寮に戻ると再び次姉からの手紙が届いていた。ストームのことを書いてみたところ、次姉は大いに喜んでくれた。だが、同時にこれでは単なる手紙ではないかという指摘もあった。確かに藤嗣が体験したそのままを書いたので、物語の体をなしていなかった。それは認めざるを得ない。
読みたいのは日常を綴る手紙ではなく物語だ、小説なのだという。
「小説と言われても……」
ならばと改めてストームのことを小説仕立てにして書いて――喜んでもらえる自信はない。次姉にとって目新しいものではなくなってしまっている。釘をさすように、私の好きなものは知っているでしょう、とまで書かれていた。
それは知っている。嫁入りのためにと唯一買ってもらえた『源氏物語』。次姉は何度も読んでいた。きっと好きなのだろう。光源氏のような、見目麗しい公達が出てくる物語が。
対して、今の藤嗣の生活はどうだ。皆、髪や髭は伸ばし放題、制服や帽子は使い古されたものこそ至高。それをそのまま書いて、果たして喜ばれるとは思えなかった。
何か。もっと他に。日常に不満はないが、藤嗣は頭を抱える。夏に帰るまでにはどうにかしなければ。
中庭での一件をきっかけにして、藤嗣の日常に少しの変化があった。
「松原」
千種から話しかけられるようになったのだ。教室中の視線が一気に向けられるのが分かる。千種も気付いているだろうが、慣れているのか気にする様子はなかった。
「この本、面白かったよ」
そう言って本を差し出す手は細くなよやかだった。頁を捲り、ここが好きなのだと示す指ばかりに目が行ってしまう。男には興味のない藤嗣ですらそうなのだ。外見はほんの一部だと分かっていても、いや、分かっているからこそ、もっと知りたい、近付きたいと思うのか。だから好意を伝えるのかもしれない。話をしたいがために。
だが、千種は冷ややかだ。中庭で目の当たりにしたが、興味がないと一蹴する。特に親しい友人もいないようだった。
これまでは。そんな千種が、どうしたことかここ最近急に藤嗣と話すようになった。大事件である。
千種が離れるのを待って、皆に詰め寄られる。襟元を、肩を、髪を掴まれた。
「おい、松原」
「何があったんだ」
「同室だからか?」
「だが、園田とは話さないぞ」
「どういうことだ」
何がそこまで必死にさせるのか、思わず後退る。
「皆が千種と仲良くしたいと思っているのに……」
心から悔しそうに言う級友に、ため息を漏らす。
「だったら話しかければ良いだろ」
「冷たくあしらわれたら嫌だろう!」
「事実、俺は冷たい視線を向けられた!」
これまで、藤嗣は千種に全く興味を持っていなかったのだと実感した。
千種に好意を寄せたり――硬派と呼ばれる者たちだ――、仲良くなりたいと思っている学生は多くいるようで、何かしらの接点を持ちたいと思っているようだった。
千種は所作ひとつ取っても美しく、確かに憧れる気持ちも分からないではない。
今だって、席について本を読む横顔は見惚れてしまう。迷いなく描かれた額から鼻先にかけての曲線。唇の膨らみ。頁を捲る指先の優美な動き。その指が時折唇に触れ、音を確かめるようにかすかに動く。もっと近付けば、あの耳に心地良い声が聞こえてくるのではないかと思わせた。
輪から抜け出し、席に着いた藤嗣を園田の呆れ混じりの声が迎えた。
「松原、お前もか」
「は?」
「笑顔で接してもらえているのは女王陛下の気まぐれだぞ」
「なんだ、その女王陛下っていうのは……」
「千種のあだ名」
「馬鹿馬鹿しい。千種はいいやつだよ」
話してみると気易く、本の好みも合う。だから妙なことを言われるのは心外だった。
だが、藤嗣の思いは伝わらない。
「飽きられても落ち込むなよ」
「園田、妙なことを言うな」
そう言ってみても、園田は彼の中で面白い流れを想像しているのだろう。
「俺は偏見などないからな。安心しろ」
「誤解だ」
