事件は不意に起こる。何気ない日常に急に波が押し寄せて足元の砂をさらっていくように。それは授業が休みの日曜日。平穏は音を立てて崩れていった。寮の部屋で明日の予習をしようと教科書を取り出した。その時に、いつも確認するものが――。
「……ない」
帳面が、ないのだ。引き出しの一番奥を定位置としているのに見当たらない。
ただの帳面ならばどうということはない。出てくるまでのんびり待とう、で済む。しかし見当たらないのは千種のことを書き綴っている帳面なのだ。
「どうした、捜し物か?」
藤嗣の手元を覗き込み、親切心からだろう園田が声を掛けてくれる。だがそれに答える余裕はない。
「ちょっとな」
「手伝おうか?」
「いや、いい」
机の引き出しをひっくり返す。どこかから出てくれることを祈ったが、それは叶わないまま終わる。
どこにも見当たらない。
汗がどっと吹き出るのを感じた。
誰かに拾われたならば間違いなく読まれてしまうだろう。すると――どうなる。
考えたくはないが、持ち主を探すために、もしくは面白がって、他の誰かに読ませる。そしてまた、次の誰かに。
読んでみれば、この学校を舞台にして、さらには名前を変えはしたが千種をモデルにして書かれているのが分かるはずだ。そして次に始まるのは、誰が書いたかの犯人探し。誰の字だ。見たことはないか。知っている。これは――。
そうなった時、千種にどう思われるか。そして何より――恥ずかしい。次姉以外に読まれることが。
早く見つけなければいけない。
深く息を吸い込み、気持ちを落ち着ける。まずは普段の行動を思い出すのだ。
藤嗣の日常に大きな変化はない。順を追って、足跡を辿るように歩いてみる。
始まりは寮の部屋から。
朝、目を覚ます。身支度を整えて食堂に行く。
人っ子一人いない食堂はがらんとしていた。食堂での席も決まっているし、何よりここにはなにも持っていかないから食堂で落とすことはない。念の為にしゃがんで床を見てみるが、埃一つ落ちていなかった。
食事を終えると、再び部屋に戻り授業の教科書を持って教室に向かう。寮と校舎は廊下で繋がっている。隅々を見ながら、教室までを歩いた。机の中を確認してみたが空だ。
教室にはない。だから残すはこの後。授業を終えての行動だ。
授業が終わると、寮に戻る。そして談話室か自習室。昨日は自習室だった。寮に戻り、階段を上る。
どうか、ここで見つかりますよう――祈る気持ちで自習室の扉を開ける。
果たして――そこには人影があった。西日が差し込む教室は橙に染まり、人影は影に飲まれている。顔立ちは分からない。
「やあ、松原じゃないか」
その影が藤嗣を呼んだ。その声は聞き慣れたものだ。何より、一度聞けば忘れない、耳に心地良い声。
千種だ。
「これは、松原が書いたもの?」
そう訊ねながら、千種はぱらぱらと帳面を捲る。
「……知らない」
「そう」
千種は歌うように帳面に書かれたものを読み上げ始めた。
「ある学生がいる。彼はとても美しかった。神が理想の人間を造形したのなら、まさしく彼がそうだったろう」
歌うように口にするのは、藤嗣が書いた小説の一部だ。体温が一気に上るのが分かる
「や……やめ……」
「ひとつひとつの所作に無駄がなく、物に触れるときもそっと撫でるように優しい。誰しもが触れて欲しいと思う。故に、人が彼に魅了されるのは当然のことなのだ。神の作り給うたものなのだから」
「やめてくれ」
「良いじゃないか。僕が読みたいんだから。
――彼は人の心を虜にする。
だが彼は誰にものにもならず、人を軽くあしらっていた。
私がそれを見たのは、何気なく通りかかった中庭でのことだ。縋る上級生を一瞥する彼は冷ややかだった。彼は女王のように君臨していた――……」
「やめろ!」
