規制されてしかるべき私達の

「和佳(わか)くん……!」

 隣の席の、和佳治(はる)正(まさ)くん。
 傍(そば)に寄(よ)ると、彼は痛みに顔を歪(ゆが)めながら、震(ふる)える声を出した。

「星見(ほしみ)さん、無事(ぶじ)? 俺は、無事じゃないけど」
「和佳くん……、なんで、助(たす)けに入って来たの?」

 なんで……、と私の言葉を反復(はんぷく)するように呟(つぶや)いてから、彼は言葉を続(つづ)けた。
 ほら、昼休み、体育(たいいく)教官(きょうかん)室(しつ)で、星見さんも聞いてたろ?

「俺、宗道(むねみち)先生からプールの外周(がいしゅう)十周走るように言われててさ。で、来たらヤンキーが」
「違(ちが)う、そうじゃない!」

 私の口が、彼の言葉を遮(さえぎ)った。
 目の前では、暴力(ぼうりょく)とは無縁(むえん)そうな温和(おんわ)な男の子が、生々(なまなま)しい怪我(けが)を負(お)っている。
 それは目を覆(おお)いたくなるほど痛(いた)ましく、酷(ひど)く胸(むね)が締(し)め付(つ)けられた。それなのに

「なんで、弱いのに、入って来たの?」

 それなのに、また私の口は、想(おも)いの至(いた)らぬまま言葉を吐(は)き始(はじ)めた。

「やられっぱなしになるほど弱(よわ)いなら、助(たす)けになんて来ないほうがいい!」

 最低(さいてい)だ。
 この口は、何てことを言うんだろう。
 私を助けるために、彼は危険(きけん)に身(み)を投(とう)じて、傷(きず)ついているのに。
 それを、彼の自己(じこ)責任(せきにん)だとしようとしているのだろうか。
 だけど、確(たし)かに、無謀(むぼう)な善行(ぜんこう)によって倒(たお)れている彼に、お礼(れい)は言うべきではないのかもしれない。
 感謝(かんしゃ)すれば、彼は良(よ)かれと思って、また力の及(およ)ばない人助けをしてしまうかもしれないのだから。
 そうしたら、次は怪我だけでは済(す)まない可能性(かのうせい)だってある。
 だから、きっとお礼は言うべきではない。
 だけど、だったら、なんて言えば良いのだろう。
 優しくて弱い、彼のために。
 彼はただ黙(だま)って、静(しず)かに私の言葉の続(つづ)きを待(ま)っていた。
 慌(あわ)てたように、私の口が、もっともらしい言葉を並(なら)べ立てていく。

「善意(ぜんい)でも、無謀(むぼう)なことはするべきじゃない。これからは、力にそぐわない不(ふ)相応(そうおう)な行動(こうどう)は控(ひか)えないと、最悪(さいあく)の、場合(ばあい)は……」

 本当に、何様(なにさま)なんだ。私は。
 溜(た)め息(いき)と共(とも)に、彼の隣(となり)にへたり込む。
 必死(ひっし)になって助けた女の子から、こんな酷(ひど)いことを言われて、感謝(かんしゃ)すらもされない。
 そんな彼があまりに不憫(ふびん)で、流石(さすが)の私の口も言葉を見失(みうしな)い、喉(のど)を詰(つ)まらせた。
 罪悪(ざいあく)感(かん)に項(うな)垂(だ)れる私の膝元(ひざもと)で、彼は、何かを押(お)し殺(ころ)すように、眉間(みけん)に皺(しわ)を寄(よ)せていた。
 そして、私が完全(かんぜん)に閉口(へいこう)したのを見ると、思い切ったように彼は口を開(ひら)く。

「まず言わせてもらうけど」

 襲(おそ)い来る非難(ひなん)の言葉に、身構(みがま)える。

「俺は女の子と話す時、どうしても緊張(きんちょう)してしまうんだ」

 へ……? 罵声(ばせい)に備(そな)えていた私の口から呆(ほう)けた声が漏(も)れた。
だけど、真(ま)っ直(す)ぐに私を見る彼の目は、真剣(しんけん)そのものだった。

「特(とく)に気が強そうだったり、クールそうだったりすると、酷(ひど)いくらい緊張する。だから、そんな雰囲気(ふんいき)の星見さんと話すと、俺は挙動(きょどう)が変(へん)になる。……すでに変なんだろうけど」

