そんな藤嗣の許に思いがけない――それこそ、日常を狂わせるものが届いたのはこの頃だった。

 一通の手紙である。柔らかな線を書く文字は見慣れた次姉のものだった。封筒を裏返すと、実家の住所の後に、”べに花”と書かれていた。次姉がいつも文章を書くときの筆名のようなものだ。『源氏物語』の末摘花と自分を重ねているのである。

 慌ただしく過ごしていた中に、ふと望郷の念にかられて封を切る。

 藤嗣さんへ

 そう書かれていた。

 藤嗣が居なくなって、家の中が寂しいこと、それでも毎日を過ごしていることが綴られていた。藤嗣はそのひとつひとつに心の中で返事をする。自分も同じように寂しい気持ちはある、けれどこれも家のためになるのだと思いながら過ごしている、夏に帰る頃にはひとまわり成長した自分を見せられるよう努力している――と。

 それが、手紙の半ばから雲行きが怪しくなってきた。どうして私は進学できないのだろう。自分はこれから嫁ぐために好きでもない家事ばかりをさせられる。新しい本は買ってもらえない、何の楽しみもない。

 恨み言にも似た境遇を綴り、最後を締めくくるのは――。

「はあっ!?」

 思わず声が出ていた。



 ――高等学校でのことを面白い物語にして書いて下さらないかしら。



 そんな要望だった。手紙によると、新聞や大好きな『日本外史』も取り上げられてしまったのだという。これは、次姉の最後の頼みの綱なのだ。

 藤嗣は、物語を作るのが好きな子供だった。幼い頃から物語を書いては次姉に読んでもらっていた。次姉は面倒見が良いからか、それとも藤嗣の話が面白かったのか、いつも付き合ってくれていた。だから、次姉の頼みも分からないではない。

 しかし、今は事情が異なる。学校の授業、時間があれば予習と復習。時々、息抜きに遊ぶ時間も欲しい。そして夜にはストーム。そのための作戦会議。

 そんな暇はないと一蹴してしまえばいい。そう思い便箋を放る。そんなのは次姉の勝手だ。長姉は文句も言わずに婿を取り、藤嗣が一人前になるまで家を切り盛りしている。人にはそれぞれ役割があるのだから、それを果たすべきだ。

 とは思うものの。放った便箋をちらりと見る。あの読書好きの次姉が大切なものすべてを取り上げられたのは不憫極まりない。どうしたものだろうか。

 腕を組んで思案していると、扉が開き、園田が部屋に戻ってくる。見られないよう、放った便箋を慌てて封筒にしまった。

「国からの手紙か」

「ああ」

「懐かしいだろう。元気そうか?」

「息災でやっているそうだ」

「そりゃ良いことだ」

 次姉の要望など、忘れてしまえばいいのだ。そう――思うのだが。

 ――藤嗣さん。

 次姉はにっこりと微笑んで、しかし地の底から湧き出すような声で藤嗣を呼ぶ。その時は決まって、彼女の機嫌を損ねたときだ。

 ――私、お願いしましたよね。

 そう我が儘な人ではない。どちらかといえば控え目で藤嗣の言うことを何でも聞いてくれる優しいひとだ。だが、それだからこそ自分の頼みを忘れられた時の怖さは筆舌にしがたい。

 ――私のお願いを忘れるような人だったかしら。

 ――別に、構わないのよ。私は。

 ――そうだ、藤嗣さん。私、寂しくて蛙を育てることにしたの。

 ――あなた幼い頃は蛙が苦手でしたね。

 苦手にさせたのは次姉だ。

 幼い頃、藤嗣は田んぼの中で鳴く蛙を捕まえて遊んでいた。着物を泥だらけにして帰って怒られたものだ。そして次姉に蛙を見せて嫌な顔をさせた。

 事件はその夜起こった。布団に入ってうつらうつらとしていた時、顔にひやりとしたものが触れた。何事かと欠伸をしながら起き上がると、そのひやりとしたものが口の中に入ったのだ。

 それは、昼間捕まえた蛙だった。

 蛙は口の中で暴れ、藤嗣は何が起こったのか分からず飛び起き、口の中のものに気付いて大声を上げた。騒ぎを聞きつけて家中の者が起きだした中、次姉だけがころころと笑っていた。その笑い声は今でも鮮明に思い出せる。以来、次姉には頭が上がらない。

 そして蛙は今でも苦手だ。次姉ならば、大きく育てた蛙を藤嗣の目の前に差し出すくらいのことはやってしまう。想像しただけで鳥肌が立った。

 次姉の願いはひとつ。彼女の好む話を書くだけだ。ならば、ここでの日常を面白おかしく書けば、それで満足してくれるのではないか。藤嗣は机に向かい、便箋と万年筆を取り出す。

 面白い物語、物語。頭を掻きながら考える。何が面白いかと問われれば、毎日が、と答える。授業も楽しい、友人らとの雑談も楽しい。だが、それを物語にして次姉が楽しめるかと訊かれれば首を傾げてしまう。

 もっと派手な、と考えて思い浮かんだのはひとつしかなかった。

 ストーム。

 そう、あれは目まぐるしい出来事だった。これまでの生活にはないものだ。ネタにするにはちょうどいい。

 決めてしまうと、あとは早かった。あの、歓迎ストームの熱をそのまま書き綴る。



 ――始まりは夜だった。地震のように寮の建物が揺れたのだ。

 ぼくは慌てて起き上がり、辺りを見回す。



 きっと姉には物珍しい内容だ。楽しんでもらえるだろう。こういうことには勢いが大切だから、一晩のうちに書き上げた。

 花嫁修業の合間に楽しんでくれるだろう姿を思い、封をする。

 寮生活に馴染むこと。女であるが故の不運に遭う次姉の現実を、どうすれば変えられるか見つけること。それが今の藤嗣の使命だ。どちらもまだ難しいのだが。

 ――考えること、それこそが最大の学びだ。

 あの言葉を思い出すと頑張れる気がした。