わたしはここまで書いて、改めて文章を読んだ。窓の向こうは暗く、六時になろうとしていた。
「長居しました」
 わたしはカウンターで本を読んでいる沢口さんに声をかけた。
「ああ、こんな時間か。急にこんをつめるとよくないよ」
「まあ、受験生なんで」
「自覚あったのか」
 沢口さんがにやりと笑った。
「まあね」
「急にガリ勉とか、なんか夢でも見つかった?」
「夢?」
 わたしはびっくりして言った。そんな言葉、聞くのも恥ずかしい。愛、くらいに。
「将来の。なにやりたい、とかさ」
 わたしがよっぽど変な顔をしていたんだろう。沢口さんは言い訳するみたいに言った。
「あったほうがいいすかね、それ」
「まあ、ないよりは。学生じゃなくなると、お金とかやりがいとか、とにかくモチベ上がること自分で見つけないとやってらんないからね。学生のあいだはさ、成績よくなるとか、志望校合格とか、タイムを縮めるとか、目標わかりやすいじゃない、シンプルで」
「タイム?」
「ああ、ぼく水泳部だったから。いちおうね」
「水泳部なのに図書館司書で、オカルト本読んでるんだ」
「水泳部を泳ぐことしか考えていないばかとか思ってる?」
 沢口さんが苦笑した。
「まあ、はい」
「きみ、いまの時代生きづらいだろ」
 沢口さんは苦笑いから大笑いになった。
「言ってもいい人にだけ言ってるますから」
「自分の言葉の管理、しっかりしてるねえ。いまの子は偉いな。まあ、将来なにをしたいかくらいは考えたほうがいいね。どんなもんも年齢制限あるし」
「沢口さん、いつから図書館司書になろうとしたの」
 わたしは訊ねた。
 しばらく沢口さんは笑顔のまま黙り、
「忘れた」
 と言った。

 あるとき、保育園の教室に九亮のお父さん、お寺のご住職がやってきた。部屋に入って大騒ぎしている子供たちをじっと、眺めていた。みんな住職のことを気にもせずに遊んでいる。
 わたしは隅で積み木をできるだけ硬く重ねていく遊びをしていたが、自分の身長より高く積み上げたところで崩してしまい、住職に気づいた。
「こんにちは」
 わたしは崩れた積み木を足で部屋の隅に払い(ひどい)、住職のところへ駆けた。九亮のことを聞こうと思ったのだ。
「ああ、莉央ちゃん、九亮を見なかった?」
 逆に問われて、
「え?」
 とわたしはぽかんと口をあけた。
「九亮は?」
 住職はいつもの穏やかな表情だったか、口ぶりは厳しく咎めるようだった。
「知らないです」
「見ていない?」
「はい」
「そう」
 住職が教室から出て行ってしまった。
 帰り際、警察官が数名、寺の前にいた。なにか起きたのだ。
 園児たちを見送っている笹岡先生の元へ、わたしは向かった。
「事件?」
 まるで普通の子供みたいに、わたしは訊ねた。
 笹岡奈緒美は笑顔を崩さず、
「どうなのかしらねえ、わたしはわからなくて」
 ときっぱり言った。
 いつもの嘘くさい笑顔で。
 家に帰り玄関に入ると、母に、
「九亮ちゃんを見なかった?」
 と聞かれた。
 九亮がいなくなったのだ、とわたしは察しがついた。
「知らない」
「そう」
「九亮なんかあった?」
「うーん。まだなんかあったかわからないから」
 母は娘を気遣い、曖昧に、大人のコメントをした。
「そっか、じゃあ九亮に聞いてくる」
 わたしはそう言って、出て行こうとした。よかった、靴を脱がないでおいて、とか軽く思いながら。
「ちょっと待ちなさい」
 母が止めた。
「なんで」
「いいから」
 母はむりやりわたしの靴を脱がした。
 しばらくごろごろして過ごし、興味を失ったように見せかけた。母が夕飯の支度を始めた。ちょうどよく天ぷらを揚げるから台所に入ってくるな、と言った。
「えび、たくさんね」
 なんて媚びたリクエストをした。
 わたしはそっと、家から出た。
 寺の前にはまだパトカーが停まっていた。ぎりぎり五時前だったので門は閉まっておらず、なんとか侵入することに成功した。
 お堂に勝手に入り、そのまま家に侵入した。九亮の部屋に入るまで、人と出くわさなかった。わたしはスパイとか探偵になれるかもしれない、と興奮していた。
 障子をあけ、九亮の部屋に入った。ゆっくりと、閉めた。
 まだ小学校にあがってもいないのに、九亮は自室がある。羨ましかったが、窓のない和室で、障子を開けていないと薄暗い。
「九亮?」
 暗闇で声を出してみたけれど、返事はない。目を凝らすと、寝乱れた掛け布団がまんなかにある。九亮の部屋でわたしたちは遊んでいたから、暗くてもよくわかる。しかし、途方に暮れた。いないということだけはわかったけれど、どこにいるかなんて、まったく手がかりを見つけられそうにもなかった。
 ざわざわする。
 いないということだけはわかった、と引き返そうとしたときだ。
「そうだ、絵本」
 九亮の部屋に置きっぱなしにしていた絵本を思い出した。すっかり忘れていたのに、急に。
 それは『ともだちがほしかったこいぬ』だった。体が大きすぎて、誰の目に留まらない子犬と、女の子との友情物語で、わたしのお気に入りだった。九亮に読んでやったら、「ふーん」と薄いリアクションをされて、キレた。
 その直後に原っぱの事件が起こり、回収していなかったのだ。
 もし部屋に侵入したのがばれたら、本を返してもらいかたったとか嘘泣きしてやろうと、小狡いことを考えた。絵本は、九亮の学習机ーー子供が使うにはちょっと大きなーーに置かれていた。
 絵本を抱えて、早々と退散した。
 お堂で靴を履こうとしたときだ。靴下に、長い髪の毛が一本ついていた。わたしは手に取った。この家に長い髪のひとはいなかった。お寺だし、いろんな人がくるのだろうが。婆さんが毎日せっせと床を磨いているというのに、どういうことだ?
 ぼんやり考えている暇はない。わたしはさっさと出て行った。
 家に戻ってみても、どうにもそわそわしてしまう。誰にも聞けない。大人は知らないと言うだろう。多分どれだけ訊ねても、答えてくれない。
 また九亮が消えた?
 どういうことだろう。しかも前に消えてからわたしは九亮と会っていない。
 わたしはテレビにも集中できず、さっき取り戻した絵本をひらいた。そこに、折りたたんだ紙が入っていた。
 ひらいてみると、まるで印字されたみたいにきれいなひらがなで文章が書かれていた。

