に、星見さんは笑(わら)った。

「でもさ。私いま、初(はじ)めて学校行きたいって思えたんだ」

 そう力(ちから)なく笑う彼女の横顔が、切(せつ)なかった。

「他(ほか)の皆がどう思ってたとしてもさ。俺はもう星見さんのこと、嫌(きら)いにはなれないよ」
「……本当?」

 なんの衒(てら)いもなく、本心から言葉を紡(つむ)ぐ。
 うん。星見さんは、嫌われるような心根(こころね)の人じゃないって、俺にはわかるから。

「それにさ、独(ひと)りでも通学(つうがく)し続けたのって、それだけで凄(すご)いことだって、俺は知ってる。強(つよ)い人なんだなって、尊敬(そんけい)するよ」
「強い人……」

 色(いろ)のない、純粋(じゅんすい)な声が彼女の口から溢(こぼ)れた。

「それは本当に嬉(うれ)しい。誰(だれ)かにそう思ってもらえてるのは、……本当に」

 沁(し)み入(い)るような声だった。
 そして彼女は、何(なに)かを切望(せつぼう)するような幼気(いたいけ)な瞳(ひとみ)で、俺を見た。

「和佳くん。もし良かったら、私と、……」

 躊躇(ためら)うように途絶(とだ)えてしまった、その言葉。
 その続きは、『友達になって欲しい』だ。わかっている。
 恋の告白(こくはく)が来るわけではない。
 俺はちゃんと、そうわかっていた。
 なのに、星見さんはハッとしたように眼(め)を見開(みひら)くと、その瞳(ひとみ)を潤(うる)ませた。
 そして、静(しず)かに手のひらで口元を覆(おお)う。
 まるで、何かに見惚(みと)れるかのように目を細(ほそ)め、眉尻(まゆじり)を下(さ)げていく。

「私と……、じゃなくて、その……」

 信じられないが、それはまさに、恋する女の子の仕草(しぐさ)だった。

「和佳くん……」

 胸(むね)が詰(つ)まるような呼気(こき)で、名前を呼(よ)ばれる。
 彼女の頬(ほほ)が、艶(つや)やかな瞳と金色(きんいろ)の髪(かみ)が、夕日で赤く照(て)らされている。
 それがあまりにも綺麗(きれい)で、儚(はかな)くて、だからこそ、俺は気付(きづ)くことができた。
 夕焼(ゆうや)けの魔法(まほう)に。
 今が、マジックアワーだということに。

「和佳くん、いきなりで、驚(おどろ)くと思うんだけど……」

 溢(あふ)れる感情を抑(おさ)え込もうとするような、可憐(かれん)な声。
 俺の気付きは、確信(かくしん)へと変わった。
 マジックアワー。
 日没(にちぼつ)後(ご)の僅(わず)かな間(あいだ)にだけ起こる奇跡(きせき)。
 赤と金(きん)の残光(ざんこう)が、未熟(みじゅく)な夜空の藍色(あいいろ)と淡(あわ)く混(ま)ざり、風景(ふうけい)を幻想(げんそう)的(てき)に染(そ)め上(あ)げる。
 世界を、全てを、最(もっと)も美(うつく)しく映(うつ)し出す魔法の時間だった。
 そんな情景(じょうけい)の中、俺達を包(つつ)む風(かぜ)には、ほのかに甘い春の香りまで満(み)ちていた。
 彼女は今、魔法に掛(か)かってしまったのかもしれない。

「もし…、もしも、よければ」
「だめだ、星見さん」

 俺は、誰かの想(おも)いに答える事が、絶対に出来ない。
 それでも彼女は、お願い、と言って、言葉を続けてしまう。
 その声は、可哀想(かわいそう)なくらいに震(ふる)えていた。

「それを、咥(くわ)えてみてほしい……」

 先(さき)ほど手渡(てわた)された、白(しろ)く細(ほそ)い紙巻(かみま)きを彼女は指(ゆび)差(さ)した。
 火(ひ)は着(つ)けなくていいから、と促(うなが)される。
 口元に持っていくと、刻(きざ)まれた葉(は)が甘く香る。
 どこか背伸(せの)びをした、ニヒルな匂(にお)いだった。
 魔法に掛かった彼女の瞳(ひとみ)には、少し大人(おとな)びた姿(すがた)の俺が映(うつ)っているのだろうか。
 戸惑(とまど)いながらも口に咥(くわ)えると、彼女は、悶(もだ)えるように自(みずか)らの身(み)を抱(だ)いた。
 そして、小さく息(いき)を呑(の)んだ。何度(なんど)も。

