入寮式が終わると、それぞれ名が呼ばれ部屋番号が伝えられた。

 藤嗣が割り振られた部屋は一階の一番奥にある。その部屋は、入ってすぐ、右側の壁に墨で大きく「至誠しせい」と書かれていた。去年までの居住者が残したのだろう。

「至誠、か」

 藤嗣の後ろでそう声がした。振り返ると癖のある髪を無造作に伸ばした青年がいた。目元が隠れるほどに前髪を伸ばしている。見えるのは顔の下半分。鼻先と、大きな口だ。頬には薄っすらとそばかすが浮いていた。藤嗣よりも落ち着いて見えるから、もしかすると年上かもしれない。

 入ってすぐの場所に立っていたから入れなかったのだろう。

「すまない」

「いやいや。確かに、これは圧倒されるからなあ」

 癖毛の青年は、まじまじと壁の文字を眺めている。

「君も、ここの部屋?」

 藤嗣が訊ねてようやく気付いたようで、髪を掻き回しながら頭を下げた。

園田主税(そのだちから)だ。よろしく頼むよ」

「俺は、松原藤嗣。よろしく」

 寮は四人部屋だった。扉を入って左右に二段組の寝台。その奥に窓に面して二つの机、そしてそれに背を向ける形でもう二つと置かれている。

 園田と二人、部屋をぐるりと眺めて過ごしていたが、残る部屋の住人は中々姿を見せない。藤嗣は痺れを切らし、訊ねてみる。

「四人部屋だろう? 二人で使うのか?」

 藤嗣が訊ねると、園田が首を振った。

「いや、もう一人いるらしい。そいつのおかげで、この部屋は三人で使わせてもらえるそうだ」

「特別? 一体どんなやつなんだ」

「それがな、詳しくは教えてもらえなかった」

 園田は腕組をし、下唇を尖らせる。

 とにもかくにも、もう一人を加えた三人で、この部屋で過ごすのか。藤嗣は机にもたれ掛かり、園田に訊ねる。園田は早々に寝台の下の段を陣取り荷物を広げていた。

「そういえば。園田はどこから来たんだ?」

「横浜から。松原は?」

「福岡だ」

「福岡か。遠かっただろう」

「汽車に揺られて、尻が痛くなった」

 東京は遠かった。車窓から見える景色はいくつもの街を通り過ぎ、川を渡り、海を望みながらようやく東京に着いた。東京の街は賑やかで人が多く、藤嗣は口をぽかんと開けたまま立ち尽くしてしまった。いずれは街の賑やかさにも慣れるのだろうか。

「故郷と味が違うと文句を言うなよ」

「味?」

「西の人間は、こっちの醤油は辛いと文句を言うらしいからな」

「醤油の味で文句を言うものか」

「分からんぞ。故郷の味ってものは特別だからな」

「そういうものか」

 天井を仰ぎ実感なく言うと、園田は腕を組んで頷いた。

「そういうものらしい」

 寮に足を踏み入れて、果たしてやっていけるだろうかと不安になったが、それも徐々に溶けてゆく。この様子ならば難しく考えることはない。残る一人もきっと良いやつに違いない。

 そう思っていた時。不意に扉が開き、何の挨拶もなく入ってくる人物があった。藤嗣と、園田。二人の視線が音の方へと向けられる。

「もう場所は決まってるのか」

 発せられたのは、耳に心地良い声。男のものだが、そこに涼やかさを感じるのは低すぎない声音だからだろう。初夏に吹く風のように耳に心地良い。

 しかしそれは声音だけのこと。言葉に含まれるのはたっぷりの不満だった。

 答えようとしたが、言葉が出てこない。

 藤嗣を射竦めたのは、その瞳だ。じっと向けられた黒い輝きは黒曜石のように艶があった。言葉だけではなく、その瞳までもがありありと不満を告げていた。だがそれでも不愉快にならないのは――むしろ、彼の不満を消し去ってやりたいと思うのは、その宝石が美しく輝く様を見たいと思わせるからだろう。その宝石を縁取る睫は長く、輝きに憂いを纏わせる。

 瞳だけではない。その美しさを損なわぬよう、鼻筋はすらりと通っていた。唇は赤く、白い肌の中に落ちた花弁のようだった。

「……本の中から抜け出してきたみたいだな」

 園田がそう呟く。それに反応した彼は、きっと睨みつけた。その所作すら見惚れてしまう。園田は威圧され、肩をすくめた。

 その、来訪者の彼である。

 彼は中々返ってこない答えに苛立った声音で――それすらも涼やかで不快なものではなかったのだが――再び問うた。

「決まってるのか」

 同じことを訊かれて、藤嗣はようやく答える。

「いや……特に、まだ」

「だったら、僕は下がいい」

 それはもう決定事項のようだった。許可など求めず、下の段の寝台に荷物を置いている。もう一つの寝台は、既に園田が下の段を陣取っている。これで、藤嗣はいずれかの上の段で眠ることが決まった。