 どうしようもないから、大目(おおめ)に見てほしい。
 そう言うと、彼は空(そら)を仰(あお)ぎ見(み)て一息(ひといき)吐(つ)き、震(ふる)える声のまま話し続けた。

「星見さんに言われた通(とお)り、荒事(あらごと)も全然(ぜんぜん)ダメなんだ。恐(こわ)くて動けなくなったよ。昔(むかし)から、弱いんだ、俺。恥(は)ずかしいけど」

 挙動が変になったのは私の方だった。
 自分は弱い。
 そう伝(つた)えてきた彼の瞳(ひとみ)が、むしろ、とても強(したた)かに見えたからだ。
 弱さを見せたら、標的(ひょうてき)にされる。
 ずっと、そう信じてきた。
 だから私は今日まで懸命(けんめい)に、強(つよ)そうな自分を繕(つくろ)って生きてきたつもりだった。
 だけど、それも、やはりハリボテでしかなかったのだ。
 いざとなると私は、力で抑(おさ)え込(こ)まれ、言い返(かえ)す言葉も失(うしな)い、戦意(せんい)すら手(て)放(ばな)してしまう。
 それほどまでに弱い人間なのだと、今日、自(みずか)ら証明(しょうめい)してしまったのだから。
 だけど、彼はそうではない。
 弱い人間であると自覚(じかく)しながら、正面(しょうめん)から暴力(ぼうりょく)の中へと飛(と)び込み、助(たす)けに入ってきた。
 私の知る、単純(たんじゅん)な弱さとは違(ちが)う。彼の言う弱さには、何か、知らない力を感じた。
 静(しず)かな衝撃(しょうげき)が心にひろがっていく。

「星見さん、突然(とつぜん)なんだけど……」

 彼の大きな手のひらから、小さなチョコが一つ、ころんと私の手のひらに転(ころ)がった。

「……何、これ?」
「今朝(けさ)のホームルームの前に、星見さんがいらないって断(ことわ)ったチョコ」

 ッハ、いらない。嘲笑(ちょうしょう)するかのような嫌味(いやみ)っぽい自分の声音(こわね)が、頭の中に響(ひび)いた。
 せっかくの親切(しんせつ)を、失礼(しつれい)な言い方で断ってしまった今朝のことを思い出す。
 だけど、どうして今、断ったチョコを、私に?
 いまいち意図(いと)の掴(つか)めない私に、彼は言葉を続けてくれた。

「あれから休み時間の度(たび)に、申(もう)し訳(わけ)なさそうに俺達のこと見てたよね」

 思わず、ドキリと心臓(しんぞう)が跳(は)ねる。
 それは、事実(じじつ)だった。私はずっと、弁明(べんめい)の機会(きかい)を窺(うかが)っていたのだ。
 あの言い方は不(ふ)本意(ほんい)だった。悪気(わるぎ)は無かった。だから、傷つかないでほしい。
 願(ねが)わくば、嫌(きら)わないでほしい。
 そう伝えられるチャンスを待ち、上手(じょうず)な会話を脳内(のうない)で繰(く)り返(かえ)しシミュレーションしながら、こそこそと彼らを盗(ぬす)み見ていたのだ。
 結局(けっきょく)、勇気(ゆうき)が出ず、何も言えないまま今に至(いた)る。
 だけどまさか、そんな情(なさ)けない心情(しんじょう)を読み取られていただなんて。
 どぎまぎとする私に、彼は、やっぱりね、と微笑(ほほえ)んだ。

「本当は、チョコ食べたかったんだよね。俺にはわかるよ」







「そんないやしい理由じゃないよ‼」

 顔から火を噴(ふ)きそうだった。
 そんな勘違(かんちが)いをされていたなんて。
 そんな食(く)いしん坊(ぼう)みたいに見られていただなんて。
 自分では澄(す)まし顔でやり過(す)ごしているつもりだっただけに、余計(よけい)に恥(は)ずかしい。
 取(と)り乱(みだ)した私の喉(のど)から、突発(とっぱつ)的(てき)に声が飛(と)び出してくる。

「私が見てたのは、チョコ断(ことわ)る時に酷(ひど)い言い方で、しょんぼりさせちゃったから、悪気は無かったって、伝えられたらって」

 しどろもどろになりながら慌(あわ)てる私に、彼は優(やさ)しく目を細(ほそ)めた。
 ごめんごめん、冗談(じょうだん)だよ。

「そうかなって思ったんだ。だから、話す機会(きかい)を作ってあげたかったんだけど、俺も上手(うま)く出来なくてさ。きっかけになればと思って、そのチョコ、食べるの我慢(がまん)してたんだ」

