授業が終わってからも忙しい。芋洗いのように大勢で風呂に入り、夕食を摂る。食堂でぐったりと座る藤嗣を見て、園田が笑った。

「疲れたみたいだな」

「ああ。今日はすぐに眠れる」

 味噌汁を啜りながら言うと、園田は「さあて」と言いにやにやとする。

「なんだ? 何かあるのか?」

「いいや」

「おかしな奴だな」

 夕食の後は消灯まで自由。門限まで各々が好きな時間を過ごすのだ。とはいってもすることは山程ある。本を読まなければこれからの授業には付いていけない。

 船を漕ぎながら本を読み、藤嗣は寝台に入り、あっと言う間に眠りについた。深い、深い眠りだった。

 “嵐”は消灯の後、しばらくして起こった。突然、天井から激しい音が聞こえ、藤嗣は微睡みの中から引きずり出された。

 暗闇の中、寝台から転がり出る。

「地震か?」

 入学早々にこんなことが起きるなど思いもしなかった。地震ならば避難しなければ――慌てて扉に駆け寄る。取っ手に手をかけるより先に、バタンと大きな音を立てて扉が開いた。煌々と明るい廊下に立ちはだかったのは上級生だ。それも一人ではない、ずらりと揃い、したり顔で藤嗣たちを見る。

「起きたな」

「これからが本番だ」

 上級生は一様に異様な姿をしていた。褌姿の者、浴衣の尻をからげている者、袴姿の者。手にはばけつや棒を持ち、目をらんらんと輝かせている。

 上級生は戸惑う藤嗣を廊下に引っ張り出す。

「お前も出ろ!」

「お前もだ!」

 すっかり眠っていたのだが、先輩からの命令だ。藤嗣は抵抗もできない。続いて園田も廊下に出てきた。

「おい、千種男爵のご令息! お前もだ! 華族とはいえ寮では平等だからな!」

 藤嗣はひやりとする。千種は華族と呼ばれるのが嫌いだ。それに、こんな騒がしい遊びも苦手そうだった。

「いやだ」

 肝是ない子供のような千種の声が聞こえてくる。思わず首を伸ばして中を覗き込むと、先輩は眠っている千種の腕を掴んで戸惑っていた。

「そ、そんな生意気を言う新入生は初めてだ!」

「僕は、いやだ。行きたくない。離してくれ」

 そっと先輩の腕に手を添える千種は妖艶だった。その色気にやられて、先輩も思わずぱっと手を離してしまう。

「おい、何をやっている! 最後の一人も連れ出せ!」

「すみません、具合が悪いようです!」

 千種を連れ出そうとした先輩は、顔を赤くして廊下に戻ってくる。先輩も、千種には敵わないのか。

 先輩が声を上げる。

「さあ、アイン、ツヴァイ、ドライ!」

 その掛け声と共にがなり立てるように歌い始める。それが寮歌だと知ったのは後日になってのことだ。

 音頭を取るように、ガンガンと打ち鳴らされるのは太鼓代わりのバケツだ。本来の目的で使われず、あちこちが凹んでしまっている。

「お前たちも一緒に歌え!」

 歌詞も分からぬまま強要された。訳が分からず互いの顔を伺っていると渇が飛ぶ。

「もっと声を出せ!」

 寝惚けた頭を必死に叩き起こす。まだ、まだ声が足りない、と怒鳴られ仰け反るようにして、腹の底から声を出す。ずらりと並んで歌うものだから、最後には声で天井が抜けてしまうのではないかと心配になりそうな大音声になった。

