わたしは図書館から出た。
「まあ、これでも読みなさいよ」 
 と沢口さんに本を押し付けられた。
 さすがに図書館にきて、本を読まない・借りないというのも申し訳ないので、わたしはたまに、沢口さんにおすすめしてもらう。いつもは「殺人事件で高校生でハッピーエンド」とか「純愛で高校でハッピーエンド、でも主人公がか弱い綺麗ぶったフリしてるやつは嫌」というふうにリクエストする。すると次にきたときに、「どうぞ」と渡してくれるのだ。
 今回はべつにリクエストしたわけでもなく、一通りわたしがしゃべったあとで、沢口さんが立ち上がり、本棚から一冊抜いて持ってきた。
 わたしはへんに義理堅い。なので、読み終わって、いちおうの感想が思いつかないと、次に図書館に行くことができない。
 それに、わたしのお気に入りの沢口さんからのおすすめ、というのも珍しい。でも、いつも沢口さんが読んでいるタイプのやつだったらかなりしんどいなあ。なんならそっち系の自己啓発みたいなお花畑な内容だったらどうしよう。まあ、多分表紙や題名からして、そんなことはないと思うのだけれど。
「三島由紀夫『獣の戯れ』かあ」
 名前は聞いたことあるけれど、とくに予備知識はない。とりあえず、顔を検索してみた。まあじいさんではないらしい。顔は暑苦しいけど、ぶすでもない。わたしは小説の中身にこだわらないが、書いた人の顔は注目する。ぶすの書いた美しい文章、なんてギャグすぎるし。
 さきにネットでラストまでのあらすじ確認したほうが読みやすいかな、と思い、運よく電車に乗って席に座ることができたので、スマホを出した。
 ラインが入っていた。
「うわ」
 わたしはアプリを開かず、そのままスマホをかばんに入れた。本を読む気も失せた。
 窓の向こうにある夕暮れを眺めていたら、奇妙なことに気がついた。
 電車と同じスピードで、なにか点のようなものが移動している。はじめは窓に灯りでも動いているのかな、と思った。
 でも違う。
 なにか妙に懐かしい小さな光だった。
 もっと近くで見てみたい、そんなふうに思わせる、ぼんやりとした、どんな灯りともちがう光だった。
 あれは、わたしたちを監視しているUFOなのかもしれなかった。久しぶりに確認した。
 ねえ、あんたは一体なにが目的で、わたしと西村のそばにいるの?
 頭の中で思った。
 伝わっているんでしょう?
 そしてふと、あのときのことを思い出した。

 幼稚園もまもなく卒業というときだった。わたしと西村ーー当時は九亮と呼んでいたーーは近所の小高い高原にピクニックに連れていってもらったのだ。日はあたたかかったけれど、まだまだ寒く、なんだかアンバランスな春のはじまりの頃だった。
 西村は鼻水をやたら垂らしていた。そしてそのたび、わたしの母がティッシュを鼻に押し付けて、ちーん、とさせた。
 なぜ実の子であるわたしは適当にあしらうくせに、よその子を甘やかすのか、とわたしは内心腹を立てていた。
 だいたい西村は甘ったれていた。大人は自分に優しくしてくれるもんだと勘違いしているふしがあった。
 でも今にして思えば、そのくらい、よくあることなのかもしれない。
 わりと原っぱになっているあたりは混雑していて、あちこちでビニールシートが敷かれてそれぞれがのんびりと過ごしていた。自分たち以外の子供がやたらはしゃいで駆け回っていて、わたしもそれに対抗して探検したいところだったが、西村はビニールシートに座り込んだまま、ぼうっとしていた。
「ほら、いくぞ」
 当時のわたしは、幼稚園の男の子たちの誰よりも男らしい女、と失礼なことを言われていた。言葉遣いも荒っぽかった。
「べつにいいよ」
 せっかく遊びにきたというのに、いつも以上にやる気のない西村に、わたしはかちんときた。
「じゃあいい、わたしは行く」 
 一人で初めての場所をふらつくのもちょっと怖いなと思ったが、言ってしまった以上やるしかない、と思った。
「ちょっと、遠くまでいかないでしょ」
 母はというと、わたしの癇癪に慣れているものだから、西村のために水筒からあたたかいお茶を注ぎながら適当に言った。
「ごはん食べてからにしたらどうだ」
 せっかくの休日の午前中を運転手に駆り出された父も、寝っ転がったまま言った。
「なんかおもしろいことあっても、九亮には教えてやらんもんね」
 わたしは西村に言った。
「じゃあ、行く」
 西村はもらったお茶を飲み干そうとして、軽く舌をやけどしたらしく、あちい、とかぬかし、またも母に世話を焼いてもらった。
 ふん、どんくさいやつめ。
 わたしがいなかったら、どこにも行けないんだから、わたしの命令に従っておけばいいものを。
「ほら、行くぞ」
 わたしは西村を乱暴に立たせた。
「莉央」
 母がわたしを咎めたが無視した。
「きれいな石とかあるかもしれないし」
 わたしは当時、どこかへ出かけるたびに石を拾うのがブームだった。動物の形ににているとか色がきれいとか、そんなふうに勝手に言ってはポケットのなかに溜め込んだ。それらはいまでは、我が家の庭の隅に適当に放ってしまってある。
 いまならわかる。西村を引き連れてあちこち歩き回るなんて、面倒なことをするのは、自分自身を奮い立たせるためだった。一人では心細い、ならばなんの役にも立たないやつと一緒ならまだましだったのだ。
 へんなやつに絡まれでもしたら、西村を押し付けて逃げちゃえばいいや、くらいに邪悪なことも考えていた。
 最終的に、「九亮は男の子なんだし、わたしを守れよ」なんて不遜なことまで考えていた。守ってくれるわけないのもわかりきっていたのに。
 だだっぴろい野原、あちこちに敷かれた色とりどりのビニールシートの合間をぬって、わたしたちはうろつき、ときに走った。急に走るといやいやついてくる西村がびっくりして、「まって、莉央ちゃん、まって」と泣きそうになりながら追いかけてくるのが面白かったからだ。
 かっこいい石、なんて野原にはない。
「あった? 石」
 わたしが振り返って言うと、
「ない」
 と西村はびくりとした。
「あの木がいっぱいあるとこ行くか」
 わたしは遠くにある林を指さした。
「なんか暗いけど」
 木々が密集していて、薄暗い。その上、ロープで封鎖されている。
「ああいうろころなら、あるかも」
 わたしが歩き出すと、西村は、やめようよと袖を引っ張った。西村が嫌がることをしたかった。だからそれを無視して、わたしは駆け出した。
 おくにはいらないでね、と古びた札がかかっていた。ふとさっきいた場所のほうを見ると、人々が楽しそうにしている。
「やめようよ、ねえ、やめようよ」
 西村はいまにも泣きそうになって顔を歪めていた。まるで捨て子にでもなったみたいだった。「遠いよ、ママさんに怒られちゃうよ」
 西村はわたしの母を、ママさんと呼んでいた。そのたびに、お前のママじゃねえよ、と憎らしかった。
「ちょっとだけ」
 とわたしは林のほうに入っていった。
 西村はロープごしに、突っ立っていた。
 べつにいいか、とわたしは西村を見捨てて、薄暗い林の奥へと一歩一歩進んだ。

 思い返しているうちに、降りる駅に到着した。
 時間は不思議で、伸び縮みする。
 その先にあったことを思い出さないように、時間が早まった気がした。
 駅のホームに空の向こうは隠れてしまい、あの光は見えなかった。