だが誤解というものは容易に解けるものではない。むしろ否定すればするほどに深くなるものだ。
「千種ならば……まあ、分からんでもないな。あんまり入れ込んで、学問をおろそかにするなよ」
これ以上は言い訳になりそうで、藤嗣は黙るしかなかった。
千種が目を引くのは事実だ。その整った顔立ち。涼やかな声音。そして男爵家という出自。どれを取っても物語の中に出てきてもおかしくないような人物なのだから。
「――……」
物語の中。
公達のように見目麗しい千種。これは次姉の好みそうな題材ではないか。
ならば、千種のことを書いてはどうだろうか。
だが、小説に書けるほど千種の内面を知らない。気の良い同級生なのか、それとも園田の言うような気まぐれな“女王陛下”なのか。千種を主人公にしていても、そのうち藤嗣の視点が入ってきそうだ。
「おい、松原」
「後でな」
園田に話しかけられてしまい、思考が絡まる。それをゆっくりと解きながら考える。
よく知らない。ならばどうすればいい。題材は悪くないのだ。知らない場合、物語を綴っていくうちにじわじわと明かしていくのが定石だ。
ならば藤嗣の――“私”の視点で彼を見る話ではどうだろう。
“私”の視点で千種の日常を綴る。分からない部分は多少の脚色を加えて。それならば喜んでもらえるのではないか。それがいい、それしかない。徐々に確信へと変わる。
書き始めは、千種との出会いからが良い。寮の部屋が同じで仲良くなる。念友のことは書いても良いだろうか。次姉の好みに添えるかどうか。どちらにしろ、千種は孤高の存在であるといい。
言葉がみるみる溢れてくる。もっと彼のことを知りたい。そうすれば物語に深みが出てくるだろうから。
「お前は見ていて飽きないな」
藤嗣を眺めていた園田が、そう呟いた。
千種との仲をゆっくりと縮めていった。意図的だと言ってもいい。多少申し訳ない気持ちもあったので、心の中で千種に謝りながら。
「千種、今夜は暇か?」
「ああ。暇だよ。どうしてだ?」
「だったら、定食屋に行かないか」
学校近くの定食屋は学生たちの溜まり場だった。園田と時々寮を抜け出して出かけていたが、そこで千種の姿を見ることはなかった。誘ってみると、千種は目を輝かせる。
「いいのか? 僕も」
「当たり前だ。とはいっても、豪勢な料理は出ないけどな」
「そんなもの、いらないよ」
「だったら決まりだ。金がなくても、出世払いで食わせてもらえるんだ」
定食屋の女将は太っ腹で、いつ払えるとも知れない学生たちに山盛りの食事を用意してくれる。寮の食事も良いが、抜け出して食べに行くことが冒険心を掻き立てられて藤嗣はちょくちょく顔を出していた。
「行く。行きたい」
思いがけない乗り気の返事に、藤嗣のほうが面食らってしまう。
「じゃあ、夜にな」
「分かった」
定食屋の料理は庶民向けで、果たして千種の口に合うかどうか。男爵家の食事はきっと豪華なのだろう。だからこそ、庶民の食べ物が気になるのかもしれない。
店は無限坂を下りた所にある。だるま屋と書かれた暖簾が下がっていた。店は有鄰館の学生で賑わう。たまり場のようになっているのだ。
「松原じゃないか。食堂の飯じゃ足りなかったのか」
賑やかな輪の中に入り、女将に注文をする。
「千種は――」
藤嗣について隣にでも座っているだろうと思ったが、姿が見えない。辺りを見回すと、入り口に立ち尽くしたままじっとしている。
その姿を見た学生たちは信じられないものを見たと目をむく。
「女王陛下じゃないか」
「こんな店に?」
「何の気まぐれだ?」
「女王陛下じゃない。千種だ」
一人の頭をぐいと押して黙らせる。
「千種! こっちに来いよ」
周りは千種をじっと見て近付こうとしない。千種はこんな目に晒されているのか、と改めて知らされた。けっして居心地が良いものではないだろう。呼んでも千種は動かなかった。ならばと立ち上がり、手を引いて無理矢理輪に入れる。