 藤嗣はさらに声を上げる。バケツが使えなくなったからか、壁や柱を叩く者もあった。なるほど、こんな風に騒いでいては新しい寮も傷んでしまう。

 喉が涸れるほど歌い尽くして、ばったりと廊下に倒れた。誰かに踏まれたような気もするし、抱え上げられたような気もする。最後は引き摺られるようにして寮の部屋に戻った。

「なんだったんだ、あれは……」

 床の冷たさを感じながら誰にともなく言うと、寝台に倒れ込んだ園田から答えが返ってきた。

「歓迎ストームだよ」

 相当歌わされたのだろう、喉はがらがらで絞り出すような声になっていた。

「ストーム?」

「高等学校の名物だそうだ。とにかく騒いで歌って、暴れるんだって」

 そんな中にあって、耳に心地よい涼やかな声が聞こえた。

「もう終わった?」

 のそのそと床から起き上がると、涼しい顔で千種に訊ねられる。

「よく引きずり出されなかったよな……」

 感心しながら言うと、千種はつんと澄ました様子で返す。

「二人も、抵抗すればよかったんだ」

 いや、あの状況で抵抗などできるはずがない。園田を見るが、いや無理だ、と首を横に振っている。

 先輩も、千種の美貌の前には太刀打ちできなかったのだ。もし自分が先輩の立場なら、と考えてみたが、やはり同じような行動を取ってしまうだろう。

 眠い目を擦りながら寝台に潜り込み短い眠りを貪る。

 これが、高等学校生活の幕開けであった。



 高等学校は、何事にもとことん打ち込む。勉強だけではない。運動然り、遊び然り。一日三度の食事にも真剣だ。

「松原、お前の卵焼きは俺が貰った!」

「させるか!」

 横から伸びてくる箸から卵焼きを死守しながら昼食をとる。

 四月の中頃になって、どうにか周りの顔と名前を覚えた。級友は皆気のいいやつらばかりだったが、皆どこか千種には距離を置いているように見えた。男爵家という肩書がそうさせるのかもしれない。できれば仲良くなりたいと思っていたが、藤嗣も周りに流されて話しかける機会を失っていた。

 “嵐” ――ストームは特別な時にだけ行われるものだと思っていたが、それは全くの間違いだった。毎晩のように起こる。何かしらの名目を付けて、下手をすれば名目などなく討ち入りのように眠りを妨げられる。

 ただひたすら、上級生に遊ばれるだけだった。喉が潰れるまで歌わされ、高校に入学した目標を叫ばされる。

 そんなある日。

「これは対抗して良いんじゃないか?」

 目の下にくまを作った級友が口にした。

「していいのか?」

 別の誰かが反論する。

「相手は上級生だ」

「無謀だろう」

「すぐにやられてしまう」

「……そうか……」

 一人の勇気は、すぐに潰されてしまう。それが悔しくて、藤嗣が声を上げた。

「対抗しないと今のままだぞ? いいのか?」

「でもな……」

 湧いてくる反論を、強い口調で返す。

「やってみないと分からないだろ!」

「確かに……」

「松原の言う通りではある」

「やり返さないと、性に合わない」

 じわじわとクラス中が盛り上がる。そうだ、やり返すのだ、と。

「松原! 指揮はお前が適任だ!」

「……は?」

「そうだ、言い出したんだからな、松原。期待しているぞ!」

 言い出したのは別の級友ではなかったか」

「いや、待て。俺はそんなつもりで――」

「松原しかないだろう、なあ!」

「おう!」

 一同の同意で、藤嗣が反撃の大将に担ぎ上げられてしまった。

「待て、俺は――」

「頼んだぞ、松原!」

「お前ならできる!」

「任せた!」

 嘘だろう、と頭を抱える藤嗣の肩を、園田が叩く。

「参謀は俺がやってやるよ」

 せめて園田がそう言ってくれたのは救いだった。

 任せられたのだから仕方がない。それに、やられっぱなしは性に合わない。どうにかして上級生に一泡吹かせてやろう。

 授業が終わり、自習の時間を割いて作戦会議が開かれた。

「武器を持って構えて待つ」

 いつも丸腰だから負けるのだ。だから、竹刀を持ち皆が起きて待ち伏せしていれば勝てるだろう。その気合で望んだのだが、上級生の襲来はなかった。雀が気持ちよさそうに鳴く声で、ああ今日のストームはなかったのだと皆が項垂れた。

 洗面所で出くわした上級生たちの清々しい顔といったら。藤嗣は一年生たちに小突かれたのだった。

 そして、別の日。

「先手必勝」

 前回の失敗は、待ち伏せしていたことにある。ならば、こちらから攻め入るのはどうだ。

「確かに、理に適った作戦だ」

 そう言って園田も理解してくれたのだったが。相手は百戦錬磨の上級生ということを忘れていた。

 そろりそろりと上級生の部屋が並ぶ階に踏み入れた途端。

 ――ガランガランガラン!

 一年生の侵入を知らせるバケツの仕掛けが大きな音を立てた。

「敵襲! 敵襲だぞ!」

 楽しそうな声が寮内に響き渡る。待っていたとばかりに部屋から上級生が飛び出し、歌えや騒げやのストームが始まった。

「松原、お前!」

「大将だろうが!」

 そう言って、上級生どころか同級生にまで気合が足りないと竹刀で打たれたのだった。