いくら次姉でも、口に出して読むようなことはしなかった。これほど羞恥心を刺激されるのは初めてのことだった。書いた文章を読み上げられるなど――それも、モデルにした本人から。
「面白い表現をするじゃないか」
そう言って掲げてみせたのは、藤嗣が探す帳面だ。飛びつきたくなるのを堪えて、次の言葉を待つ。
「こんなものを書いているなんて」
笑い声が交じる。
「君も中々の趣味を持っていたんだな」
「違う!」
向けられた言葉を、西日を浴びる藤嗣が強く遮る。だが、その威勢もそこまでだった。
「どう違うんだよ。これは僕だろう?」
千種だ。彼のことを許可もなしに好き勝手に書いているのだ。藤嗣に反論する権利は与えられていない。
「……」
「別に怒りはしないよ。ただ、残念だというだけ」
ずしりと身体が重くなる。残念だ、というその言葉がのしかかる。千種との間にゆっくりと築かれていたものが音を立てて崩れていくのが分かった。
良い友人になれるかもしれなかったが、それはもう叶わないのだ。
「なあ、松原」
藤嗣は黙ったまま千種を見る。もう――これまでの関係とは違うものになってしまうのだ。いや、もう。すでに違うものになっていた。
それを証明するように、千種は楽しげに提案をする。
「取引をしよう」
答えを待つ間があった。だが、藤嗣は何も答えられない。千種はそれを見越していたのだろう。
「なにも松原にとって不利なことじゃないさ」
相変わらず弾んだ声だ。
「これは純然たる取引だ。互いに利益しかない」
利益。その言葉に、ようやく藤嗣が口を開く。
「だったら、こちらに何の利益がある」
言葉の端に隠しきれない笑いが滲んでいた。こんな一方的な取引など何がある、と。
「秘密保持」
間髪入れず、堂々と言ってのけるのだから呆れてしまう。秘密を守るから取引をしろなど、それは利益ではない。脅しているのだ。
そう、脅し。千種は間違いなく脅迫者であった。
「もし、断れば――」
この取引を受けなければどうなるか。それは目に見えている。それでもなお訊ねたのは虚勢だ。
「分かるだろう、どうなるか」
脅迫者である千種はそれ以上を言わなかった。言ったところで答えは変わらないと分かっているのだ。受け入れるか、拒むか。それは初めから決まっている。
「……条件は、なんだ?」
だがそれでもなお、条件を聞くだけだというふりを見せる。そうしなければ分が悪い。
いや、分など最初から悪いのだ。脅迫する者とされる者、端から立場は対等ではない。
「そうこなくてはね」
脅迫者は双眸を細めて微笑んだように見えた。影が邪魔をしてよく見えなかったけれど。影に包まれていない千種の面立ちは知っている。だから想像するのは容易だ。
喩えるなら、名のある仏師が彫った菩薩のような。喩えるなら、西洋の宗教画に描かれた聖母のような。
そんな誰もが見惚れるほどの微笑みに違いない。
主導権は始終千種が握っていた。立場の上下は決まっているのだ。千種が上、藤嗣が下。主導権など握れるはずがない。
千種は淡々と語った。
遠くで外出していたらしい学生たちが帰ってくる声が聞こえた。それはあまりにこの空間と不釣り合いで、藤嗣はこの部屋が現実から切り離されたどこか別の場所であるように感じている。
「松原も知っての通り、僕はよく呼び出される」
上級生だけでなく、同級生にもそうだという。念友になってくれと懇願されている。それは迷惑だろう。
「今はまだ、何もないけれど――いつか暴力を振るわれるかもしれない」
確かに、あんな態度を続けていればいつそうなるか分からない。それは分かるが、ならば回避するために何かできるのではないか。
「そうならないよう、柔らかく断れば良いんじゃないか?」
藤嗣としてはごく当たり前の提案だった。時には自分を曲げて、仕方なく従うことも大切だ。だが、千種は形の良い眉を寄せる。
「僕が? どうして」
