ここ数日の藤嗣は、教室の片隅で園田と向かい合い今晩の作戦を立てることで忙しかった。皆、文句を言いながらも藤嗣を大将から下ろしてくれる様子はない。
「今夜はどうする、参謀」
「寝ずに扉の陰で待ち伏せるのはどうだ? 大将」
紙に部屋の間取りを書く。ちびた鉛筆を藤嗣たち一年生に見立てて扉の脇に待機させた。
「待ち伏せして、もし前みたいに来なかったらどうする」
待機していた鉛筆が、園田の指でコロリと転がされる。一晩待ちぼうけで眠れないまま夜が明ける。翌日の授業は散々だった。同じ失敗は味わいたくない。
「確かに」
藤嗣は机に突っ伏す。待ちぼうけは時間の無駄。ならば、と身を起こし鉛筆を部屋から出して戦略を説明する。
「いっそ、こちらから討ち入りをするというのは」
「それで失敗したのを忘れたか」
「今度は念入りに下見をして……」
「無理だ」
検討する前に却下されてしまった。飛んで火にいる夏の虫とばかりに袋叩きにされるだろう。
頭を抱えて対策を練っていると、野太い声がそれを邪魔した。
「千種はいるか!」
皆が一斉に声の方を見る。髭を伸ばした蓬髪の大男の訪問であった。どこかで見た覚えがあるが、すぐには思い出せない。呼び出されたのは、彼の印象とは真逆の千種。
同室の千種とはあまり会話をしたことはなかった。ストームの最中も渋々といった様子で付き合いはするが、楽しんでいる様子はなかったし、やり返してやるという気概も感じられなかった。かといって反抗的な態度を取る訳ではない。ただそこにいる。
それが上級生の気に触ったのだろうか。藤嗣ならば竦んでしまいそうな相手にも、千種は凛とした態度で応じる。
「なにか」
「中庭に来い!」
何をしたのかは分からないが、殴られでもすればひとたまりもない。だというのに、止める者は誰もいなかった。
「良いのか? 放っておいて」
「大丈夫だろ」
「でも、あの千種が勝てるとは――」
「放っておけ」
園田は興味なさそうに、この話題を終わらせようとしている。納得などできるはずがなく、藤嗣は食い下がる。
「千種は上級生に目をつけられるようなことをしたのか」
「目をつけられるだろう、あの顔立ちなら」
顔立ち。千種は確かに整った顔立ちをしている。大勢の中にいても目立つのは分かる。だが、それだけで――そんな理由で呼び出されてはたまったものではない。
「そんな、それだけで千種は因縁をつけられているのか?」
「松原、お前分かってないな」
「園田こそ薄情だろう」
放っておくのはあんまりではないか。そこまでを言って、呼び出しに来た蓬髪ほうはつの彼が、歓迎ストームで千種を連れ出そうとしていた人物だと思い出した。今さら、その報復か。いくら上級生とはいえ、それはひどい。
藤嗣は立ち上がると、廊下を急いだ。廊下で、また千種が――と残り香のように囁き声が漂っていたから探す手間はかからなかった。
廊下の突き当たりから通じる中庭に二人の姿を見付ける。
二人はじっと対峙していた。上級生はぐっと拳を握りしめ今にも千種に食ってかからんとしている。少なくとも藤嗣にはそう映った。
止めるなら今しかない。二人の間に割って入る。
「先輩! 横暴ではないですか」
肩で息をする闖入者に、千種と上級生から困惑したような目が向けられた。
「確かに千種は妙な目立ち方をしているでしょう、だからといって、それだけで――」
それだけでこうして呼び出すのはおかしい。そう続けたかったが、息が上がり喉がからからになって声にならない。
その途切れた言葉を引き継いだのは、笑い声だった。
笑い声の主は、呼び出した上級生ではなく――千種だった。
「松原、何かと思えば――君は……」
ひとしきり笑った後、千種はその細い指で上級生を指さす。
「この人はね、僕に念友になってくれと頼みに来たんだよ。そうですよね、先輩」
上級生は戸惑いながらも頷く。
「あ――ああ……」
念友。
話に付いていけないでいることに気付いたらしい。千種は丁寧に説明してくれる。
「もっとかみ砕いて言うとね、この人は僕を好きなんだそうだ」
「す、――」
好き、と。それは秘めたる想いであるだろうに、千種は何事もない様子で言う。
「先輩は硬派というやつですよね。女を好くのは軟弱だと思っている。だから、男に対して好意を抱いて――」
「みなまで言うな!」
上級生の怒号で千種の説明は途切れた。
「と、いう訳だ。松原、ぼんやりでも分かったかな」
