目覚めは決して良いとは言えなかった。差し込む日の光にはうんざりしたし、静かだった空気が動き始める時特有のざわついた雰囲気に溜息が漏れる。理由は分かっている。あまり――いや、全くと言っていい――良い夢を見なかったせいだ。

 そうだ、夢だ。

 昨日はひどく疲れていて夕方から変な夢を見たのだ。夢と現の境目があやふやで、馬鹿馬鹿しい妄想を――次姉のために綴っていた物語を現実のように思い込んでしまったのだ。

 だから、あんなことを――起こりもしないようなことをあたかも我が身に降り掛かった出来事のように捉えてしまったのだ。

 そう思うと気持ちが少し楽になった。

 そろりそろりと寝台から抜け出し、洗面所に向かう。頭から水をかぶりでもすれば、このぼんやりとした意識もはっきりするに違いない。そしてまた、いつもと変わらない一日が始まるに決まっているのだ。

 洗面所の人混みの中に、園田の姿を見つける。園田もまた、藤嗣に気付いたようだった。こっちに来い、と手を振ってくれている。

「おはようさん。どうした、疲れた顔して」

 ちょっと、と適当に濁して園田が陣取っていた蛇口をひねる。勢いよく出た水を頭から被った。

「あれは夢だった」

 口に出してみると、じわじわとそれが現実味を帯びてくる。

「松原? どうしたんだ、お前」

 問いかけには答えず、髪から滴を垂らしながら園田に訊ねる。

「今は現実に間違いないよな」

 口にしてみて、何とも妙なことを訊いていると思う。その証拠に、園田は黙って藤嗣の額に触れた。

「熱はないな」

 園田の手を振り払う。

「なんだ、何かあったのか」

「……」

 あった、と言うべきか。それとも黙っているべきか。悩みに悩んで、ぽつりと白状する。

「夢を、見たんだ……恐らく」

 夢でなくてはいけない。そうでなければ――藤嗣は。

 園田はなるほど、とそれで全てを察して深く頷いた。

「それで、夢と現が分からなくなっているんだな」

「……多分」

「それは大変だったなあ」

 あまり心配していなさそうな言い方は気が楽でいい。

「今日は五月八日、月曜日の朝。夢でも何でもない」

 五月八日。伝えられた日付を噛み締める。

 今は現、そしてあれは嫌な夢。それで片付けて今日一日を過ごせば良いのだ。――だが。



「藤嗣」



 背後で涼やかな声が藤嗣を呼んだ。姓ではなく、名を。

 ぐっと緊張するのが分かる。同時に洗面所に居た他の学生がざわついた。そんな周りの反応など気にもせず、声の主は藤嗣に近付くのだ。恐る恐る振り返る。

 間違いであれば良いと思ったけれど、それは聞き違いでも見間違いでもなく、千種伊織だった。

「ここに居たのか。僕にも一言、声を掛けてくれれば良かったのに」

 千種はそう言いながら、また一歩を踏み出す。学生たちは何も言わずに千種を避けるものだから、一筋の道が作られた。藤嗣の許に辿り着くまでの道が。

 夢ではないのか、あれは。昨日の夕方のやり取りは。ざわつく気持ちを抑えながら、これまでと変わらぬ調子で返す。

「……何で声を掛けなきゃいけないんだ」

 そんなこと、これまで一度もしたことはなかった。

「どうして。寂しいじゃないか」

 寂しいなど。あの千種がそんなことを言うなど。藤嗣は耳を疑ったし、周りもまた、千種が言ったことが信じられないとざわつく。

 洗面所に居る誰もが身動きを取れないでいる。千種が――女王陛下が何を言い出したのかと、一挙手一投足を見守っているのだ。

「今日は一段と仲が良いな」

 暢気なのは園田くらいだ。欠伸混じりに絡んでくる。

「まあ……」

 仲は悪くはなかったが、これほど良くもなかった。

 ならばあれは夢ではないかもしれない。だからといってそれをここで確認する訳にはいかず適当にはぐらかそうとすると、横から千種が腕を絡めてくる。

 まずい、と思ったときにはもう遅かった。

「そうだよ。僕と藤嗣は念友になったんだから」

 洗面所は水を打ったように静まりかえる。

「念友……? 松原と、千種が?」

 丁寧に園田が確認してくれる。藤嗣と、千種を指さして。そして、千種はしっかりと頷く。次の瞬間、洗面所は阿鼻叫喚の嵐となった。

 念友とは何だ、千種と松原が、いつからだ、嘘だろう――。横から手が伸びてきて、藤嗣の肩を掴む。嘘をつけ、と揺すられた。嘘であって欲しいと思うのは他でもない藤嗣だ。

 それを千種が横から否定する。

「嘘なものか。昨日の夕方からだよ。僕が言うんだ、信じないのか?」

 昨日の夕方。自習室。どれも夢で見た――いや、夢であって欲しいと思っていた出来事だ。千種に腕を絡められたまま、何も言わずに突っ立っている。あれは夢ではなかったらしい。あのひんやりとした手の感触は本物だったのだ。