そんなことをする義理はない、と千種は心底嫌そうに言った。
「呼び出されるだけでも面倒なのに、どうして僕が下手に出なくちゃいけないんだ」
確かに一理ある。が、それで危険な目に遭うのは本末転倒ではないか。
「暴力を振るわれるのは嫌だ」
誰だってそうだろう。
「だからといって、僕は笑顔で媚びるなどまっぴらごめんだ」
それは曲げないのか。藤嗣の知らない千種の顔が次々に出てくる。中庭での冷ややかな顔ではなく、徐々に親しくなっていった時の互いの距離を測るような顔でもない。誇り高く我の強い君主。これが本来の顔なのか。
「だから考えた」
それは得意げですらあった。これ以上ないほどの名案を思い付いたとばかりに千種は続ける。
「松原、僕と念友になれ」
「はあっ!?」
藤嗣は脅される側で、千種の機嫌を損ねるようなことは極力避けるべきだ。だから言葉ひとつひとつにも気を配るのが正しい。それは分かっている。
だが、提示された取引の条件はそんな気遣いを忘れさせるに充分だった。
念友になれ、と言った。聞き間違いでなければ、確かにそう言ったのだ。あれほど上級生からの呼び出しに嫌な顔をしていた千種が、だ。
口をぽかんと開けて呆ける藤嗣をよそに、千種は続ける。それはどこか得意げですらあった。
「念友ができれば、僕に言い寄るやつもいなくなる。そう思わないか?」
どうだろう。いなくなるかもしれないし、いなくならないかもしれない。
「なんで……」
もっと適任はいるだろう。千種に好意を抱いている相手ならば、喜んで頷くはずだ。仲良くなってきたとはいえ、そこで藤嗣を選んだ理由。それを考えて、出した答えに思わず後退る。
「まさか、お前……俺のこと」
気付かなかっただけで、もしかして千種は藤嗣に思いを寄せていたのか。だから、数ある同輩の中から藤嗣を選んだのか。気付けなかった申し訳無さと気恥ずかしさに、口元を覆い顔を伏せると、汚い言葉が飛んできた。
「馬鹿か! 妙なことを考えるな!」
「……違うのか?」
「当たり前だ。取引だと言っただろう。念友のふりだ」
そうだ、取引を持ち掛けられたのだった。あまりの条件にすっかり失念していたけれど。
「松原は適任だからな」
千種に好意を持っていないから、万が一ということもない。そして弱みを握っているから立場は千種の方が上だ。千種にとって利益こそあれ不利なことはひとつもない。
「もし、断ったら――」
恐る恐る訊ねると、千種は橙色の日を背後に受けて見とれるような微笑みを浮かべた。
「松原先生の作品を皆に読んでもらう良い機会になるだろうね」
「それはやめてくれ!」
次姉に向けてのみ書いているのだ。大勢に読んでもらうなど考えただけで恐ろしい。
かといって、千種の念友になるというのもすぐに頷けるものではない。
「……少し考えさせてくれないか。せめて一週――」
「一分」
どこまでも身勝手なことを言う。
ここで断ってしまえば、藤嗣の書いた文章は学校中に広まる。三年間、下手をすれば卒業後も読みつがれるだろう。想像するだけで針のむしろだ。
対して、千種の念友になったらどうなるのか。念友とはいっても、ふりだ。そこに何の感情もない。秘密を守る、という取り決めがあるだけ。千種には利があり、藤嗣には何の害もない。恐らく。
「本当に、ふりだけなんだろうな」
「くどいな。当たり前だろ」
周りを欺くためだけ。
「俺に何かしらの害はあるのか?」
「これまでより一緒にいる時間が増えるくらいかな」
そこに多少の上下関係が生まれはするが、千種と話す時間は嫌ではなかった。ならば困ることは何もない。恥をかくか、それとも偽りの念友になるか。
出る答えは一週間かかっても変わらないだろう。
「……分かった。念友になる」
その答えが返ってくると千種も分かっていたようだった。千種は満足げに頷く。
「契約成立だな」
