規制されてしかるべき私達の



 ローファーに履(は)き替(か)えて、ざわざわとした罪悪感(ざいあくかん)を抱(かか)えながら玄関(げんかん)を出る。
 そして物陰(ものかげ)を伝(つた)うように歩き、校舎(こうしゃ)から離(はな)れて設置(せっち)されているプールへと辿(たど)り着いた。
 ここに到着(とうちゃく)した時点(じてん)で、もうすでに誰とも出会わずに済(す)むだろう。
 数年前に水泳の授業が廃止(はいし)となってからは誰も近づかなくなり、ほとんどの生徒がこの建物がプールなのだということすらも知らないらしいから。
 正面(しょうめん)入り口はもちろん施錠(せじょう)されているので、私は、その裏側(うらがわ)へとまわる。
 学校の健康的な空気からは程遠(ほどとお)い、淀(よど)んだ湿気(しっけ)が濃(こ)くなっていく。
 ずっと水分を含(ふく)んだままの土と、陽(ひ)の光を知らないであろう低木(ていぼく)と雑草。
 じめじめとして、昼間でも薄暗(うすぐら)く、健全(けんぜん)な人達を遠ざける陰気(いんき)な空間。
 その壁面(へきめん)の中ほどにある、アルミ扉(とびら)のドアノブを握(にぎ)る。
 鍵(かぎ)の壊(こわ)れたそのドアノブを引くと、ひんやりとしたカビ臭い空気が外へと漏(も)れ出した。
 ここが、去年の秋に見つけた、私の隠(かく)れ場所だ。
 ちぎれたビート板に、壊れたハードル。ズタボロのボールや、錆(さ)びたバット。
 廃棄(はいき)同然(どうぜん)の運動器具(きぐ)がひっそりと眠(ねむ)る、雑多(ざった)な物置と化(か)した元(もと)プール用具(ようぐ)倉庫(そうこ)。
 誰も来(こ)ない、誰も来(く)るわけがない、私だけのセーフティーゾーン。

「おやすみ……」

 そわそわとする胸を落ち着けるように、そう唱(とな)え、埃(ほこり)っぽいマットの上に寝転(ねころ)ぶ。
 そして、スマートフォンのアラームを授業が終わる時間にセットし、朽(く)ちた器具達に混(ま)ざって、現実から目を瞑(つぶ)った。
 倉庫内は静寂(せいじゃく)だった。
 なのに眠ろうとすると、耳は過敏(かびん)になり、遠くから響(ひび)く微(かす)かな音すらも拾ってしまう。
 笛の音。生徒の笑い声。ボールが弾(はず)む音。私が逃(に)げた体育の授業の音。
 罪悪感(ざいあくかん)で、胸が騒(ざわ)めく。
 湿気と閉塞感(へいそくかん)も相(あい)まって、やけに息苦しくなってくる。
 やっと誰も来ない安全圏(あんぜんけん)まで逃げ込んだのに、心は、どんどんと安堵(あんど)から離(はな)れていく。
 どうして私は、こんなところに隠れて、情(なさ)けなく怯(おび)えているんだろう。
 私は小さい頃からずっと、強く在(あ)ろうとして、そう振舞(ふるま)ってきたのに。
 どうして今、こんな私へと至(いた)ってしまっているのだろう。
 そんな不安の虫が、止(と)めどなく湧(わ)いてくる。

「おやすみ……、おやすみ……」

 そんなことを唱えても、眠りに落ちる事なんて、もう出来そうにない。
 もう、駄目(だめ)だ。
 私の手が、スカートのポケットからライターと箱(はこ)を取り出した。
 この煩(わずら)わしい思考(しこう)を、早くぼやかさないと耐(た)えられない。
 煙(けむり)と共(とも)に、胸に巣食(すく)う悪(あく)感情(かんじょう)を吐(は)き出さないと、もうまともに息が吸(す)えない。
 それなのに、何故(なぜ)か、何度やっても火が着(つ)いてくれなかった。
 家から適当(てきとう)に持ってきたブランドライターを、恨(うら)めしく握(にぎ)り締(し)める。
 このヤスリを回して着火(ちゃっか)するタイプのライターが、私は酷(ひど)く下手(へた)だった。
 紙巻(かみまき)を咥(くわ)えながら、ひりひりと親指を痛(いた)め、煙なんかを必死に求(もと)めている。
 そんな自分があまりに情(なさ)けなくて、視界(しかい)が滲(にじ)む。
 仕方なく、かび臭い湿気を、ゆっくりと吸ってみる。
 吐くと、光の中を揺蕩(たゆた)う埃(ほこり)が踊(おど)った。
 粉(こな)っぽいコンクリート張(ば)りの室内に、小さな窓(まど)から差(さ)し込(こ)む細(ほそ)い光。
 まるで牢屋(ろうや)みたいだった。