藤嗣は黙って頷いた。つまり、千種はこの上級生に見初められていたのだ。呼び出されたのは、つまり好意を伝えようとするためで、決して暴力を振るおうなどという野蛮なものではなかったのだ。
藤嗣の早合点で止めに入ったが、邪魔者でしかない。園田も分かっていて、だから気にしていなかったのだ。
「……大変、失礼をしました」
深々と頭を下げ、無粋な己を恥じる。そこに差し出された救いの手は他ならぬ千種のもの。
「気にすることはない。そもそも僕は断るつもりだったし」
そうして踵を返す。
「ち、千種! 俺の話は――」
仕方なさそうに足を止め、大仰なため息をつく。
「断るつもりだったと言ったじゃありませんか」
そして、遙かに大柄な上級生に詰め寄ると人差し指を彼の胸元に突き立てて宣言する。
「興味がないんですよ、あなたに」
それは死刑宣告にも似ていた。告げられた上級生は、膝から崩れ落ちる。あのストームの時の気迫はどこにもない。
「戻ろう、松原」
上級生に何か言葉を掛けようか悩んだが、結局言葉は出てこず、千種の後に続いた。
「どうして来てくれたんだ?」
千種に追いつくと、不意に訊ねられた。素直に答えるべきか悩んでいると、同じ問いかけを重ねられる。
「なあ。どうしてわざわざ来てくれたんだ」
答えなければずっと続きそうで、早々に観念する。
「お前が……締められてると思ったんだよ」
園田だけではない。廊下で聞こえた囁き声の主たちも、千種が呼び出された理由を分かっていた。藤嗣だけだ、分かっていなかったのは。言っていて、じわじわと羞恥心がこみ上げてくる。
「それで、わざわざ?」
念押しに、藤嗣は黙って頷く。余計なお世話だと冷たい反応をされるかと思ったが、返ってきたのは笑い声。じりじりと耳元が熱を持つ。
「笑うな!」
真相を知ってしまえば馬鹿馬鹿しいだろうが、藤嗣は真剣に案じていたのだ。
「いや、だってさ……これまで、そんなことしてくれたの、松原だけだよ」
「これまで?」
「そう。みんな、見て見ぬ振り。面白がって覗き見するやつはいたけど」
「俺はそんな悪趣味じゃない」
千種は何も言わずに微笑む。分かっている、と言いたげなそれは決して藤嗣の行為を馬鹿にするものではなかった。
「何度もあったのか」
「何度も?」
「その……さっきみたいに言い寄られる……のは……」
「あったよ。入寮式の日からね」
だから、千種は部屋に来るのが遅かったのか。あの日、機嫌が悪かったのもそれが理由なのかもしれない。
「外見で何が分かるんだろうね」
話したこともない、名も知らない相手から言い寄られていた千種。確かに見惚れてしまうほど美しい。今でも、陽の光の下で見る横顔は、形良い鼻筋を、柔らかそうな唇を眩しいほどに照らしている。
だが、それだけだ。見惚れるほど美しいが、それは千種の持つひとつの特徴であって、全てではない。次姉は、女なのだから、と言われて外見を整えるように言われている。だが、容姿に気を遣うよりも知識を蓄えることを是としているようだ。本を読んでいる時の次姉は、とても輝いて見えた。
外見だけでは判断できないことも多い。
さあな、と返した藤嗣の言葉は風にさらわれた。
教室に戻ると、にやにやとした園田が待っていた。
「ご苦労さん」
「……先に言えよ」
「言っても聞かなそうだったからな」
確かにその通りだ。あの場でいくら説明をされても信じたかは怪しい。百聞は一見にしかず、だから中庭に行って良かったのだ。
「……色んな人がいるんだな」
「そりゃあ、高等学校だからな」
藤嗣が体験したことは、そんな簡単な一言で片付けられてしまう。
「娼妓を自由廃業させようとして留年した人もいるし、学校によっちゃあ教師より年上の学生もいる」
「自由廃業?」
首を傾げると、園田は溜息をついて頬杖をついた。
「田舎の坊ちゃんは何も知らないんだな」
「余計なお世話だ」
「娼妓が――娼妓はいいな。遊廓で働いてる女のことだ」
それは分かる、と園田を小突く。
「その娼妓が、本人の意志によって廃業することだ。面倒だと聞いたなあ」
「……ということは、その先輩は遊廓に通っていたのか?」
学生の身分で。
「おい、おかしな方で考えるなよ。あくまで娼妓を助けるためだ。抱くためじゃない」
すると、話を聞きつけた他の級友が割って入ってくる。
「いや、その娼妓に恋をしたっていう話を聞いたぞ」
「俺もだ」
「ど、どちらにしろ、通っていたんだろう……?」
顔を真っ赤にする藤嗣に、園田はにやにやと笑う。
「ずいぶんとうぶな奴だな。千種を助けに行った正義漢とは思えない」