手が差し出された。ほっそりとした手だ。契約のために、と藤嗣も手を握る。千種の手はひんやりとして心地よかった。
「……ない」
帳面が、ないのだ。引き出しの一番奥を定位置としているのに見当たらない。
ただの帳面ならばどうということはない。出てくるまでのんびり待とう、で済む。しかし見当たらないのは千種のことを書き綴っている帳面なのだ。
「どうした、捜し物か?」
藤嗣の手元を覗き込み、親切心からだろう園田が声を掛けてくれる。だがそれに答える余裕はない。
「ちょっとな」
「手伝おうか?」
「いや、いい」
机の引き出しをひっくり返す。どこかから出てくれることを祈ったが、それは叶わないまま終わる。
どこにも見当たらない。
汗がどっと吹き出るのを感じた。
誰かに拾われたならば間違いなく読まれてしまうだろう。すると――どうなる。
考えたくはないが、持ち主を探すために、もしくは面白がって、他の誰かに読ませる。そしてまた、次の誰かに。
読んでみれば、この学校を舞台にして、さらには名前を変えはしたが千種をモデルにして書かれているのが分かるはずだ。そして次に始まるのは、誰が書いたかの犯人探し。誰の字だ。見たことはないか。知っている。これは――。
そうなった時、千種にどう思われるか。そして何より――恥ずかしい。次姉以外に読まれることが。
早く見つけなければいけない。
深く息を吸い込み、気持ちを落ち着ける。まずは普段の行動を思い出すのだ。
藤嗣の日常に大きな変化はない。順を追って、足跡を辿るように歩いてみる。
始まりは寮の部屋から。
朝、目を覚ます。身支度を整えて食堂に行く。
人っ子一人いない食堂はがらんとしていた。食堂での席も決まっているし、何よりここにはなにも持っていかないから食堂で落とすことはない。念の為にしゃがんで床を見てみるが、埃一つ落ちていなかった。
食事を終えると、再び部屋に戻り授業の教科書を持って教室に向かう。寮と校舎は廊下で繋がっている。隅々を見ながら、教室までを歩いた。机の中を確認してみたが空だ。
教室にはない。だから残すはこの後。授業を終えての行動だ。
授業が終わると、寮に戻る。そして談話室か自習室。昨日は自習室だった。寮に戻り、階段を上る。
どうか、ここで見つかりますよう――祈る気持ちで自習室の扉を開ける。
果たして――そこには人影があった。西日が差し込む教室は橙に染まり、人影は影に飲まれている。顔立ちは分からない。
「やあ、松原じゃないか」
その影が藤嗣を呼んだ。その声は聞き慣れたものだ。何より、一度聞けば忘れない、耳に心地良い声。
千種だ。
「これは、松原が書いたもの?」
そう訊ねながら、千種はぱらぱらと帳面を捲る。
「……知らない」
「そう」
千種は歌うように帳面に書かれたものを読み上げ始めた。
「ある学生がいる。彼はとても美しかった。神が理想の人間を造形したのなら、まさしく彼がそうだったろう」
歌うように口にするのは、藤嗣が書いた小説の一部だ。体温が一気に上るのが分かる
「や……やめ……」
「ひとつひとつの所作に無駄がなく、物に触れるときもそっと撫でるように優しい。誰しもが触れて欲しいと思う。故に、人が彼に魅了されるのは当然のことなのだ。神の作り給うたものなのだから」
「やめてくれ」
「良いじゃないか。僕が読みたいんだから。
――彼は人の心を虜にする。
だが彼は誰にものにもならず、人を軽くあしらっていた。
私がそれを見たのは、何気なく通りかかった中庭でのことだ。縋る上級生を一瞥する彼は冷ややかだった。彼は女王のように君臨していた――……」
「やめろ!」
いくら次姉でも、口に出して読むようなことはしなかった。これほど羞恥心を刺激されるのは初めてのことだった。書いた文章を読み上げられるなど――それも、モデルにした本人から。
