数学の授業が定刻通り終わり、綾小路の元へ一色 恵利花が質問に向かう。それを横目に、天麗《あめり》は真っ直ぐ薮の席へと向かった。

「やっ、やややっ……やぶっ、りんっ!」

 薮りん。万感の思いを込めた呼び掛けに、薮はキョトンと丸く見開いた目を向けて来る。

「呼んだ?」

 尤もな返答だ。
 だがそれが嬉しくてならない。お昼の休憩時間も薮の傍へ駈け寄ってはいるが、どれだけ一緒に居ても、ただ同じタブレット画面を覗き込んでいるだけで飽きないのだ。

「またお休み中のお姫様を観察してたんですか?」

 言いながら覗いた先に在るのは、昼休みに見たのと変わらぬようにしか見えない「0」と「1」の文字列だ。綾小路はこれが機械語で、英語よりも難しいと言っていたが、全く同感でしかない。これから「眠り姫」の様子を見て取れる薮が凄すぎるのだ。

「うん。ちょっと気になることがあって……」

 どうにも薮の歯切れが悪い。

「何か気になることでもあるんですか?」

「うん。ここなんだけど」

 画面の一部分を指で示されるが、天麗《あめり》はその変化を把握することは出来ない。けれど、当たり前の変化ならば気付くことは出来る。例えば――

「0と1が、ちかちか動いてますね。ちょぴっとだけですけど」

「そうなんだ。この眠り姫は、動作に齟齬が発生した捨てデータだと思ってたんだけど……。もしかしたら、お姫様は起きているみたいで……。いや、もしかしたら、僕が掘り出したから動き出したのかもしれないんだ」

「にゅおぉぉお―――! それは凄いです、薮りんっ!! お姫様の救出成功ですねっ」

「うん。成功、なのかな? 良くわからないけど、今動いてるモノに異常が無ければ、まぁ大丈夫……なんだ……けど」

 どうにも歯切れの悪い薮だ。

「なんでそんなに自信が無いんですか? 薮りんは、タイピング速度と正確さ、刻々変化するプログラムへの脊髄反射とも言うべき対応能力に、機械語の瞬発的理解などなど、とんでもない能力をいっぱい持ってます!」

「くっ……うんぐっ。ほめ過ぎだってば! って、そうじゃなくって!」

 真っ赤になった薮は、会話のトーンを変えようと、ひとつ大きく深呼吸する。息を吐き切れば、直前まで照れて緩んでいた表情は、すっと落ち着きを取り戻して引き締まった。

「僕が起こした眠り姫が、パートナーAIだっていうのが、ちょっと気掛かりなんだ」

「そう言えばそうでした! 普通で、休止中の、パートナーAIでしたね。存在を0で隠された『囚われの姫』なんて浪漫を感じます。その彼女が、起こされたことに気付いて、動き始めてるんでしたよね。それのどんな点に、薮りんの心配があるんですか?」

 興味津々で身を乗り出し、瞳を輝かせる天麗《あめり》に、落ち着きが崩れてたじろぐ薮。頬に朱が差し掛けて、慌ててふるふると頭を振る。

「ううう、ここじゃちょっとっ。僕の心の準備と、落ち着きが必要だからっ……」

 焦る理由は分からない。けれど、ただならぬ薮の様子に、何らかの重要事項か問題が絡んでいるのだと察することはできる。
 それでも、問題に臆して聞かないなんて勿体ない真似をする選択肢は、天麗《あめり》にはない。
 見付かったお姫様はもちろん、薮にも、彼の作業にも興味津々なのだ。

「ナイショなんですか? 水臭いです! あれだけ共にお姫様発掘の興奮を分かち合ったじゃないですか。ここへ来てわたしだけ仲間外れにするなんて、ひどいですっ!」

 天麗《あめり》の見た目だけは悲劇の乙女になる懇願に、薮に向けてクラスメイトからの冷たい視線が飛んでくる。居た堪れない状況だ。

「分かったよ。じゃ、じゃあ、放課後に改めて話すからっ」

「はい! さすが薮りん! それでこそわたしのマブダチです!」

 どことなく和気藹々、和やかな空気に包まれた2人に、今度集まるのは生温かい空気だ。
 そんな雰囲気に気付いた天麗(あめり)は、ぽぽっと頬に上る熱に、両手の平を添えて冷ましつつ「約束だからねっ」と上目遣いで一方的な約束を突き付ける。向けられた薮は、上気した頬の上目遣い女子による渾身の一言を受けて魂を飛ばし、たっぷり1分硬直した後、赤面と共にガクリと脱力した。



「ざけんな……」

 教卓近くの最前列で、重い呟きが落ちる。
 彼の視界には、空席となった女友達の机と共に、呑気に二人の世界を作り上げる天麗(あめり)らが入り込む。彼女らが幸福そうであればあるほど、空席の住人である友人――亜美の不遇に胸が掻き乱され、心配が募る。
 教室での居た堪れなさに、聞き取りを終えてずっと保健室から戻ることに出来ない心の傷を負った亜美。

 距離を置いて冷たい視線を向ける来生(きすぎ) 稜斗(りょうと)を、仄暗い感情が支配しつつあった。