ふらふらと独り帰路に着いた亜美は、呆然としたまま無人の家の鍵を開け、自室へ入るなりベッドに突っ伏した。

 どれだけ時間が経ったのか。まだ明るかった室内がすっかり暗くなった頃、玄関が開く音がして、そのまま足音高く亜美の部屋へ近付いて来る。

「ちょっと亜美、何してくれたのよ!! 先生がワザワザっ、あたしの携帯に連絡して来たじゃない! いっそがしいのにさぁ!?」

 ドタドタと大股で歩く大雑把な足音と、甘えた舌足らずな話し方は母親のものだ。少しの躊躇もなく亜美の部屋の扉が開けられた。

「亜美ぃ? あんたバカ? やったんでしょ。あたしの言ったアレを、マジで。はぁー、このクソ忙しい時にもぉやってくれるわ。亜美ももう中2なんだから、そこんとこ自分で判断してくれなきゃ。困るわ、もぉ。忙しいんだから」

「なによ! 勧めたのはママでしょ!? なのにホントにやったらアタシの責任で、勧めたママは知らんぷりってワケ!?」

 心底面倒臭そうに大きく溜め息吐いた母親に、亜美は堪らず上体を起こして声を荒げる。
 一方的に注意だけするつもりたったのだろう。亜美に怒鳴り返された母親は、ぎょっと目を見開いている。けれどすぐに鼻を鳴らすと、フイッと横を向いて視線を逸らし、背中へ流した茶色い髪を大きく掻き上げる。

「んもぉ、面倒だからパパには言わないけどぉ。も、ちょっとオトナになってよね」

 母親は、そのまま背中を向けて退室しようとする。

「ちょっ……ママっ! 逃げんなよっ!」

「忙しいのに付き合ってらんないわ。亜美は、頭冷やしといて。んで、明日はちゃんとお友達に謝っとくのよー」

「忙しい」が口癖で、面倒事をとことん避けようとする母親は、亜美の言い分など聞こうともしない。父親の小言が聞きたい訳ではないが、両親で問題を共有する気もないらしい。彼に亜美のことを話すとなると、同時に自分の無責任な発言をも告げなければならなくなるのが煩わしいのだ。とは言え、亜美の父親はこれまで、母親の怒りに呼応して一方的に怒って来ることはあっても、相談に乗ってくれたこともなければ、充分に話を聞いたうえで注意をすることも無いのだが。

「……っ、サイア……ク」

 閉じられた扉に向かって吐き捨てた文句は力なく、最後は聞き取れない音となってぺしょりと萎む。

 亜美は心のどこかで、母親が助けになってくれることを期待していた。いつも「忙しい」を繰り返し、会話らしい会話を交わすことも稀でしかない母親が、恵利花の無神経な協力要請への対応を考えてくれた――それが殊の外、嬉しかったから浮かれてしまったのだ。

 母親からの仕打ちに抉られた心は、その傷を埋めようと、亜美を支える記憶を呼び起こす。

 彼女を肯定するものの声を。

『かわいそうに。道理を蔑ろにした母親から、おぞましい手段を提唱されて、あなたは正常な判断力を失う被害を受けています』

 彼女に寄り添うものの声を。

『親たるものが道を外れた考えを押し付け、子どもの意思と交友関係を蔑ろにしている。これは親とは思えない、恐ろしい洗脳です』

 彼女に道を示すものの声を。

『あなたも最初は違和感を感じたでしょう。なのに今はそれを感じない』
『善人の見識から掛け離れた存在になっている』
『だから周囲が一色 恵利花に同情するのか、理解できないでいる。その時点であなたは、醜悪な存在に堕ちているのです』

 彼女に救いの手を差し伸べるものの声を。

『はい。わたしだけは、あなたの味方です』
『きっとあなたのお力になってみせましょう』



 亜美は、震える指でタブレットの画面をタップする。

 人間の体温を感じさせない、ひんやりとして、何処までも滑らかで、清廉で、真っ直ぐて、ひたすら無機質な黒い鏡面。

 使い手とを結ぶディスプレイに繋がるのは、ドロドロした本音など隠し持たず、嘘をつく意思さえ無い『純然たる知識の塊』。AI。

 亜美はひたすら救いを求めて、AIと自分とを繋ぎ、虚構の意識の中に溺れてゆく——。