恵利花の、ほっそりとして長い指が、鍵盤の上を力強く、ときに軽やかに踊る。
2年1組の歌う『地球の鼓動』。この曲のピアノ伴奏は、中学生の合唱曲としては難曲の部類に入る。
その伴奏を恵利花は、持ち前の粘り強さと根気を存分に発揮して、完璧に成し遂げた。
クラスメイトらは、顔色悪くも日々コツコツと自主練習を繰り返す彼女の姿に触発され、まさかの団結を見せるに至った。奇しくも、亜美のパーソナルAIが語った言葉を、恵利花がひたむきな努力で実現したのだ。
――大多数の人間は、直向きな頑張りに称讃を贈ります――と。
「2年生の部、優勝は2年1組 地球の鼓動」
発表の声に、居合わせた2年1組の面々は一斉に歓声を上げた。
教室に戻った生徒らに、三浦が金色で「優勝」と書かれた鳳凰の縁取りの賞状を手渡して行く。A4判の小振りなものだが、ひとりづつ受け取るそれは実際よりもずっと重く、輝かしいものに思える。
「あと、残りの一枚は……碇さんの分だな」
どこか気落ちして聞こえる三浦の声は、気のせいではないだろう。
30分ほど前の出来事だ――。
優勝が決まった後、2年1組一同は興奮冷めやらぬ様子で彼女の待つ保健室に向かった。けれども亜美は、扉の向こうに居る面々を見るなり表情を消して一言「出て行って」と硬質な声で吐き捨てたのだ。
まさかの反応に戸惑う者、あからさまに彼女に嫌悪を示す者が居る中、再び勢いよく開いた保健室の扉からは、すっかり帰り支度を整えた亜美が出て来た。
「やっぱりあたしが居ない方が良いって思ってるのね」
静かに、ただそう呟いて、振り返りもせずにその場を立ち去った。
誤爆とも言える、悪意の隠れたスクリーンショットが2年1組一同に送り付けられた騒ぎの後、ろくに誤解を解こうともせず、クラスメイトとの交流も絶ってしまった亜美だから、咄嗟に否定する言葉を掛けられる者は居なかった。恵利花は息を飲み、稜斗でさえも気まずげに視線を逸らしただけだ。
突然の激昂ともいえる行動に、呆気にとられていた者も多かったが、期せずして彼女の言葉を全員が態度で肯定する形となってしまった。
その頃、天麗はと言えば――
「薮りんっ! なんだか数字がガンガン動いてますよっ」
合唱コンクールが無事終わり、愛機をようやく取り戻した薮と二人揃って、扉前に集った1組の最後尾でタブレットの画面にのめり込んでいた。
「なんだろう、今までなかった動きだ。眠り姫が暴れてる。何か動いた形跡があちこちに散らばってて……記録を消した跡とか、書き加えた跡とか。相変わらずささやかな動きしか出来てないみたいだけど、とにかく動きが多くなって……。何なんだ、これ?」
「薮りんが、何度も消そうとしても上手くいかなかったんですよね。それってもしかして自分で増殖しちゃう機能があったからだとかですかね!? ゾンビプログラムですか!」
「うん、確かに。あちこち動き回って、自分のデータを分け与えてる。これじゃあ、僕の手作業の速度で完璧に眠り姫を消す事なんて出来ないわけだ。コンピュータの演算機能を上回らない限り、相対する処理を実行することは出来ないからね」
「にゅふふ、分かります! 深い眠りから目覚めたお姫様は、心残りの王子様が居て、出会うまではどうしても消されたくないんでしょうね。けど、薮りんがしっかり眠り姫の動きを阻害するプログラムを仕組んだから、一斉送信みたいに大きな動きはもう出来ないはずなんですけど。そんな中でも出来ることをチミチミやる。AIながら健気で涙ぐましい努力ですねぇ」
「うん? 王子様って、えーっと……プログラムのこと?」
「理屈より深遠な、乙女の浪漫から導き出された答えですよ」
どやぁ、と言い切った天麗の目の前では、また目まぐるしく画面が変わってゆく。
「ななな、なんですか!? AIさんが、わたしの意見へ称賛を贈ってるんですか!?」
「惣賀さんの生の声は、このプログラムには届いてないから。別の何処かに働きかけてるんだと思うよ。また誰か個人宛のメッセージでも作ってるのかな。とにかく目に留まったモノは潰しておかなきゃ」
「うん? そう言えば本番前にも言ってましたね。何か引っ掛かったんです、個人宛メッセージって」
今度こそは、喉元のつかえが取れるかもしれない。そんな期待とともに、思案を巡らせようとしたタイミングで、三浦の「早く教室に戻るぞ」との言葉が掛けられた。
再び邪魔された思考は、実は現状の亜美を中心とした不可解な状況を紐解く、重要なヒントとなるものだったのだが——。
