時は少し遡る。
合唱コンクールの課題曲「地球の鼓動」を練習すべく、一色 恵利花は音楽室の鍵を借り、ひとりピアノに向かって鍵盤を叩いていた。小学校低学年のうちからピアノを習っていた彼女の家には、勿論ピアノは在る。中学生になってからも、週に一度はピアノ講師が家を訪れ、練習を続けて来た。
けれど、2年生となってからは、学園の授業に掛かる課題が大量に課されるようになり、練習を休まざるを得ない状況が続いている。それに伴い、家のピアノの調律は、弾けるようになってからと延び延びにしている。だから、学園のピアノを借りることにしたのだ。
下校する生徒らで騒がしかった校内も、徐々に静けさに包まれ始め、恵利花の奏でる音が伸びやかに空間を渡り始める。
久し振りの演奏は、この頃の勉強漬けの毎日から気持ちが解放され、ささくれ立ってひどく澱んだ心に清浄な空気を送り込んで来るかのような、陶酔感を与えてくれた。
ピアノ決めの時は、少なからず亜美に腹を立てていた恵利花だった。けれども、AIの出す課題のせいで取り組めなくなっていたピアノを、AI公認の元、後ろめたさもなく練習出来るようになったのも、亜美のおかげだ。結果的にそうなっただけではあるが、今では彼女を恨む気持ちは無い。
ぱたぱたぱたぱた
鍵盤の打刻音とは違うリズムの異質な音が、旋律に紛れ込んで来る。
演奏の心地良さに浸りきりたい恵利花は、聴覚の中から完全に足音を消し去ろうと、集中力を高めるべく目を瞑る。
「恵利花ちゃ——」
ふいに、聞き覚えのある声までもが耳に飛び込んで来て、恵利花はパッと目を見開く。
「え? 誰?」
鍵盤の上に置いた手を止めて扉に顔を向けてはみるが、さっきまで間近に迫っていた足音は遠ざかり、すでに声の主と思しきクラスメイトの姿は見えなくなっていた。
気のせい。
とは、とても思えない。幼少期から音楽に触れてきた恵利花は、音に関しては敏感だ。ましてや今は、ピアノ練習をしていて、平常時以上に音への集中力を上げていたのだ。
「さっきのは、間違いなく惣賀さんの声だった。呼び掛けが途切れて、三人分の足音が聞こえたわ」
感じた違和感の正体を明らかにするため、口に出して状況を整理してみる。
「三人……。だとしたら、いつも単独の薮さんと会ったんじゃあないわ。声が途切れたのも、私への呼び掛けを止めなければ都合が悪い相手だったんだとしたら」
天麗にとって、良くない出来事が起こっているとしか思えない。さっと扉の側へ駆け寄り、扉のガラス部分から足音の向かった先を見遣れば、亜美と来生、それに天麗の後ろ姿が目に入る。
「あの二人っ……」
苦々しげに顔を歪めた。
小学生から付き合いのある彼ら——恵利花も含めてのグループは、それなりの結束が有る。幼い頃は、ただ集まっているだけで楽しかったメンバーが、今も続いているのだ。
けれども柵が増え、それぞれの思いが複雑化する思春期の今となっては、ピッタリ心が揃って全員が同じく楽しめる状況など、無くなりつつある。なあなあで互いの顔色を窺いつつ、波風を立てないで「仲間」と括れる「大勢」に属する安心感を得る関係。
だからピアノ決めでも、恵利花は不服と辛さを飲み込んで受け入れようとした。仲間が関係性を保つために「やれ」と言うのなら、拒絶は追放を意味するものになるから。
けれど、天麗は、面と向かって異を唱えた。
《《メンバー》》が、多勢派の自分達の意に沿わない異分子に、どんな感情を持つかなど、恵利花が一番良く分かっている。
波風は立てたくない。
けれど、特に親しい《《メンバー》》でもない自分を、庇う発言をした天麗を放っておくことなど出来ない。
天麗の増援が必要だとは思うが、唯一思い浮かぶのは薮。その彼も、どこに行けば会えるのか心当たりなど無い。とするなら、居場所がはっきりしていて頼れる相手を呼ぶしかない。
「三浦先生、いらっしゃいますか!?」
息せき切って職員室の扉を開けた恵利花は、大声で頼りになる相手の名を呼んだ。