 生(う)まれて初(はじ)めて食欲(しょくよく)を制御(せいぎょ)できたよ、俺。
 そう言って、冗談っぽく柔(やわ)らかに笑(わら)う。
 そんな彼につられて、つい、私の口角(こうかく)も上(あ)がっていた。
 すると不意(ふい)に、動揺(どうよう)も相(あい)まって勢(いきお)いのついた私の心が、何かを搾(しぼ)り出した。
 それは、喉(のど)に詰(つ)まった凶器(きょうき)のような言葉達の隙間(すきま)を縫(ぬ)って流(なが)れて、声となった。

「私、人と上手(うま)く話……、嫌(いや)……」

 だけど、直前(ちょくぜん)で喉が塞(せ)き止(と)めてしまう。
 自分の弱さを他人(ひと)に打(う)ち明(あ)けるのは、酷(ひど)く怖(こわ)かった。
 例(たと)えるなら、飢(う)えた獣(けもの)の鼻先(はなさき)に、血(ち)の滴(したた)る傷口(きずぐち)を晒(さら)すような恐怖(きょうふ)心(しん)。
 大(おお)袈裟(げさ)な比喩(ひゆ)だとは思うけれど、だけど、とても近いと感じる。
 それでも、静(しず)かに私の言葉を待ってくれている彼を見ていると、ぽろぽろと、少しずつ声は溢(こぼ)れてきた。

「私は、嫌なんだ。誰かが傷つくの。怪我(けが)でも、心でも。でも、私が傷つけるほうが、ずっと多くて」

 頭が文章(ぶんしょう)を構成(こうせい)するよりも先(さき)に、声になってしまう。

「傷つけて、でも、なにもできないから、むしろ悪化(あっか)させて、……だから、もう、全部、嫌なことにしかできなくて」

 意味(いみ)が通(つう)じないことを言っていると、わかっている。
 それなのに、彼が頷(うなず)いてくれる度(たび)に、言葉が引き出されてしまう。
 息継(いきつ)ぎも忘(わす)れて、私は話し続けてしまう。

「でも、一番嫌なのは、優しい人が酷(ひど)い目に遭(あ)うこと。それなら私だけ怪我してた方(ほう)が、ずっと良(い)い。だから、和佳くんみたいな人が痛い目に遭うのは、本当に辛(つら)いから」

 ずっと胸に溜(た)まっていた言葉達が、水のように流(なが)れていく。
 それに押(お)されて、奥底(おくそこ)に沈(しず)んでいた本音(ほんね)も転(ころ)がりだした。

「だから、和佳くん。……もう怪我してまで誰かを助けようとしないで!」

 素直(すなお)な想(おも)いを、私の憎(にく)まれ口が叫(さけ)んだ。
 息が切れて、痺(しび)れたように指先(ゆびさき)が震(ふる)える。
 空(から)っぽになった胸の奥に、新しい空気が流れてくる。
 少し甘くて、ほどよく湿(しめ)った春のにおいが、胸に満(み)ちていく。

「心配(しんぱい)してくれてありがとう、星見さん。俺、ちゃんと心(こころ)掛(が)けるよ」

 和佳くんがそう頷(うなず)くと、どうしてか急(きゅう)に、涙(なみだ)が込(こ)み上(あ)げてきた。
 私の言葉を受(う)け入(い)れてくれた彼に対(たい)する、温(あたた)かな想い。
 それと共に、まるで正(せい)反対(はんたい)の感情(かんじょう)まで湧(わ)き上がってくる。
 あの不良(ふりょう)達に何もできなかった悔(くや)しさと殺意(さつい)が、なぜか今更(いまさら)になって押(お)し寄(よ)せてくる。
 清濁(せいだく)合(あ)わさった激流(げきりゅう)が胸で暴(あば)れて、込み上げて、目が潤(うる)んでしまう。

「えっ! 星見さん、どこか痛むの? 泣(な)っぐ!」

 彼の口に、さっきもらったチョコを少し乱暴(らんぼう)に押(お)し入(い)れた。
 涙ぐんでしまったことに、言及(げんきゅう)されたくなかったから。

「これ、話を聞いてくれたお礼(れい)。無(む)鉄砲(てっぽう)に助けてくれた事へのお礼じゃないよ? それについては、心配だから何も言えない。あと、泣いてないから」