「今日は千種も一緒だ。良いだろ」
座に反対を言う者はなく、千種は緊張した面持ちで席に着く。しんとした席に、女将の明るい声が降ってきた。
「あんたたち、どうしたの。いつもはあれほどうるさいのに」
黙ってはいるものの、そわそわと落ち着きのない学生たちの視線の先、千種に気付いた女将は、おやと声を上げた。
「初めての子だねえ。しっかり食べていくんだよ」
千種の外見をあれこれ言うでもなく、他の学生と扱いは変わらない。
「ありがとう、ございます」
千種の手に、丼が渡される。女将はその中に、どんどんとおでんの具を入れていった。玉子、大根、丸天――。みるみる間に丼は山盛りになった。
「家で食べていたものよりも質素だろうけれどさ」
なんせ千種は男爵家なのだ。日頃は洋食だのなんだのと豪勢な食事をしていただろう。口に合うかは自信がなかった。
すると千種は不機嫌そうに藤嗣を一瞥する。
「僕はなんでも食べるよ」
箸を持つと、つがれたおでんを次々に頬張る。いつもは食堂でも行儀良く食べている千種が、今日は大きな口を開けて玉子を頬張っている。
「おお……」
「千種が玉子を食べている……」
「女王陛下が大根を……」
「しかも、大口を開けて……」
皆が好奇の目でその姿を見ていた。つんと澄ました顔に似合わない豪快な食べっぷりに、皆の箸が止まっていた。
「そんなに見られたら食べにくい! 僕だって人間なんだ、なんだって食べるよ!」
黒曜石の瞳で一人ひとりを睨めつける。感心していた学生たちにとっては、それすらも褒美に感じるようだった。
「なんだい、あんたたち。今日はもう食べないのかい?」
女将が不思議そうに言うのだった。
「おでん、千種には珍しいだろう?」
「そんなことはない」
男爵家の食卓にもおでんは出るのだろうか。てっきり庶民の間でしか食べられていないとばかり思っていたのだが。
千種はむっつりと黙ってしまったが、妙なことを言ってしまったのか。親しくなったとはいえ、千種には分からないことが多い。それが面白いところでもあるのだけれど。
読みたいのは日常を綴る手紙ではなく物語だ、小説なのだという。
「小説と言われても……」
ならばと改めてストームのことを小説仕立てにして書いて――喜んでもらえる自信はない。次姉にとって目新しいものではなくなってしまっている。釘をさすように、私の好きなものは知っているでしょう、とまで書かれていた。
それは知っている。嫁入りのためにと唯一買ってもらえた『源氏物語』。次姉は何度も読んでいた。きっと好きなのだろう。光源氏のような、見目麗しい公達が出てくる物語が。
対して、今の藤嗣の生活はどうだ。皆、髪や髭は伸ばし放題、制服や帽子は使い古されたものこそ至高。それをそのまま書いて、果たして喜ばれるとは思えなかった。
何か。もっと他に。日常に不満はないが、藤嗣は頭を抱える。夏に帰るまでにはどうにかしなければ。
中庭での一件をきっかけにして、藤嗣の日常に少しの変化があった。
「松原」
千種から話しかけられるようになったのだ。教室中の視線が一気に向けられるのが分かる。千種も気付いているだろうが、慣れているのか気にする様子はなかった。
「この本、面白かったよ」
そう言って本を差し出す手は細くなよやかだった。頁を捲り、ここが好きなのだと示す指ばかりに目が行ってしまう。男には興味のない藤嗣ですらそうなのだ。外見はほんの一部だと分かっていても、いや、分かっているからこそ、もっと知りたい、近付きたいと思うのか。だから好意を伝えるのかもしれない。話をしたいがために。
だが、千種は冷ややかだ。中庭で目の当たりにしたが、興味がないと一蹴する。特に親しい友人もいないようだった。
これまでは。そんな千種が、どうしたことかここ最近急に藤嗣と話すようになった。大事件である。
