翌日、笹岡奈緒美は何事もなく保育園にいた。
「おはよう」
 そう言って登校してきたわたしに挨拶をした。眠かった。昨日のことがショックでうまく眠ることができなかったのに、急に冴えた。
 わたしは震えた。この女は完全におかしい。
「どうしたの?」
「なんでもない」
 わたしは目を逸らして離れようとした。
「九亮くん、見つかってよかったわね」
 背後から声をかけられた。
 わたしは振り返り、昨日九亮……どう考えても九亮ではない……、に言われたことを言うべきか迷った。
「莉央ちゃん?」
「お寺にいる鳩が、ひとついない」
 わたしの声はかすかに震えていた。
「え」
「九亮と数えていたの。まいいち、お寺にくる鳩は二十八いた。ひとつひとつ違うの。鳩は、九亮と友達だったから」
 嘘だ。鳩を数えたことなんてなかった。九亮がそう言え、と言ったのだ。
「そう……残念ね」
 笹岡奈緒美はその鉄面皮の笑顔を少し歪ませたように見えた。明らかに動揺していた。
 この女はどういうつもりなのだ。九亮を誘拐し、逃げられても素知らぬ顔をしている。
 昨日、九亮はよくわからないことを言った。
『人間は環境によって動かされている。本人の意思など微弱なものだ。いや、限りなくゼロに近い。自分以外からの影響しかない。だが、波動の観点から言えば、全世界が自分自身とも言える。要は舵取りを己で行うか、外部に任せるかだけだ』
 さっぱりわからなかった。なのに、なぜかわたしは一言一句覚えていた。
『人間は思考を停止していると、都合よく物事を解釈する。よって笹岡奈緒美も自分の起こした犯罪も、誘拐児童を逃したことも、勝手になかったことにするだろう。ぼくが宝物の部屋に身を隠したと証言すれば、それを受け入れる。散々幼児を嬲っておいて、夢だと変換するだろう。だからさきほど生贄を用いて不条理な事態を投げた。これによってあの女の身勝手な思考回路を潰した。あとはそれをちょっと詰めてやれば』

 わたしはここまで書いて、あのとき西村がどんな目に遭ったのかを理解した。笹岡奈緒美に、幼い身体を散々駆使させられたのだ。
 もちろん、西村は眠っていた(とあいつは言っていた)けれど、身体の記憶は残るのではないか。
 書いていて、ぞっとした。
「莉央ちゃん」
 学校からの帰り道、背後から声をかけられた。
「なに」
 西村が駆け寄ってきた。
「なんかいまから戦場にいくみたいな顔してたから」
「顔、うしろから見れるの」
「うん。イメージできる。背中からの覇気で」
 わたしたちが並んで歩いていると、道行く女たちが注目する。西村は平然としている。なんだこれは。
 その乱暴な視線など、西村にとっては日常茶飯事で、気にするものでもない。
「さっきまで、笹岡奈緒美のことを思い出していた」
 わたしは言った。
「なんでまた」
「あんたが話題にしたから」
「ふうん、意外とそういうとこ気にするんだね」
「だって、あのあと大変だったじゃない」
 あのとき、わたしが鳩の話をしてすぐに、笹岡奈緒美は急に「気分が悪い」と言って早退し、そのまま保育園にこなくなってしまった。
 数日してから、両親がやってきて、退職させると告げたという。
 保護者たちは、いい先生が突然いなくなったことを残念がった。
 西村の失踪と関連づけることもなかった。西村はショックで夢遊病ぎみになり、ふらふらと宝物の部屋に入り、そのまま眠ってしまった。真っ暗闇の部屋で、出口もわからずにしくしく泣いていた、ということになっていた。
 わたしがおせっかいを発揮してあちこち探し回って発見した、という演技も一役買った。わたし、俳優になれるかもしれない。
 しかも九亮は寺の大事な仏像を抱きしめながら泣いていた。たいしたもんでもない、とか言ってたくせに。なんとあざといやつめ。
「でも、どうなったんだろ、あの人」
 わたしは過去に思いを馳せた。何もかもが藪の中、ってやつだ。
「知りたい?」
 ぐっとくぐもった声がした。
 わたしは西村を見た。
「……シリウス?」
 わたしは、その言葉を口にしたくなかった。
「きみが記録を始めてくれたのは喜ばしいことだ。今後この記録は大事な資料となるだろう。じゃんじゃん頼むよ。そのためにきみの記憶力を強化させたんだからね」
「おかげで頭がうるさい」
 わたしの頭が西村ばかりになっている。しかも西村に対して抱えている感情が複雑すぎて、いつだってわたしはすべてを投げ捨てたい。
「笹岡奈緒美は自身の記憶の捏造処理ができなくなり、ノイズに侵された。現在も実家である宮城県で療養している。鳩のことばかり考え、日常生活がおぼつかない状態だ」
「鳩」
 わたしはあのときの締め殺した鳩をありありと思い出した。
「ああ。法的に彼女に制裁を下すことは、西村九亮自身の社会での立ち位置が困難な方向へ変わってしまうからな。にしても、当時、ぼくも自分がこれほど人間の雌に影響を与えるとは思わなかった」
「なによそれ、自分にフェロモンがあるみたいに」
 わたしは腹を立てた。シリウスのときの西村は話すときは、いつだって不思議な気分だった。そして会話を終えるとどっと疲れる。
「ああ、自分自身を見失っているもの、ということだな。現在は制御してるが、微弱に漏れているせいで、やっかいな雌が寄り集まってくる」
「雌だけじゃないでしょ」
「そうだな。通学時の痴漢の26・7パーセントは雄だ。やはり彼らも、西村九亮に欲望を抑えきれないらしい」
「気持ち悪い」
「雄だ雌だと区別しているのはきみたちの勝手だが、現在の地球の生態系と生殖方法から、雌のほうが圧倒的に多い。よって、強烈な雄に雌がやってくる」
「偉そうに」
 と言ったけれど、たしかにそうだ。その異質さを嗅ぎ取り、女たちは西村に襲いかかる。
 自己を確立できていない女たちは(一部の男も)、出会ってしまった途端、衝動を抑えきれず、夢中になって我を忘れる。
「いつまであんたは、その、アップデートとやらをするの」
 わたしは訊ねた。
「そろそろ完了する予定だ。多分きみも、奥底で気づいていて、記録を始めたのだろう」
「わかんないしそんなの」
「人間の理解できる事柄など、脳のサイズと普段使用できる部分によって限定されているからな」
「ほんとにあんたは偉そうに」
 駅のホームのベンチにわたしたちは座った。
「では、わたしは離れる。しばらく西村九亮は起動できないので、しばらく保護者として見守ってくれ」
 九亮ががくり、と頭を落とした。
「ちょっと、待ってよ」
「ほんのちょっとのことくらい我慢しろ」
 わたしは死体みたいになった西村の頭を肩に乗せた。
 誰かに見つかって、明日またとやかく言われるだろう、と思った。