「ひ、……ひっ、あ」

 星見さんが、膝(ひざ)から崩(くず)れる。

「……ひ、ひ、あひっ、ごめ、ごめんっ、あひひ、やばい」

 もう、甘酸(あまず)っぱい空気は残(のこ)り香(が)すらなかった。
 それでも、念(ねん)のために確認(かくにん)しておく。

「星見さん。俺が、どう見えてるの?」
「虫歯(むしば)なのに、キャンディーを、我慢(がまん)できなかった子。……あひひひ」





 笑(わら)ってごめん、と苦(くる)しそうに何度(なんど)も彼女は謝(あやま)る。
 そして、俺と目が合う度(たび)に、その笑いは大きくなっていく。

「あひひひっ、和佳くん、その顔やめて」
「普通(ふつう)の顔なんだけど」

 ひいいっ、と奇声(きせい)を上(あ)げて、彼女はベランダに倒(たお)れ込(こ)んでしまった。
 たぶん、完全(かんぜん)に俺がツボにハマってしまったのだろう。
 もう何を言っても笑いを巻(ま)き起(お)こせそうだ。

「ごめんね、笑いが止(と)まらなくて。悪気(わるぎ)はないの。それは、わかって」
「うん。和佳(わか)は、わかってるよ」
「ダジャレぇ」

 息も絶(た)え絶(だ)えの彼女を見下(みお)ろしながら、静(しず)かに自嘲(じちょう)の溜(た)め息(いき)を吐(つ)く。
 顔にタオルを巻(ま)きつけた俺が、ニヒルな大人に見えるわけないじゃないか。
 虫歯(むしば)なのに棒付(ぼうつ)きキャンディーを我慢(がまん)できなかった食(く)いしん坊(ぼう)。
 きっとよく言(い)い得(え)ていることだろう。
 何がマジックアワーだよ。
 今日のシャワー中に悶絶(もんぜつ)する種(たね)が増(ふ)えてしまった。
 そんなへっぽこな時間も過(す)ぎて、濃紺(のうこん)が空(そら)を覆(おお)い始(はじ)めた頃(ころ)、ようやく星見さんも落(お)ち着(つ)いてきた。
 くたっと床(ゆか)に横(よこ)たわったまま、彼女は満足(まんぞく)そうに息(いき)をしている。
 
「こんなに笑(わら)ったの、生(う)まれてはじめて……」

 ありがとう、和佳くん。
 そう微笑(ほほえ)まれるも、微妙(びみょう)な気持ちだった。

「そういえば、さっき星見さん、何か言いかけてなかった? もし良かったら、って」
「あ、うん。和佳くん、私と友達になってほしいんだ」

 初(はじ)めの予想(よそう)通(どお)りの言葉に、どこか胸(むね)がほっとする。
 もちろん、俺でよければ。
 素直(すなお)にそう頷(うなず)く。

「……初(はじ)めて、友達できた」

 星見さんはそう呟(つぶや)くと、感慨(かんがい)深(ぶか)そうに、出来(でき)立(た)ての夜(よ)風(かぜ)を吸(す)い込(こ)んだ。

「あ、でも私、話すの下手(へた)だからさ。周(まわ)りに他(ほか)の人がいるときは話しかけないでね。惨事(さんじ)になるから」

 大(おお)袈裟(げさ)な、と俺が笑うと、彼女は真剣(しんけん)な顔で眉(まゆ)を顰(しか)めた。

「本当だよ。ずっと大変だったんだから。……でも、それだと、学校ではほとんど話せないか……」
「じゃあさ。俺、毎朝(まいあさ)、今日と同じ時間に登校するよ。そうすれば朝くらいは話せるよ」

 それは助かる!
 そう明るくなった彼女の顔が、またすぐに陰(かげ)る。
 やっぱり朝だけじゃ足(た)りない、と。

「和佳くんは帰宅(きたく)部(ぶ)なんだよね? 放課(ほうか)後(ご)、一緒に遊(あそ)ぼう。またうちに来て」

 女の子の部屋に何度(なんど)も上(あ)がるのは気が引(ひ)けて、返答(へんとう)に詰(つ)まると、彼女は語気(ごき)を強(つよ)めた。

「明日も来て。明日は午前で授業終(お)わるし、たくさん話せる。お願(ねが)い。友達のお願い」

 承諾(しょうだく)を強要(きょうよう)するような圧(あつ)で迫(せま)られて、思わず頷(うなず)いてしまった。

「良かった。和佳くんとなら、私も結構(けっこう)普通(ふつう)に話せるみたいだから、たくさん話してみたいんだ」

 なんでだろうね、と言う彼女に、俺は眉尻(まゆじり)を下(さ)げて笑(わら)う。

「俺がマスコットみたいな見た目だから、安心(あんしん)できるのかもね。着(き)ぐるみみたいで、男子(だんし)として意識(いしき)しなくて済(す)むんじゃな」

 言葉の途中(とちゅう)で、息(いき)を呑(の)む。
 彼女は急(きゅう)に、俺の頬(ほほ)へと両手(りょうて)を伸(の)ばした。
 そして、肌(はだ)に触(ふ)れる寸前(すんぜん)のところで、その手のひらは止(と)まった。