千種が離れるのを待って、皆に詰め寄られる。襟元を、肩を、髪を掴まれた。
「おい、松原」
「何があったんだ」
「同室だからか?」
「だが、園田とは話さないぞ」
「どういうことだ」
何がそこまで必死にさせるのか、思わず後退る。
「皆が千種と仲良くしたいと思っているのに……」
心から悔しそうに言う級友に、ため息を漏らす。
「だったら話しかければ良いだろ」
「冷たくあしらわれたら嫌だろう!」
「事実、俺は冷たい視線を向けられた!」
これまで、藤嗣は千種に全く興味を持っていなかったのだと実感した。
千種に好意を寄せたり――硬派と呼ばれる者たちだ――、仲良くなりたいと思っている学生は多くいるようで、何かしらの接点を持ちたいと思っているようだった。
千種は所作ひとつ取っても美しく、確かに憧れる気持ちも分からないではない。
今だって、席について本を読む横顔は見惚れてしまう。迷いなく描かれた額から鼻先にかけての曲線。唇の膨らみ。頁を捲る指先の優美な動き。その指が時折唇に触れ、音を確かめるようにかすかに動く。もっと近付けば、あの耳に心地良い声が聞こえてくるのではないかと思わせた。
輪から抜け出し、席に着いた藤嗣を園田の呆れ混じりの声が迎えた。
「松原、お前もか」
「は?」
「笑顔で接してもらえているのは女王陛下の気まぐれだぞ」
「なんだ、その女王陛下っていうのは……」
「千種のあだ名」
「馬鹿馬鹿しい。千種はいいやつだよ」
話してみると気易く、本の好みも合う。だから妙なことを言われるのは心外だった。
だが、藤嗣の思いは伝わらない。
「飽きられても落ち込むなよ」
「園田、妙なことを言うな」
そう言ってみても、園田は彼の中で面白い流れを想像しているのだろう。
「俺は偏見などないからな。安心しろ」
「誤解だ」
だが誤解というものは容易に解けるものではない。むしろ否定すればするほどに深くなるものだ。
「千種ならば……まあ、分からんでもないな。あんまり入れ込んで、学問をおろそかにするなよ」
これ以上は言い訳になりそうで、藤嗣は黙るしかなかった。
千種が目を引くのは事実だ。その整った顔立ち。涼やかな声音。そして男爵家という出自。どれを取っても物語の中に出てきてもおかしくないような人物なのだから。
「――……」
物語の中。
公達のように見目麗しい千種。これは次姉の好みそうな題材ではないか。
ならば、千種のことを書いてはどうだろうか。
だが、小説に書けるほど千種の内面を知らない。気の良い同級生なのか、それとも園田の言うような気まぐれな“女王陛下”なのか。千種を主人公にしていても、そのうち藤嗣の視点が入ってきそうだ。
「おい、松原」
「後でな」
園田に話しかけられてしまい、思考が絡まる。それをゆっくりと解きながら考える。
よく知らない。ならばどうすればいい。題材は悪くないのだ。知らない場合、物語を綴っていくうちにじわじわと明かしていくのが定石だ。
ならば藤嗣の――“私”の視点で彼を見る話ではどうだろう。
“私”の視点で千種の日常を綴る。分からない部分は多少の脚色を加えて。それならば喜んでもらえるのではないか。それがいい、それしかない。徐々に確信へと変わる。
書き始めは、千種との出会いからが良い。寮の部屋が同じで仲良くなる。念友のことは書いても良いだろうか。次姉の好みに添えるかどうか。どちらにしろ、千種は孤高の存在であるといい。
言葉がみるみる溢れてくる。もっと彼のことを知りたい。そうすれば物語に深みが出てくるだろうから。
「お前は見ていて飽きないな」
藤嗣を眺めていた園田が、そう呟いた。
千種との仲をゆっくりと縮めていった。意図的だと言ってもいい。多少申し訳ない気持ちもあったので、心の中で千種に謝りながら。
「千種、今夜は暇か?」
「ああ。暇だよ。どうしてだ?」
「だったら、定食屋に行かないか」