「……ぴったり」

 無声音(むせいおん)で自嘲(じちょう)を吐く。
 今の私の心境(しんきょう)に、牢屋はぴったりだ。
 無論(むろん)、怠惰(たいだ)に横(よこ)たわって紫煙(しえん)なんかを求(もと)めている私は、囚(とら)われのお姫(ひめ)様(さま)などではなく、ふて腐(くさ)れた囚人(しゅうじん)だ。
 それでも、誰(だれ)か助(たす)けて、と泣(な)いてしまいたい気持ちだった。
 小さな子供みたいに、喚(わめ)きたかった。
 もう限界(げんかい)。ここから出して。別(べつ)の世界(せかい)に連(つ)れてって。
 そう思った時、ふいに光の中の埃(ほこり)が、妖精(ようせい)の粉(こな)のように煌(きら)めき舞(ま)った。
 それを私は、何かの導(みちび)きのように感じてしまった。
 なにを非現実(ひげんじつ)な、御伽(おとぎ)噺(ばなし)みたいなことを。頭(あたま)ではそうわかっている。
 わかっているのに、鬱気(うっき)に酔(よ)った私の手は、空想(くうそう)に縋(すが)って、アルミ扉を開(ひら)いてしまった。

「あ、居(い)たわ。ザドくーん、居たよー」
「まじか、その扉開(あ)くのかよ」

 外に出たのは間違(まちが)いだった。
 曲(ま)がり角(かど)から、四人の男がコソコソと笑(え)みを浮(う)かべながら、私を見ている。
 その内(うち)の三人は見た事があった。
 素行(そこう)の悪さで有名なザドと呼ばれる三年生と、その取(と)り巻(ま)きらしい同級生の二人組。
 もう一人の興味(きょうみ)なさそうに立っている三年生は、よく知らなかった。
 思えば、玄関で靴(くつ)を履(は)き替(か)えている時、自動(じどう)販売機(はんばいき)の方に人の気配(けはい)を感じてはいた。
 だけど、後をつけられるだなんて、思いもしなかった。





「お、いいじゃん」

 私の手にライターを見つけたザドが、ポケットからわざとらしく同じ物を取り出した。

「うわ、ザドくんマジで行ったわー、尊敬(そんけい)ー」
「すげぇー、勇敢(ゆうかん)だわー」

 ほとんど嘲(あざけ)りに近い後輩(こうはい)二人からの賛辞(さんじ)に、ザドは一瞬(いっしゅん)顔を顰(しか)めた。
 それでも、気を取り直したように歩(あゆ)み寄(よ)ってくる。

「授業中に吸うのが、やっぱ一番美味(うめ)えよな」
「美味(うま)い……?」

 これを美味いという感覚(かんかく)が、私にはよくわからなかった。
 煙は味(あじ)わっても、煙だ。匂(にお)いと刺激(しげき)でしかない。
 考えてみれば、これを良いものだと思って堪能(たんのう)したこともなかった。
 逃(に)げるように、縋(すが)るように吸入(きゅうにゅう)する私からしたら、そもそも味わうような優雅(ゆうが)なものではない。
 思考を、現実を、自分自身を、文字(もじ)通(どお)り煙に巻(ま)いて誤魔化(ごまか)すためのもの。
 多くの意味(いみ)で、まずいものだった。