 すっきりとした心のおかげだろうか。
 いつもと違(ちが)って、すんなりと自然(しぜん)に言葉が出てくる。
 声も、高圧(こうあつ)的(てき)な感じじゃない気がする。

「和佳くんこそ怪我は大丈夫(だいじょうぶ)? 立てそう?」
「……あー、うん」

 そう頷(うなず)いたものの、立ち上がろうと力を込めた途端(とたん)に、彼の膝(ひざ)はガクガクと震(ふる)える。

「膝がフニャフニャするな……。俺、まだ星見さんに緊張(きんちょう)してるのかな」
「え? そっち?」

 怪我とかじゃなくて、私?
 そう驚(おどろ)くと、彼は力無(な)く笑った。

「恥ずかしいけど、昔からの性分(しょうぶん)で……。俺、緊張が手足にくるんだよね」

 緊張で手足が震える。それは理解できる。
 だけど、私には納得(なっとく)できない部分(ぶぶん)があった。

「……今朝、私がクレープ食べてる時は平気(へいき)で話しかけてきたのに?」

 とても驚かされた今朝のことを、実は少し恨(うら)めしく思っている。
 クレープを頬張(ほおば)った膨(ふく)れ顔を見られながら、何度(なんど)も話しかけられたことを。
 じとりと睨(にら)むと、彼は慌(あわ)てたように顔の前で手のひらを振(ふ)った。
 いやいやいや! あれは特別だよ! だって

「凄(すご)く幸(しあわ)せそうに食べてたのに、急(きゅう)に思い詰(つ)めた様子で項(うな)垂(だ)れたから、心配になった」
「えっ⁉」

 再(ふたた)びドキリと跳(は)ねる心臓(しんぞう)を抑(おさ)える間(ま)もなく、彼は勢(いきお)いよく話し続ける。

「休み時間に仲(なか)直(なお)りしようと俺たちのほう見てた時もさ! 授業(じゅぎょう)開始(かいし)のチャイムが鳴(な)る度(たび)に、やたら深刻(しんこく)そうに気落(きお)ちしてたじゃん⁉」
「えっ、嘘(うそ)。ちょ、ちょっと、まっ」

 なんで私の澄(す)まし顔の奥(おく)が筒(つつ)抜(ぬ)けなの⁉
 その焦(あせ)りを冷(さ)ます間(ま)もくれずに、彼は私の羞恥(しゅうち)の火に薪(まき)をくべ続ける。

「昼休みだって、寂(さみ)しそうな背中(せなか)で足早(あしばや)に教室を出てくから心配したよ! 体育教官室に居(い)るの見て、安心したけどさ。あとは」
「待って! もういい! もういいから!」

 抑(おさ)え込(こ)んでいたつもりの陰気(いんき)な感情が、実(じつ)は駄々(だだ)洩(も)れだったなんて、耐(た)えられない。
 学校では、ずっと澄(す)まし顔でやり過(す)ごしているつもりだったのに。
 いや、私の澄まし顔は、他人(たにん)から見れば、しかめっ面(つら)のはずだ。
 ずっとそう言われてきたし、それで嫌(きら)われてきた。
 そして、自分から見ても間違いなく、嫌味(いやみ)なしかめっ面だった。
 怪訝(けげん)そうに眉(まゆ)を顰(ひそ)め、口を引(ひ)き結(むす)んだまま、ほどけなくなった自分の顔。
 それを、嫌(いや)というほど手洗(てあら)い場(ば)の鏡(かがみ)で見てきたのだから、よくわかっている。
 だからこそ、諦(あきら)めつつも、どこか、安心していたのに。
 羞恥(しゅうち)に呻(うめ)きながらも、彼に尋(たず)ねる。

「私って、周(まわ)りから見て、そんなにわかりやすかったの……?」
「いや、どうかな。星見さんは見えにくいというか……わかりにくいほうの人だと思う」

 じゃあ、どうして?
 そう聞くよりも早く、彼は、私の足元を指(ゆび)差(さ)した。
 だけど、その指の先には何もない。
 何の変哲(へんてつ)もない、私のローファーだけ。