 念友になっても、藤嗣の帳面は返されなかった。約束を違えるかもしれないと信用されていないのだ。次姉への物語はどうしようか。どうにかしてやりたいが、今はそれを考える余裕もない。夏休みまでには何とかする、と追って手紙を出すしかないだろう。それはどうにかするとして。

 弱みは握られたままだから、親しげに名を呼ぶ千種を振り払えない。もしそんなことをしたら、どうなってしまうことか。

 洗面所での騒動はすぐに食堂にまで波及した。朝食の間も、皆が事実を確かめようと周りに詰めかけた。隣りに座った千種も同様だったが、慣れたもので軽くあしらっている。

「長く話をしているうちに、僕には藤嗣がかけがえのない人になったんだ」

 照れくさそうにしながら、そんなことを平気で口にする。

 藤嗣は思う。これは選択を間違ってしまったのではないか、と。

 いや、しかし念友にならなければ今頃帳面は学校中で閲覧されていた。それを想像して思わず身震いする。これで良かったのだ、と何度も自分に言い聞かせながら。



 寮から校舎に続く廊下を歩きながら、小声で千種に念を押される。

「あからさまに嫌な顔をするなよ」

「……お前がくっつきすぎなんだ」

「それらしく振る舞わないといけないだろ。僕だって好き好んでくっついてない」

 部屋を出てからというもの、千種はべったりと隣にくっついている。二人を見た他の学生から、冷やかしの声や嘆きの声が投げられた。

「女王陛下、血迷ったんじゃないのか?」

「朝から熱いなあ、あーあ」

 そんな声に対して、千種は二人の仲を強調するように腕を絡めてくる。藤嗣にはどうしても、この状況を楽しんでいるようにしか見えない。

「好きに言いなよ。僕は藤嗣にぞっこんなんだ。ねえ、藤嗣」

 藤嗣を見て、可愛らしく小首を傾げてみせる仕草が、悔しいくらいに似合っている。

「藤嗣も僕を好きだろう?」

「どうだか」

 せめてもの皮肉を返す。藤嗣ができる精一杯の反撃だが、それは倍になって仕返しされるのだ。周りには聞こえない程度の低い声が、ついさっき甘ったるい言葉を紡いだ口から吐き出される。

「僕は契約破棄してもいいんだぞ」

 もしそうなれば、どうなるか。千種は分かっていて口の端を釣り上げて笑う。

「……俺が悪かった」

 謝るしかない。もう何もかもお手上げだ。千種は相変わらず楽しそうで、組んだ腕が解かれることはなかった。

「じゃあ問題はないな。これからは、お互いに名前で呼ぶこと」

「はあ?」

「その方が親しげだろ、藤嗣」

 長年付き合った馴染みのある名は、千種の口から紡がれたというだけで何か別のものに感じられた。居心地が悪い。教科書を持った手で首の辺りを掻く。

「ほら、藤嗣の番だ」

「俺の?」

「名前で呼ぶ練習だよ」

「……」

 何も言えないでいると、隣から冷たい視線が向けられる。

「僕の名前を知らないのか?」

「知ってるさ。千種伊織だろ」

「苗字はいいよ。ほら」

 ほら、と言われても呼び慣れていないものは口から出てこない。口の形を作ってみたが、音が発せられることはなかった。

「簡単だろう?」

「どこがだ」

「僕は呼んでるじゃないか、藤嗣」

「俺は無理だ」

「最初から諦めるのか?」

「無理だ」

「ほら、覚えてるんだからさ」

 そうやって千種はしばらく粘ったが、無理だと判断してくれた。それは不幸中の幸いか。

「まあいいか、千種で」

 ほっと安堵の息を漏らすが、念を押すことは忘れない。

「でも、僕を邪険にするなよ。分かったね」

 立場の弱い藤嗣は大人しく頷くしかなかった。