「そうかな。和佳くん、顔のパーツは整(ととの)ってると思うけど。スマートになったら、モテる方かも」

 俺の広(ひろ)めのフェイスラインを覆(おお)い隠(かく)して、星見さんは微笑(ほほえ)んだ。
 思わず呼吸(こきゅう)を忘(わす)れてドギマギとしていると、ぐおおおっと、腹(はら)の虫(むし)が凶(きょう)暴(ぼう)な鳴(な)き声(ごえ)を上(あ)げてしまった。
 まさかの、彼女のお腹(なか)から。
 大丈夫。こういう時のフォローは慣(な)れている。
 俺という食(く)いしん坊(ぼう)キャラの活(い)かし所(どころ)だ。

「ごめんごめんっ、俺の腹(はら)が鳴(な)っちゃったよ!」
「? 今のは、私なんだけど……」
 
 星見さん、正直(しょうじき)な人だ。
 庇(かば)おうとした俺の手をすり抜(ぬ)けて、自(みずか)ら羞恥(しゅうち)の火へと飛(と)び込(こ)んだ彼女は、顔を真(ま)っ赤(か)にして悶(もだ)えている。

「そ、そうだったのか! どうりで俺にしては、か弱(よわ)い音(おと)だと思ったんだよ。俺ももう腹(はら)ぺこだな。夕(ゆう)飯(はん)時(どき)だね!」

 土壇場(どたんば)のフォローにしては、合格(ごうかく)点(てん)だろう。

「そうだね。じゃあ、物(もの)足(た)りないけど、今日は終(お)わりにしようか。……明日も、来てくれるんだもんね?」

 釘(くぎ)を刺(さ)すような圧(あつ)のある上目(うわめ)遣(づか)いで、彼女は首(くび)を傾(かし)げた。
 それに頷(うなず)くと、なら解放(かいほう)してあげましょう、とでも言うような身振(みぶ)りで、廊下(ろうか)への扉(とびら)を開(ひら)いてくれる。
 玄関(げんかん)に向(む)かう俺は、完全(かんぜん)に浮(うわ)ついてしまっていた。
 女の子から自分の存在(そんざい)を求(もと)められ、少しばかり容姿(ようし)を褒(ほ)められただけで、高揚(こうよう)してしまった心は、手を離(はな)れた風船(ふうせん)のようにフワフワと浮(う)いて戻(もど)ってこない。
 ほんのりとした余熱(よねつ)を、冷(さ)ますことができずにいた。

「ふふ。和佳くん大きいから、うちの玄関が小さく見える」

 そんな彼女の悪気(わるぎ)のない言葉に、心地(ここち)よい劣等(れっとう)感(かん)が戻(もど)ってくる。
 可笑(おか)しな期待(きたい)から覚(さ)めた目が、俺の生(い)きる現実(げんじつ)を映(うつ)し直(なお)した。
 足元(あしもと)の靴(くつ)を隠(かく)すほど出(で)っ張(ぱ)った、自分の腹(はら)を。
 俺は、この腹が好きだ。
 俺の在(あ)るべき生(い)き方(かた)を、いつも思い出させてくれるから。
 この腹は、俺が俺のために自(みずか)ら肥(こ)やしている、大切(たいせつ)な枷(かせ)であり、錨(いかり)だから。

「私も夕飯(ゆうはん)買(か)いに行(い)く」

 ちょっとごめんね。
 そう言って彼女は、俺の背中(せなか)にそっと触(ふ)れて、支(ささ)えにしながら靴(くつ)を履(は)く。

「だから、途中(とちゅう)まで一緒に行こう。やっぱり、もう少し和佳くんと話したいから」

 先(さき)ほどまでなら、その言動(げんどう)にも心を擽(くすぐ)られていただろう。
 だけど、今はもう大丈夫。
 彼女と自分との間(あいだ)に、交(まじ)わることのない線(せん)をちゃんと引(ひ)くことができるから。
 俺の人生から、恋愛(れんあい)に関(かん)する一切(いっさい)を放棄(ほうき)する。
 それだけは、絶対(ぜったい)に破(やぶ)ってはいけない事(こと)なのだから。