「ちょっと一緒(いっしょ)に吸おうぜ」
「……私、もう吸い終(お)わったので」

 切(き)り抜(ぬ)けるための咄嗟(とっさ)の嘘(うそ)。
 吐(つ)き慣(な)れない嘘に、心臓(しんぞう)が早鐘(はやがね)を打(う)つ。

「そりゃそうだろな。だから出てきたんだろうし」
「ザドくんさ、ちゃんと考えてから話しなって」

 嘘は通用(つうよう)したものの、呆(あき)れたように笑(わら)う後輩達の言葉に、ザドの表情は強張(こわば)っていく。

「じゃあ、ちょっと一緒に居(い)てくれよ。前から気になっててよ。話してみたかったんだよ」

 優(やさ)しげな声音(こわね)を装(よそお)ってはいるものの、視線(しせん)の先(さき)を辿(たど)れば、その本意(ほんい)は明白(めいはく)だった。
 この男が私に抱(いだ)いているのは、恋愛(れんあい)感情(かんじょう)なんて素敵(すてき)なものじゃない。
 珍(めずら)しい女を捕(つか)まえて皆(みんな)に見せびらかしたい。
 そういう類(たぐい)の俗物(ぞくぶつ)極(きわ)まりない欲望(よくぼう)だ。
 短絡(たんらく)的(てき)で本能(ほんのう)的(てき)なその単純(たんじゅん)思考(しこう)は、嫌悪(けんお)感(かん)を振(ふ)り切(き)って、一種(いっしゅ)の羨(うらや)ましさすら感じるほどだった。
 宗道(むねみち)先生から昼(ひる)に受(う)けたばかりの忠告(ちゅうこく)が、脳裏(のうり)を過(よ)ぎる。
 お前は目立(めだ)つ。それだけ、悪意(あくい)ある奴(やつ)の目にも付(つ)きやすい。用心(ようじん)しろ。
 言われて間(ま)も無(な)く、この事態(じたい)だ。あまりにも無様(ぶざま)で、救(すく)えない。
 鬱積(うっせき)していく自己(じこ)嫌悪(けんお)を、堪(たま)らず地面(じめん)に吐(は)き溢(こぼ)す。

「最悪(さいあく)!」

 私の口は、思っていたよりもずっと強(つよ)い声(こえ)を出してしまった。
 はは! だよな、わかるわ! やっぱザドくんじゃ無理(むり)だ! あはは!
 そんな後輩達の嘲笑(ちょうしょう)に、ザドがムキになってしまったのがわかる。
 直感(ちょっかん)が警鐘(けいしょう)を打(う)ち鳴(な)らす。
 状況(じょうきょう)を急速(きゅうそく)に悪化(あっか)させてしまった。
 背(せ)を向(む)けて逃(に)げようとした私の腕(うで)をザドが掴(つか)み、引(ひ)き寄(よ)せようとしてくる。

「おい、本当に、ただ話すだけだからよ、警戒(けいかい)すんなって」

 ザドが乱暴(らんぼう)に私の肩(かた)へ腕を回(まわ)してくる。
 警戒するな、という言葉とは裏腹(うらはら)に、力の込(こ)められたその腕は、間違(まちが)いなく私を脅(おど)していた。
 暑苦(あつくる)しい懐(ふところ)へと抑(おさ)え込まれ、後輩達の方(ほう)へと無理(むり)やりに歩(ある)かされる。
 まるで私が、すでに自分の物になったかのように、ザドは自慢(じまん)げな笑(え)みを浮(う)かべていた。
 激(はげ)しい怖気(おぞけ)と共(とも)に、虫酸(むしず)が走(はし)る。そして、殺意(さつい)すらも覚(おぼ)えた。
 力(ちから)ずくで良(い)い様(よう)に出来る。そう思わせてしまっている、情(なさ)けない自分自身に対(たい)して。

「嫌(いや)だ! 触(さわ)らないでよ!」

 精一杯(せいいっぱい)の力で、身体を振(ふ)り乱(みだ)す。

「本当に嫌だ! やめてよ! 気持ち悪(わる)い!」

 必死(ひっし)に抗(あらが)う私の口は、まるで幼(おさな)い子供の様(よう)な叫(さけ)びをあげていた。

「あ? なんだよ、気持ち悪いは無(ね)えだろ」

 その余裕(よゆう)そうに抱(だ)き込(こ)んでくる腕(うで)を、死(し)に物(もの)狂(ぐる)いで振(ふ)り解(ほど)こうとした時、私の肘(ひじ)がザドの鼻(はな)を勢(いきお)いよく弾(はじ)いた。
 衝撃(しょうげき)と共(とも)に、一瞬(いっしゅん)で空気が変(か)わり、凍(こお)りついていく。
 ザドの顔に貼(は)り付(つ)けられていた微(かす)かな笑(え)みが、消(き)え失(う)せた。

「お前」

 突(つ)き飛(と)ばすように壁(かべ)に打ち付けられて、両手(りょうて)を抑(おさ)え込まれてしまう。

「調子(ちょうし)乗(の)り過(す)ぎだろ」

 抑揚(よくよう)の無い低(ひく)い声に、見据(みす)えてくる暗(くら)い瞳(ひとみ)。
 思考(しこう)が読(よ)み取(と)れず、何をしてくるのかわからなくて、恐(こわ)かった。
 いつもは煩(わずら)わしいくらいの頭(あたま)の中が、停止(ていし)したように真(ま)っ白(しろ)になって、動かない。
 どうすればいいか、全(まった)くわからない。
 その時、警報(けいほう)を発(はっ)するかのように、ポケットから電子(でんし)音(おん)が鳴(な)り響(ひび)いた。
 先(さき)ほど、眠(ねむ)ろうとした時にセットしたアラーム。
 そうだ。
 このアラームを電話(でんわ)だと偽(いつわ)って取り、人を呼(よ)んだと言えば、こいつらを追(お)い払(はら)えるかもしれない。
 硬直(こうちょく)した私の脳(のう)が、辛(かろ)うじて見出(みいだ)した逃(に)げ道(みち)だった。