「俺は、ちょっと理由(りゆう)があって、変に気付きやすいんだ。その、爪先(つまさき)とか?」
「え……」
「今、足の指先でさ。靴(くつ)の中を揉(も)むみたいに、ぎゅっぎゅっ、てしてるでしょ?」
「あ……」

 確(たし)かに、恥(は)ずかしさを堪(こら)えようとして、私の爪先は言われた通りの動作(どうさ)をしていた。
 だけど傍目(はため)には、本当に極(ごく)微(わず)かに、ピク……とローファーの先端(せんたん)が動く程度(ていど)だった。

「そういうちょっとした仕草(しぐさ)でも、俺、なんとなく察(さっ)せる時があるんだよね」

 なるほど。きっと彼が特別(とくべつ)に目(め)ざといのだろう。
そうじゃないと、私はもう日常(にちじょう)に耐(た)えられない。

「本当は、緊張も焦(あせ)りも手に出やすいんだけどさ。顔に触(ふ)れたり、身体を守(まも)るように前で組(く)んだり、指を揉(も)んだり。だから星見さんは、わかりにくいほうの人だと思う」

 わかりにくいほうの人。その単語は、やけにしっくりと胸に落ちた。
 それはきっと、母の教育のたまものだ。
 小学生の頃に、口元に触(ふ)れる癖(くせ)も、指いじりも矯正(きょうせい)されたから。
 おかげで幼(おさな)くして、しっかりした人の形(かたち)、だけは保(たも)てるようになったと自負(じふ)している。
 それと同時(どうじ)に、よくわからない子として周(まわ)りから扱(あつか)われ始(はじ)めたことも、今、自(じ)覚(かく)した。

「……私のことはもういいよ。和佳くんの怪我は? 大丈夫?」
「うん。大丈夫。これくらいの怪我なら、そんなに心配するほどのものじゃないよ」

 そう言うものの、その落ち着いた話し方とは違い、彼の手足は今も酷(ひど)く震(ふる)えていた。

「でも、和佳くん、手の震え凄(すご)いよ……」
「うん……。なかなか収(おさ)まらないな」

 震えているだけじゃなく、その手は可哀想(かわいそう)なくらいに強張(こわば)って見えた。

「私みたいな女子と話すと、酷く緊張(きんちょう)するって言ったよね? それで震(ふる)えるって」

 思春期(ししゅんき)の男子が女子に緊張する理由と言ったら、きっと主な原因(げんいん)は一つだろう。
 それは、異性(いせい)として、恋愛(れんあい)の対象(たいしょう)として意識(いしき)してしまうから。
 だから私は、迷(まよ)いながらも、彼の緊張をほぐしたい一心(いっしん)で、重(おも)い口を開(ひら)いた。

「あの、私、助けてもらったからって、好きになったりとかはしないから、緊張しなくて大丈夫だと思うよ」

 自(じ)意識(いしき)過剰(かじょう)で自惚(うぬぼ)れに満(み)ちた言葉に、強い抵抗(ていこう)を感じながらも、なんとか声に出す。
 すると、ハッとした様子で彼が顔を上(あ)げた。えっ? ああ、気遣(つか)わせて、ごめん!

「でも、この緊張はそういう問題じゃないんだ。俺、生涯(しょうがい)恋愛(れんあい)する気ないから」

 生涯恋愛する気がない?
 そんな男子高校生らしくない言葉に踏(ふ)み込(こ)む間(ま)もなく、彼は言葉を続けてしまった。
 この震えはさ、女の子に対する緊張だけじゃなくて、さっきの荒事(あらごと)にまだビビってるってのもあるんだ。

「でも、怪我は本当に大(たい)した事ないからさ。星見さん、もう先(さき)に帰って大丈夫だよ」
「え」

 そう言われても、彼の頬(ほほ)は間違いなく、痛々(いたいた)しく真(ま)っ赤(か)に腫(は)れている。
 血の滲(にじ)む擦(す)り傷も、あまり大丈夫とは思えなかった。
 一人で帰るわけにはいかない。

「保健室(ほけんしつ)行くよ、和佳くん。鈴成(すずなり)先生に診(み)てもらおう」

 そう言った瞬間(しゅんかん)、彼の顔色(かおいろ)が急変(きゅうへん)した。

「えっ! 鈴成先生⁉ いや、ごめん! あの人は駄目(だめ)なんだ!」

 保健室へ促(うなが)した途端(とたん)、急に彼は強い拒絶(きょぜつ)を示(しめ)し、焦(あせ)りだした。

「どうして? 手当(てあ)てはした方が絶対(ぜったい)いいよ。万(まん)が一(いち)があったらいけないし」
「いやいや、絶対に駄目! 俺も、もう帰るから大丈夫だよ! ほら見て! なんかもう勢(いきお)いで立てちゃったからさ!」