「面白い表現をするじゃないか」
そう言って掲げてみせたのは、藤嗣が探す帳面だ。飛びつきたくなるのを堪えて、次の言葉を待つ。
「こんなものを書いているなんて」
笑い声が交じる。
「君も中々の趣味を持っていたんだな」
「違う!」
向けられた言葉を、西日を浴びる藤嗣が強く遮る。だが、その威勢もそこまでだった。
「どう違うんだよ。これは僕だろう?」
千種だ。彼のことを許可もなしに好き勝手に書いているのだ。藤嗣に反論する権利は与えられていない。
「……」
「別に怒りはしないよ。ただ、残念だというだけ」
ずしりと身体が重くなる。残念だ、というその言葉がのしかかる。千種との間にゆっくりと築かれていたものが音を立てて崩れていくのが分かった。
良い友人になれるかもしれなかったが、それはもう叶わないのだ。
「なあ、松原」
藤嗣は黙ったまま千種を見る。もう――これまでの関係とは違うものになってしまうのだ。いや、もう。すでに違うものになっていた。
それを証明するように、千種は楽しげに提案をする。
「取引をしよう」
答えを待つ間があった。だが、藤嗣は何も答えられない。千種はそれを見越していたのだろう。
「なにも松原にとって不利なことじゃないさ」
相変わらず弾んだ声だ。
「これは純然たる取引だ。互いに利益しかない」
利益。その言葉に、ようやく藤嗣が口を開く。
「だったら、こちらに何の利益がある」
言葉の端に隠しきれない笑いが滲んでいた。こんな一方的な取引など何がある、と。
「秘密保持」
間髪入れず、堂々と言ってのけるのだから呆れてしまう。秘密を守るから取引をしろなど、それは利益ではない。脅しているのだ。
そう、脅し。千種は間違いなく脅迫者であった。
「もし、断れば――」
この取引を受けなければどうなるか。それは目に見えている。それでもなお訊ねたのは虚勢だ。
「分かるだろう、どうなるか」
脅迫者である千種はそれ以上を言わなかった。言ったところで答えは変わらないと分かっているのだ。受け入れるか、拒むか。それは初めから決まっている。
「……条件は、なんだ?」
だがそれでもなお、条件を聞くだけだというふりを見せる。そうしなければ分が悪い。
いや、分など最初から悪いのだ。脅迫する者とされる者、端から立場は対等ではない。
「そうこなくてはね」
脅迫者は双眸を細めて微笑んだように見えた。影が邪魔をしてよく見えなかったけれど。影に包まれていない千種の面立ちは知っている。だから想像するのは容易だ。
喩えるなら、名のある仏師が彫った菩薩のような。喩えるなら、西洋の宗教画に描かれた聖母のような。
そんな誰もが見惚れるほどの微笑みに違いない。
主導権は始終千種が握っていた。立場の上下は決まっているのだ。千種が上、藤嗣が下。主導権など握れるはずがない。
千種は淡々と語った。
遠くで外出していたらしい学生たちが帰ってくる声が聞こえた。それはあまりにこの空間と不釣り合いで、藤嗣はこの部屋が現実から切り離されたどこか別の場所であるように感じている。
「松原も知っての通り、僕はよく呼び出される」
上級生だけでなく、同級生にもそうだという。念友になってくれと懇願されている。それは迷惑だろう。
「今はまだ、何もないけれど――いつか暴力を振るわれるかもしれない」
確かに、あんな態度を続けていればいつそうなるか分からない。それは分かるが、ならば回避するために何かできるのではないか。
「そうならないよう、柔らかく断れば良いんじゃないか?」
藤嗣としてはごく当たり前の提案だった。時には自分を曲げて、仕方なく従うことも大切だ。だが、千種は形の良い眉を寄せる。
「僕が? どうして」
そんなことをする義理はない、と千種は心底嫌そうに言った。
「呼び出されるだけでも面倒なのに、どうして僕が下手に出なくちゃいけないんだ」