 それまでのんびりとしていた雰囲気が、彼の登場によりぴんと引き締まる。その緊張を解こうと、藤嗣は自ら名乗る。ついでに握手でも、と手を差し出して。

「松原藤嗣だ。よろしく」

 彼は藤嗣が差し出した手を一瞥する。手が握られることはなかった。

千種伊織(ちぐさいおり)

 愛想のない名乗りに飛び付いたのは園田だ。

「やっぱり、特別は本当だったんだな! 千種男爵家のご令息!」

「千種……男爵?」

「今年は千種男爵家のご令息が入ると噂になっていたんだ。学習院でなく」

 華族という地位があるのは知っているが、見るのは初めてだった。

「その特別にあやかれるとは、俺たちは運がいい」

 園田が興奮気味にまくし立てる。

「……家に爵位があるというだけだ。僕じゃない」

 千種はそれを不快そうに返す。園田はそれに気付いているのか、いないのか――得意げに膝を打った。

「だけど、有名じゃないか。千種男爵といえば広く事業を手がける実業家でもある」

「そうなのか?」

「松原、お前は世間に疎いな」

「ただただ、感心するばかりだよ。華族というものを知ってはいたが、見るのは初めてだ」

 藤嗣が目を見開いていると、千種が顔をしかめる。

「やめてくれ。見世物じゃない。まじまじと見られるのは嫌いだ。それに」

 形良い眉をしかめたまま、千種は寝台に荷物を置く。

「家のことは関係ないだろう」

 愛想の欠片もないが、彼にはそれすら似合うのだ。

「千種殿」

 園田が千種の様子を伺いながら声をかける。

「妙な呼び方をするな。同学年だ」

「じゃあ、千種。下の段で良いのか? 上の方が見晴らしが良いだろうに」

「下で良い」

 頑なに、動きそうになかった。そんな彼の上の段に荷物を広げる勇気はなく、藤嗣は園田の上の段に陣取った。

 部屋に沈黙が満ちる。それに耐えきれず、藤嗣から明るい声で話を振った。

「ち、千種はどこから来たんだ?」

「東京」

「そうか。地元なんだな。俺は福岡から来た。東京は遠いなあ」

「そうだろうね」

 そこで会話は終わってしまった。千種は会話を楽しむつもりはないようだ。何かないかと必死に探すが、園田が下の段から顔を出して、黙って首を振った。

 明日は入学式。そして高等学校生活が始まる。そう思うと気持ちは落ち着かない。その後は、食事を終えて布団に潜り込んだが、中々寝付けなかった。



 入学式は厳かな雰囲気の中で行われた。講堂に響き渡る学校長の祝辞に、改めて背筋が伸びる。

 本格的な学校生活が始まったのはその翌日からだ。

「松原、起きろ。松原!」

 下から蹴られて目を覚ました。

「もう朝か……?」

 窓の外はまだ薄暗い。

「初日から遅刻するわけにはいかんだろう。洗面所の数は限られているんだからな」

 千種の寝台を見ると、きれいに布団が畳まれている。いつまでも眠っていたのは藤嗣だけだったらしい。園田に引きずられながら洗面所に行くと、そこは戦場だった。手拭いを貸せ、終わったのなら退け、と怒号が飛び交う。

「松原、こっちに来い」

 幸い空いていた蛇口を園田が確保し、朝の身支度ができた。

 ばたばたと部屋に戻り、制服に着替える。

「次は朝食だ」

 大急ぎで食堂へと向かい、茶碗に大盛りの白米にメザシを乗せ、味噌汁茶碗を受け取る。

「メザシをよこせ」

「俺のだ」

「一口しか残ってないだろう」

 そんなやり取りがあちこちで聞こえる。藤嗣の朝食も、気を抜けば食べる前に空にされてしまいそうだ。大急ぎでかき込む。

 厳格な家での朝の光景とは全く違う。園田の助けがなければどうなっていたか。

「新入生だよな?」

 園田はあまりにも手慣れている。

「兄がいるんだ。どういうものか、事前に叩き込まれたよ」

「なるほど」

 寮と校舎は渡り廊下で繋がっていた。慌ただしく廊下を駆け、教室に滑り込む。皆、新しい生活に期待と不安で緊張しているのが見て取れる。それは藤嗣も同様だった。

 授業は様々だった。

「石井だ。――それでは十頁から、園田。読みなさい」

 名を名乗るなり授業に入る教師に慌てて、皆教科書を懸命に追った。そんな緊迫した授業が続くのかと構えていると、次に入ってきたのはのんびりとした老教師だった。窓の外の桜を見て一息をつく。

「皆さん、恋というものは良いですよ」

 そう言って、自らの細君との馴れ初めを語り始める。中学校では考えられない光景だ。

「いろんな形の授業があるんだな」

 奇しくも前の席になった園田に言うと、彼は得意げに胸を張る。

「これぞ、高等学校というものだ」

「兄貴の受売りの癖に」

「あはは、それを言われちゃ終いだ」