「電、話……が」
「あ?」
「手、離(はな)、て。電話、来(き)」

 声が、うまく出せない。私、かなり動揺(どうよう)してるんだ。
 言葉を言(い)い切(き)れない私を遮(さえぎ)って、ザドが口を開(ひら)いた。

「謝(あやま)れや」

 耳を疑(うたが)う言葉だった。

「頭下(さ)げて、俺に謝れ」

 痛(いた)いほど奥歯(おくば)を噛(か)み締(し)めて、骨(ほね)と関節(かんせつ)が軋(きし)むほどの力で、抵抗(ていこう)する。
 だけど、体重を掛(か)けて抑(おさ)えつけてくるザドの手(て)は、微塵(みじん)も動かなかった。

「無理だからよ。さっさと頭下げろや」

 私は、無理やり乱暴(らんぼう)された挙句(あげく)に、許(ゆる)しまで乞(こ)わないといけないの?
 最大(さいだい)限(げん)の力を振(ふ)り絞(しぼ)るものの、抗(あらが)うほどに、自分の無力(むりょく)さを思い知(し)らされてしまう。
 悔(くや)しさが増(ま)すにつれて、敗北(はいぼく)が近づいてくる。
 憎(にく)しみと共(とも)に、絶望(ぜつぼう)が色(いろ)濃(こ)くなっていく。
 弱者(じゃくしゃ)は強者(きょうしゃ)に屈服(くっぷく)するのが当(あ)たり前(まえ)。だから、弱(よわ)いお前が悪(わる)い。
 そう言わんばかりの目で、ザドは私を睨(にら)んでいる。
 悲(かな)しいことに、その目には、見(み)覚(おぼ)えがあった
 母の眼(まな)差(ざ)しを、彷彿(ほうふつ)とさせられてしまった。
 だとすれば、いつか私も強くなったら、同じ目をするようになるのだろうか。
 痛みに愚鈍(ぐどん)になって、哀(あわ)れな弱者を当然(とうぜん)の如(ごと)く虐(しいた)げる、動物になっていくのだろうか。
 それがこの世(よ)の道理(どうり)だと、信じ込んで。
 真理(しんり)なのだと、自他(じた)に言い聞かせながら。

 それなら、私はもう、この世に希望(きぼう)を見出(みいだ)せない。
 だから、……。……もういい。

 身体から力と共に、怒(いか)りが抜(ぬ)けていく。
 悔(くや)しさも、悲(かな)しさも、よくわからなくなる。
 観念(かんねん)したと思ったのか、ザドがニヤついた笑(え)みを溢(こぼ)す。
 その顔も、もう憎(にく)らしいとすら感じなかった。
 謝るどころか、もう一声(ひとこえ)も発(はっ)する気力が無かった。
 心が、どこか深(ふか)い所へと崩(くず)れ落(お)ちていく。
 感覚が、見えない膜(まく)で覆(おお)われていく。
 もう全(すべ)て、別(べつ)の世界(せかい)のことのようで、静(しず)かだ。
 ただ、何(なに)かを警告(けいこく)するようなアラーム音だけが、膜の向(む)こうで鳴(な)り響(ひび)き続(つづ)けていた。

「えっ、何を」

 ふいに、声がした。

「えっ、いったい、何を、え……? ああ⁉」

 その声の主は、ドタドタと地面を踏(ふ)み締(し)め、雄叫(おたけ)びながら近づいて来た。

「あおおああ!」

 私を押(お)さえつけていたザドの体勢(たいせい)が一気(いっき)に崩(くず)れ、厚(あつ)みのある誰(だれ)かが間(あいだ)に押し入(い)った。
 抑(おさ)え込まれていた時とは違(ちが)う、柔(やわ)らかな圧迫(あっぱく)感(かん)で潰(つぶ)されそうになる。