学校近くの定食屋は学生たちの溜まり場だった。園田と時々寮を抜け出して出かけていたが、そこで千種の姿を見ることはなかった。誘ってみると、千種は目を輝かせる。
「いいのか? 僕も」
「当たり前だ。とはいっても、豪勢な料理は出ないけどな」
「そんなもの、いらないよ」
「だったら決まりだ。金がなくても、出世払いで食わせてもらえるんだ」
定食屋の女将は太っ腹で、いつ払えるとも知れない学生たちに山盛りの食事を用意してくれる。寮の食事も良いが、抜け出して食べに行くことが冒険心を掻き立てられて藤嗣はちょくちょく顔を出していた。
「行く。行きたい」
思いがけない乗り気の返事に、藤嗣のほうが面食らってしまう。
「じゃあ、夜にな」
「分かった」
定食屋の料理は庶民向けで、果たして千種の口に合うかどうか。男爵家の食事はきっと豪華なのだろう。だからこそ、庶民の食べ物が気になるのかもしれない。
店は無限坂を下りた所にある。だるま屋と書かれた暖簾が下がっていた。店は有鄰館の学生で賑わう。たまり場のようになっているのだ。
「松原じゃないか。食堂の飯じゃ足りなかったのか」
賑やかな輪の中に入り、女将に注文をする。
「千種は――」
藤嗣について隣にでも座っているだろうと思ったが、姿が見えない。辺りを見回すと、入り口に立ち尽くしたままじっとしている。
その姿を見た学生たちは信じられないものを見たと目をむく。
「女王陛下じゃないか」
「こんな店に?」
「何の気まぐれだ?」
「女王陛下じゃない。千種だ」
一人の頭をぐいと押して黙らせる。
「千種! こっちに来いよ」
周りは千種をじっと見て近付こうとしない。千種はこんな目に晒されているのか、と改めて知らされた。けっして居心地が良いものではないだろう。呼んでも千種は動かなかった。ならばと立ち上がり、手を引いて無理矢理輪に入れる。
「今日は千種も一緒だ。良いだろ」
座に反対を言う者はなく、千種は緊張した面持ちで席に着く。しんとした席に、女将の明るい声が降ってきた。
「あんたたち、どうしたの。いつもはあれほどうるさいのに」
黙ってはいるものの、そわそわと落ち着きのない学生たちの視線の先、千種に気付いた女将は、おやと声を上げた。
「初めての子だねえ。しっかり食べていくんだよ」
千種の外見をあれこれ言うでもなく、他の学生と扱いは変わらない。
「ありがとう、ございます」
千種の手に、丼が渡される。女将はその中に、どんどんとおでんの具を入れていった。玉子、大根、丸天――。みるみる間に丼は山盛りになった。
「家で食べていたものよりも質素だろうけれどさ」
なんせ千種は男爵家なのだ。日頃は洋食だのなんだのと豪勢な食事をしていただろう。口に合うかは自信がなかった。
すると千種は不機嫌そうに藤嗣を一瞥する。
「僕はなんでも食べるよ」
箸を持つと、つがれたおでんを次々に頬張る。いつもは食堂でも行儀良く食べている千種が、今日は大きな口を開けて玉子を頬張っている。
「おお……」
「千種が玉子を食べている……」
「女王陛下が大根を……」
「しかも、大口を開けて……」
皆が好奇の目でその姿を見ていた。つんと澄ました顔に似合わない豪快な食べっぷりに、皆の箸が止まっていた。
「そんなに見られたら食べにくい! 僕だって人間なんだ、なんだって食べるよ!」
黒曜石の瞳で一人ひとりを睨めつける。感心していた学生たちにとっては、それすらも褒美に感じるようだった。
「なんだい、あんたたち。今日はもう食べないのかい?」
女将が不思議そうに言うのだった。
「おでん、千種には珍しいだろう?」
「そんなことはない」
男爵家の食卓にもおでんは出るのだろうか。てっきり庶民の間でしか食べられていないとばかり思っていたのだが。
千種はむっつりと黙ってしまったが、妙なことを言ってしまったのか。親しくなったとはいえ、千種には分からないことが多い。それが面白いところでもあるのだけれど。