『りおちゃん
 ぼくがもしいなくなつたら、
 せぶんいれぶんのあるあぱーと203にきて。
 かぎがかかつていたら、
 203のぽすとにあるよ。
 がむてーぷではつてかくしている。
 ゆうがたがいい。
 よろしくおねがいします。』

「なんだこれ」
 わたしはさっぱりわからなかった。
 セブンイレブン?
 のアパート? ってなに?
 鍵はわかる。
 ポスト?
 ガムテープとは?
 それに、これを書いたのは誰だ? 九亮? 絶対ちがう。あいつはものすごくひん曲がった字を書く。
 この文章の「ぼく」は九亮としか思えない。
 でも、これは九亮の字ではない。
 わたしは迷った。
 大人に見せて指示を仰ぎたかった。
 でも、なぜかわたしの身体の奥で、何かが止めた。
 これを誰かに話したら、大変なことになる。
 九亮が、死ぬかもしれない。
 なぜ幼児の自分がそんなふうに思ったのか。いまでもわからない。
 鋭い直感なんて、わたしは持ち合わせていない。
「ねえお母さん」
 わたしは台所の前で、母の背中に向かって呼んだ。
「油あるから来ないで」
「セブンイレブンのアパートってなに?」
「え? ああ、ほら、よく買い物にいくコンビニエンスストアの入り口の横に階段があるでしょう? 上の階は人が住んでいるのよ」
「ポストって?」
「あなたなにも知らないのねえ。うちにもあるじゃない。手紙が来たら、郵便屋さんに入れてもらうじゃない」
「それはわかる」
 つまり、アパートの部屋にもポストがあるということか。
「なに急に。そういえば、前にセブンで笹岡先生に会ったわよねえ」
「だっけ?」
「そう、たしか、そのとき挨拶して、セブンの上に住んでるって」
「ふーん。あと、ガムテープって?」
「なに、急にいろんなこと聞くのねえ。ちょっと待ってて、教えるから、ね」
 母はテーブルに、揚げたての天ぷらを盛り付けていた。
「もう夕方じゃない?」
「そうね、夜よ」
 ならば、行ってはいけないのか。
 わたしは、誰にも言わなかった。
 なぜか、言えなかった。