 どうして鈴成先生を拒(こば)むのか聞く間も無く、彼は突如(とつじょ)立ち上がって歩きだした。

「そんなっ、帰せるわけないでしょ。なんとかさせて。私の気が済(す)まないから!」

 彼を引き止めようと、慌(あわ)ててしがみつく。
 そんな私の身体が、軽々(かるがる)と宙(ちゅう)に浮(う)いた。

「んぉおおお⁉」
「うわっ! 星見さん、危(あぶ)ないよ! 手を痛(いた)めてしまうよ!」

 とても変な叫(さけ)びが出てしまった。
 力で彼を引き止めるのは無理だ。体格(たいかく)差(さ)がありすぎる。
 そう悟(さと)った刹那(せつな)、私の口が咄嗟(とっさ)の発案(はつあん)をした。

「わかった! 私の家で手当てする! 凄(すご)く近いから!」
「お、おお、女の子の家に上(あ)がれるわけないだろう!」

 彼は、やっと足を止(と)めてくれた。

「それに、簡単(かんたん)に男を家に上(あ)げたら危ないよ⁉」

 慌てながらも、彼は完全(かんぜん)に立ち止(ど)まった。
 畳(たた)み掛(か)けるなら今だ。

「和佳くんだから特別。宗道先生が、和佳くんは悪い事しないって言ってたから!」

 あいつが悪い事するわけないだろう! 昼休み、宗道先生はそう断言(だんげん)していた。

「だから、私はそれを信じる。和佳くんは、宗道先生と私の信頼(しんらい)を裏(うら)切(ぎ)ってまで、悪いことをしようとする人じゃないんでしょう?」

 いや、そうだけど、でも……。そう言って、まごまごとする彼の横を走り抜(ぬ)ける。
 そして、彼が助けに来た時に放(ほう)り投(な)げたリュックを、人質(ひとじち)のように抱(かか)え込んだ。

「私の部屋(へや)には入(い)れない。リビングだけ。……それでも嫌(いや)なら、今すぐ保健室から鈴成先生を呼(よ)んで来る」

 そうして、ようやく彼は観念(かんねん)するように頷(うなず)いた。

「……わかったよ。でも、リュックは自分で持つから」
「駄目。私のせいで怪我してる人に持たせるのは、嫌」

 そう言って彼のリュックを背負(せお)ったものの、ズッシリとやたら重(おも)かった。

「……男の子のリュックって何が入ってるの?」
「……ごめん。俺、二リットルの水筒(すいとう)三本入(い)れてる」

 流石(さすが)だね、という言葉が私の口をつく。
 何が流石なのかは、言った自分でもよくわからないけれど。

「あ……、私の鞄(かばん)も取りに、教室寄(よ)らせて」

 幸いなことに、教室にも廊下にも人気(ひとけ)が無かった。
 和佳くんのリュックを背負いながら、自分のスクールバッグも肩に掛(か)ける。
 通学(つうがく)鞄(かばん)を二(ふた)つも持って歩くのは、思っていた以上にしんどく、かなり息(いき)が上(あ)がった。
 そんな私の後ろを、居(い)た堪(たま)れなさそうに和佳くんが付いてくる。
 善意(ぜんい)のつもりだったけれど、傍(はた)から見れば、あまり良い印象(いんしょう)の絵面(えづら)ではなかったかもしれない。
 二人(ふたり)分(ぶん)の鞄(かばん)を抱(かか)えた女の子と、手ぶらの男の子が並(なら)んで歩いているのは。

「こ、こうしたら、少しは軽くなるかな?」

 そう言って彼は、リュックの上側(うえがわ)に付いている取手(とって)を、後ろから持(も)ち上(あ)げてくれた。
 確(たし)かに、とても楽(らく)になった。
 私が首根(くびね)っこを掴(つか)まれながら歩かされているみたいで、余計(よけい)に絵面は悪(わる)くなったかもしれないけれど。
 だけど、もはや気にしている余裕(よゆう)もなかったので、そのまま無心(むしん)で、私のマンションまで歩き続けた。