「早く走って! 逃(に)げるよ!」

 私の手を引(ひ)いて彼は走り出す。
 
「待(ま)てコラ、てめえ!」
「うわああ、ちくしょおぉ‼」

 だけど彼はあまり足が早くなく、一瞬(いっしゅん)でザドに追(お)いつかれてしまった。

「ふざけんじゃねえぞ、デブ」

 ザドが彼の胸(むな)ぐらを掴(つか)む。
 その瞬間(しゅんかん)、反射(はんしゃ)したように彼の太(ふと)い指(ゆび)が、ザドの襟(えり)と肘元(ひじもと)をしっかりと握(にぎ)り込(こ)んだ。
 激昂(げきこう)していたザドの目が、怯(ひる)む。

「あ……」

 しかし、恐怖(きょうふ)に声を上(あ)げ、身(み)を硬直(こうちょく)させたのはザドではなく、彼の方(ほう)だった。

「……上等(じょうとう)だオラ、来いよ豚(ぶた)が‼」

 怒鳴(どな)り声を上(あ)げて暴(あば)れ出したザドの腰(こし)に、彼はしがみ付く。
 そして私を背中(せなか)に庇(かば)ったまま、殴(なぐ)られながら身体の方向(ほうこう)を変(か)えていく。
 彼は、私に逃(に)げ道(みち)を作ってくれた。

「早く逃げろお‼」

 彼の気迫(きはく)に圧(お)され、私の身体は走り出した。安全(あんぜん)な場所(ばしょ)へと、一目散(いちもくさん)に駆(か)けていく。
 本当に私は最低(さいてい)だ。
 曲(ま)がり角(かど)で、自分の足を無理やり止(と)める。
 ここで一人で逃げたら、本当に私は最低だ。
 振(ふ)り返(かえ)ると、何も抵抗(ていこう)しない彼に、ザドは容赦(ようしゃ)なく暴力(ぼうりょく)を浴(あ)びせ続(つづ)けていた。
 上(うえ)から拳(こぶし)を打(う)ち下(お)ろし、下(した)から膝(ひざ)で蹴(け)り上(あ)げる。
 その鈍(にぶ)い打撃(だげき)音(おん)が、空気を振動(しんどう)させて、ここまで響(ひび)いてくる。
 そのザドの姿(すがた)は、自分を軽(かろ)んじる後輩達に対(たい)しての見せしめも兼(か)ねているかのようだった。
 自分を笑(わら)う後輩達に、強さを顕示(けんじ)するかのように、力(ちから)任(まか)せに彼を打ちのめしていく。
 懸命(けんめい)にザドにしがみつく彼の背中(せなか)が、段々(だんだん)と弱(よわ)っていくのを感じた。
 彼が殺(ころ)されてしまう。焦(あせ)った私は、無意識(むいしき)に叫(さけ)び声をあげた。

「先生! 宗道(むねみち)先生こっち‼ 早くッ‼」

 その叫びは、思っていた以上(いじょう)の効力(こうりょく)を発揮(はっき)してくれた。

「宗道……? めんどくせえ! おい、行くぞ! 二度と調子(ちょうし)に乗んじゃねえぞ、雑魚(ざこ)がよお!」

 ザド達が走り去(さ)っていく足音に安堵(あんど)して、曲がり角から駆(か)け戻(もど)る。
 瞬間(しゅんかん)、私の足は硬直(こうちょく)した。

「君、星見(ほしみ)さんでしょ。よく似(に)てる」

 四人の中で、唯一(ゆいいつ)興味(きょうみ)無さそうにしていた三年生が一人、そこに立っていた。
 私が咄嗟(とっさ)に叫んだ嘘(うそ)を見抜(みぬ)いたのか、そもそも先生が来る事なんて意(い)にも介(かい)していないのか、悠然(ゆうぜん)と立っている。
 そんな得体(えたい)の知(し)れない男が自分を知っているのは、酷(ひど)く気味(きみ)が悪(わる)かった。

「星見さんでしょって聞いてるんだけど?」
「……知らない」

 こいつらの取(と)り巻(ま)きの二人は、同級生だった。
 だから、私が星見だということは、すぐにバレるだろう。
 それでも、私の身体は身構(みがま)えて、言葉は抵抗(ていこう)の意志(いし)を示(しめ)した。
 その男は、僅(わず)かに目元を歪(ゆが)め、鼻で笑うような息を吐(は)くと、私に背(せ)を向(む)けた。

「お前、今、間違(まちが)えたからね。可哀想(かわいそう)に」

 その言葉の意図(いと)はわからなかったが、背中に怖気(おぞけ)が走り、鳥肌(とりはだ)が立つ。
 歩き去る男の足音が遠(とお)ざかり、完全(かんぜん)に聞こえなくなってから、私は、ぐったりと倒(たお)れ込(こ)む彼の元(もと)へと走った。