確かに一理ある。が、それで危険な目に遭うのは本末転倒ではないか。
「暴力を振るわれるのは嫌だ」
誰だってそうだろう。
「だからといって、僕は笑顔で媚びるなどまっぴらごめんだ」
それは曲げないのか。藤嗣の知らない千種の顔が次々に出てくる。中庭での冷ややかな顔ではなく、徐々に親しくなっていった時の互いの距離を測るような顔でもない。誇り高く我の強い君主。これが本来の顔なのか。
「だから考えた」
それは得意げですらあった。これ以上ないほどの名案を思い付いたとばかりに千種は続ける。
「松原、僕と念友になれ」
「はあっ!?」
藤嗣は脅される側で、千種の機嫌を損ねるようなことは極力避けるべきだ。だから言葉ひとつひとつにも気を配るのが正しい。それは分かっている。
だが、提示された取引の条件はそんな気遣いを忘れさせるに充分だった。
念友になれ、と言った。聞き間違いでなければ、確かにそう言ったのだ。あれほど上級生からの呼び出しに嫌な顔をしていた千種が、だ。
口をぽかんと開けて呆ける藤嗣をよそに、千種は続ける。それはどこか得意げですらあった。
「念友ができれば、僕に言い寄るやつもいなくなる。そう思わないか?」
どうだろう。いなくなるかもしれないし、いなくならないかもしれない。
「なんで……」
もっと適任はいるだろう。千種に好意を抱いている相手ならば、喜んで頷くはずだ。仲良くなってきたとはいえ、そこで藤嗣を選んだ理由。それを考えて、出した答えに思わず後退る。
「まさか、お前……俺のこと」
気付かなかっただけで、もしかして千種は藤嗣に思いを寄せていたのか。だから、数ある同輩の中から藤嗣を選んだのか。気付けなかった申し訳無さと気恥ずかしさに、口元を覆い顔を伏せると、汚い言葉が飛んできた。
「馬鹿か! 妙なことを考えるな!」
「……違うのか?」
「当たり前だ。取引だと言っただろう。念友のふりだ」
そうだ、取引を持ち掛けられたのだった。あまりの条件にすっかり失念していたけれど。
「松原は適任だからな」
千種に好意を持っていないから、万が一ということもない。そして弱みを握っているから立場は千種の方が上だ。千種にとって利益こそあれ不利なことはひとつもない。
「もし、断ったら――」
恐る恐る訊ねると、千種は橙色の日を背後に受けて見とれるような微笑みを浮かべた。
「松原先生の作品を皆に読んでもらう良い機会になるだろうね」
「それはやめてくれ!」
次姉に向けてのみ書いているのだ。大勢に読んでもらうなど考えただけで恐ろしい。
かといって、千種の念友になるというのもすぐに頷けるものではない。
「……少し考えさせてくれないか。せめて一週――」
「一分」
どこまでも身勝手なことを言う。
ここで断ってしまえば、藤嗣の書いた文章は学校中に広まる。三年間、下手をすれば卒業後も読みつがれるだろう。想像するだけで針のむしろだ。
対して、千種の念友になったらどうなるのか。念友とはいっても、ふりだ。そこに何の感情もない。秘密を守る、という取り決めがあるだけ。千種には利があり、藤嗣には何の害もない。恐らく。
「本当に、ふりだけなんだろうな」
「くどいな。当たり前だろ」
周りを欺くためだけ。
「俺に何かしらの害はあるのか?」
「これまでより一緒にいる時間が増えるくらいかな」
そこに多少の上下関係が生まれはするが、千種と話す時間は嫌ではなかった。ならば困ることは何もない。恥をかくか、それとも偽りの念友になるか。
出る答えは一週間かかっても変わらないだろう。
「……分かった。念友になる」
その答えが返ってくると千種も分かっていたようだった。千種は満足げに頷く。
「契約成立だな」
手が差し出された。ほっそりとした手だ。契約のために、と藤嗣も手を握る。千種の手はひんやりとして心地よかった。