「うるさいな」
ここでは、藤嗣の知らないことが多すぎる。
「今夜はどうする、参謀」
「寝ずに扉の陰で待ち伏せるのはどうだ? 大将」
紙に部屋の間取りを書く。ちびた鉛筆を藤嗣たち一年生に見立てて扉の脇に待機させた。
「待ち伏せして、もし前みたいに来なかったらどうする」
待機していた鉛筆が、園田の指でコロリと転がされる。一晩待ちぼうけで眠れないまま夜が明ける。翌日の授業は散々だった。同じ失敗は味わいたくない。
「確かに」
藤嗣は机に突っ伏す。待ちぼうけは時間の無駄。ならば、と身を起こし鉛筆を部屋から出して戦略を説明する。
「いっそ、こちらから討ち入りをするというのは」
「それで失敗したのを忘れたか」
「今度は念入りに下見をして……」
「無理だ」
検討する前に却下されてしまった。飛んで火にいる夏の虫とばかりに袋叩きにされるだろう。
頭を抱えて対策を練っていると、野太い声がそれを邪魔した。
「千種はいるか!」
皆が一斉に声の方を見る。髭を伸ばした蓬髪の大男の訪問であった。どこかで見た覚えがあるが、すぐには思い出せない。呼び出されたのは、彼の印象とは真逆の千種。
同室の千種とはあまり会話をしたことはなかった。ストームの最中も渋々といった様子で付き合いはするが、楽しんでいる様子はなかったし、やり返してやるという気概も感じられなかった。かといって反抗的な態度を取る訳ではない。ただそこにいる。
それが上級生の気に触ったのだろうか。藤嗣ならば竦んでしまいそうな相手にも、千種は凛とした態度で応じる。
「なにか」
「中庭に来い!」
何をしたのかは分からないが、殴られでもすればひとたまりもない。だというのに、止める者は誰もいなかった。
「良いのか? 放っておいて」
「大丈夫だろ」
「でも、あの千種が勝てるとは――」
「放っておけ」
園田は興味なさそうに、この話題を終わらせようとしている。納得などできるはずがなく、藤嗣は食い下がる。
「千種は上級生に目をつけられるようなことをしたのか」
「目をつけられるだろう、あの顔立ちなら」
顔立ち。千種は確かに整った顔立ちをしている。大勢の中にいても目立つのは分かる。だが、それだけで――そんな理由で呼び出されてはたまったものではない。
「そんな、それだけで千種は因縁をつけられているのか?」
「松原、お前分かってないな」
「園田こそ薄情だろう」
放っておくのはあんまりではないか。そこまでを言って、呼び出しに来た蓬髪ほうはつの彼が、歓迎ストームで千種を連れ出そうとしていた人物だと思い出した。今さら、その報復か。いくら上級生とはいえ、それはひどい。
藤嗣は立ち上がると、廊下を急いだ。廊下で、また千種が――と残り香のように囁き声が漂っていたから探す手間はかからなかった。
廊下の突き当たりから通じる中庭に二人の姿を見付ける。
二人はじっと対峙していた。上級生はぐっと拳を握りしめ今にも千種に食ってかからんとしている。少なくとも藤嗣にはそう映った。
止めるなら今しかない。二人の間に割って入る。
「先輩! 横暴ではないですか」
肩で息をする闖入者に、千種と上級生から困惑したような目が向けられた。
「確かに千種は妙な目立ち方をしているでしょう、だからといって、それだけで――」
それだけでこうして呼び出すのはおかしい。そう続けたかったが、息が上がり喉がからからになって声にならない。
その途切れた言葉を引き継いだのは、笑い声だった。
笑い声の主は、呼び出した上級生ではなく――千種だった。
「松原、何かと思えば――君は……」
ひとしきり笑った後、千種はその細い指で上級生を指さす。
「この人はね、僕に念友になってくれと頼みに来たんだよ。そうですよね、先輩」
上級生は戸惑いながらも頷く。
「あ――ああ……」
念友。
話に付いていけないでいることに気付いたらしい。千種は丁寧に説明してくれる。
「もっとかみ砕いて言うとね、この人は僕を好きなんだそうだ」
「す、――」
好き、と。それは秘めたる想いであるだろうに、千種は何事もない様子で言う。
「先輩は硬派というやつですよね。女を好くのは軟弱だと思っている。だから、男に対して好意を抱いて――」
「みなまで言うな!」
上級生の怒号で千種の説明は途切れた。
「と、いう訳だ。松原、ぼんやりでも分かったかな」
藤嗣は黙って頷いた。つまり、千種はこの上級生に見初められていたのだ。呼び出されたのは、つまり好意を伝えようとするためで、決して暴力を振るおうなどという野蛮なものではなかったのだ。
藤嗣の早合点で止めに入ったが、邪魔者でしかない。園田も分かっていて、だから気にしていなかったのだ。
「……大変、失礼をしました」
深々と頭を下げ、無粋な己を恥じる。そこに差し出された救いの手は他ならぬ千種のもの。
「気にすることはない。そもそも僕は断るつもりだったし」
そうして踵を返す。
「ち、千種! 俺の話は――」
仕方なさそうに足を止め、大仰なため息をつく。
「断るつもりだったと言ったじゃありませんか」
そして、遙かに大柄な上級生に詰め寄ると人差し指を彼の胸元に突き立てて宣言する。
「興味がないんですよ、あなたに」
それは死刑宣告にも似ていた。告げられた上級生は、膝から崩れ落ちる。あのストームの時の気迫はどこにもない。
「戻ろう、松原」
上級生に何か言葉を掛けようか悩んだが、結局言葉は出てこず、千種の後に続いた。
「どうして来てくれたんだ?」
千種に追いつくと、不意に訊ねられた。素直に答えるべきか悩んでいると、同じ問いかけを重ねられる。
「なあ。どうしてわざわざ来てくれたんだ」
答えなければずっと続きそうで、早々に観念する。
「お前が……締められてると思ったんだよ」
園田だけではない。廊下で聞こえた囁き声の主たちも、千種が呼び出された理由を分かっていた。藤嗣だけだ、分かっていなかったのは。言っていて、じわじわと羞恥心がこみ上げてくる。
「それで、わざわざ?」
念押しに、藤嗣は黙って頷く。余計なお世話だと冷たい反応をされるかと思ったが、返ってきたのは笑い声。じりじりと耳元が熱を持つ。
「笑うな!」
真相を知ってしまえば馬鹿馬鹿しいだろうが、藤嗣は真剣に案じていたのだ。
「いや、だってさ……これまで、そんなことしてくれたの、松原だけだよ」
「これまで?」
「そう。みんな、見て見ぬ振り。面白がって覗き見するやつはいたけど」
「俺はそんな悪趣味じゃない」
千種は何も言わずに微笑む。分かっている、と言いたげなそれは決して藤嗣の行為を馬鹿にするものではなかった。
「何度もあったのか」
「何度も?」
「その……さっきみたいに言い寄られる……のは……」
「あったよ。入寮式の日からね」
だから、千種は部屋に来るのが遅かったのか。あの日、機嫌が悪かったのもそれが理由なのかもしれない。
「外見で何が分かるんだろうね」
話したこともない、名も知らない相手から言い寄られていた千種。確かに見惚れてしまうほど美しい。今でも、陽の光の下で見る横顔は、形良い鼻筋を、柔らかそうな唇を眩しいほどに照らしている。
だが、それだけだ。見惚れるほど美しいが、それは千種の持つひとつの特徴であって、全てではない。次姉は、女なのだから、と言われて外見を整えるように言われている。だが、容姿に気を遣うよりも知識を蓄えることを是としているようだ。本を読んでいる時の次姉は、とても輝いて見えた。
外見だけでは判断できないことも多い。
さあな、と返した藤嗣の言葉は風にさらわれた。
教室に戻ると、にやにやとした園田が待っていた。
「ご苦労さん」
「……先に言えよ」
「言っても聞かなそうだったからな」
確かにその通りだ。あの場でいくら説明をされても信じたかは怪しい。百聞は一見にしかず、だから中庭に行って良かったのだ。
「……色んな人がいるんだな」
「そりゃあ、高等学校だからな」
藤嗣が体験したことは、そんな簡単な一言で片付けられてしまう。
「娼妓を自由廃業させようとして留年した人もいるし、学校によっちゃあ教師より年上の学生もいる」
「自由廃業?」
首を傾げると、園田は溜息をついて頬杖をついた。
「田舎の坊ちゃんは何も知らないんだな」
「余計なお世話だ」
「娼妓が――娼妓はいいな。遊廓で働いてる女のことだ」
それは分かる、と園田を小突く。
「その娼妓が、本人の意志によって廃業することだ。面倒だと聞いたなあ」
「……ということは、その先輩は遊廓に通っていたのか?」
学生の身分で。
「おい、おかしな方で考えるなよ。あくまで娼妓を助けるためだ。抱くためじゃない」
すると、話を聞きつけた他の級友が割って入ってくる。
「いや、その娼妓に恋をしたっていう話を聞いたぞ」
「俺もだ」
「ど、どちらにしろ、通っていたんだろう……?」
顔を真っ赤にする藤嗣に、園田はにやにやと笑う。
「ずいぶんとうぶな奴だな。千種を助けに行った正義漢とは思えない」
「うるさいな」
ここでは、藤嗣の知らないことが多すぎる。
