幸いにも男衆をまくことには成功した。遠回りをして寮に戻るつもりだったが、その道がわからない。千種に任せるしかなかった。

 街を通り過ぎ、辺りは静かな住宅街になる。土地勘のない藤嗣にはどの辺りなのかは分からなかった。

「どこまで行くんだ?」

「あと少し」

 千種の足取りはしっかりしていて、目的地を知っている。黙って付いていくしかない。橋を渡り、神社の鳥居を横目に見ながら辿り着いたのは一軒の小さな家。玄関先で明かりを持った丸髷を結った婦人の姿があった。

「まあま、伊織さん。びしょ濡れで、どうなさったの?」

 咎めるというよりも、どこか楽しげであった。

「まあ、色々とありまして。世話をかけます、母さん」

「母さん……? ここは、千種の家なのか?」

 男爵家と言うからには、豪奢な洋館を想像していた。それが――ごくありきたりの木造の一軒家とは思いもしない。

「そう。僕の家だよ」

 それ以上の説明はなかった。

「二人とも、お湯にかかってはどう? その格好では風邪をひいてしまうわ。それに、近所の娘さんに見られでもしたら大変」

「……そうですね。世話をかけます」

 千種の母は家に戻り、中であれこれ指示をしていた。ようやく一息つけるのだ。緊張が解けると、ずぶ濡れになっていることを思い出し、足の先から震えが伝い上がってくる。そして大きなくしゃみをひとつ、したのだった。



 濡れた服を脱ぎ、湯にかかるとようやく安堵の息が漏れた。これまでの騒がしさが嘘のように静かだ。気持ちはまだ興奮が冷めやらず落ち着かない。

「よくあんなことができたな。舞も立派だったし、着物も。家から持ってきたのか?」

 それまで疑問に思っていたことを口にする。

「いや、借りたんだ」

「借りたって、どこから」

「母が昔いた置屋から」

 置屋。芸妓が籍を置く場だ。そこに母親がいた、とは、つまり――。

「母は芸妓でね」

 湯船につかった千種がぽつぽつと語り始めた。

「父に気に入られて、この家を与えられたんだ」

 藤嗣は黙ってその話を聞く。

「……本家には正妻がいるから。僕は庶子というやつだよ」

「そうか」

 だから、初めて会った時も千種男爵家の――と言われたときにいい顔をしなかったのだ。千種は後を継がない。それどころか母は正妻ではないのだから。

「母と暮らしながら、時折舞を教えてもらった」

 なるほど。今日の座敷でのことは、その成果の賜物なのだ。

「ここで暮らしていたんだ。中学に上がる時に、本家に連れて行かれた」

「本家に? 跡継ぎのためか」

「まあね。嫡子はいるが、万が一のために、ということだ。家を絶やさぬためには一人でも多く子がいる方がいい」

 確かにそうだろう。だが、ひどく残酷な話だ。千種は子供ではなく、道具としてしか見られていないのだから。

「本家の食事は不味かったな。ばあやの料理はどれも美味しいんだ。……だるま屋の味は、少し似てる」

「そうか」

 だからか、だるま屋で大きな口を開けて食べていたのは。昔が懐かしくて、それで。

 また、静かになった。

 何か言わなければ。言わなければいけないことは決まっている。藤嗣の無茶苦茶な計画――立てた時はこれ以上ないと思ったのだが、振り返ってみれば穴だらけだった。

 千種が察してくれたから、園田の兄たちが協力してくれたから、ボート部が受け入れてくれたから。二人は手を取り合って見世から逃げ出せたのだ。

「千種の――皆のお陰で助かった」

 そこに、ざばっと頭から湯がかけられる。

「藤嗣はその考えなしのところが良いんだよ」

 褒めているのか、馬鹿にしているのか。千種は笑いながらそう言った。

「だけど、それがなければ二人は――」

 黒田と小花は。そして他の娼妓たちは。逃げ出せず、離れ離れになっていた。

「藤嗣はそんなこと知らなくていい」

 突き放すような物言いに聞こえ、藤嗣は納得できずに言い返す。

「知らなくて良いはずがない。俺は、これから大人になるんだ」

「世の中、楽しいことばかりじゃない」

「だからこそ、知りたい」

 そうか、と千種は呟いた。

「あまり楽しい話じゃないぞ」

 そう前置きをして、ぽつりぽつりと紡がれるのは千種が覚えた違和感。

「母さんはさ、箱入りのお嬢さんだったらしい」

「うん」

「それが――よくある話だよ。当主が相場に手を出して失敗。家は傾き、娘である母さんは芸妓として売られたんだ。でも、三味線や琴、舞踊といった芸事を身に付けていたのが幸いしたんだろうね」

 そこで千種男爵に見初められたのだという。

「幸せなことなんだろう、周りから見れば」

 身請けされて芸妓を辞め、妾とはいえこうして家を与えられたのだから。

「でもさ。母さん、時々寂しそうな顔をするんだ」

 千種は口元まで湯に浸かる。ぶくぶくと言わせながら息を吐きだしていた。

 吐き出しきった千種は、湯で顔を洗う。

「色々考えたよ。他に好きな誰かがいたのかもしれない、とか。だったら、僕は生まれない方が良かった、とか」

 住み慣れた家だからか、千種は饒舌だった。相槌を打てないでいる藤嗣に向かって、これまで一人で抱えていたものを吐き出す。

「だけど、どうしようもない。母さんは身請けされたし、僕は生まれてしまった」

 まるでそれが罪であるかのように言う。

 藤嗣は手にしていた桶を湯船に突っ込む。湯をたっぷりと汲み、千種の頭にかけた。

「――っ! 何をするんだ!」

「千種が変なことを言うからだ」

「事実なんだ、仕方ないだろ」

「千種にとっては事実でも、俺はお前が生まれてくれて嬉しいよ」

 千種には手を焼かされることもあるが、一緒にいて楽しい。藤嗣の高校生活になくてはならない存在だ。間違いなく。

「――それはよかった」

 そう言って、千種はとぷんと湯船に潜る。しばらくして顔を出した千種の顔は真っ赤になっていた。潜ったのは照れ隠しか。

「顔が真っ赤だ」

「湯が熱いんだよ」

 川に飛び込んで冷えた身体は、すっかり温まっていた。そういえば、と思い出す。二階から飛び降りるとき、千種は躊躇っていた。いや、躊躇うというよりも――。

「知りたいことついでに、ひとつ良いか?」

「何?」

「千種は何で高いところが苦手なんだ?」

「え……」

「寝台も、下の段がいいと言っていた。凌雲閣に上っても、外を見ようとしなかった」

「意外とよく見てるな」

 千種は鼻の頭に皺を寄せ、ぽつりと小さな声を零す。

「……落とされたことがあるんだよ、昔」

 落とされた、と少し嫌そうに言った。

「落とされた?」

「ああ。本家の兄が僕を嫌っているんだ。だから、階段の上から突き落とされた」

「無茶苦茶だ」

「怖かったんじゃないのか。父が僕を可愛がっていたから」

 だから、自分の立場を守るために突き落とした。その傷は今でも千種の中に癒えずに残っている。

 気付かぬうちに眉間に皺が寄っていたらしい。千種が声を上げて笑った。

「僕のことだろ。藤嗣が怒ることじゃない。しかも昔の話だ」

「だけど、それで千種は今でも高いところが苦手なんだろ」

「でも、飛べた」

 それは、無理強いをしたからではなかったのか。嫌ではなかったのか。千種を苦しめはしなかったか。あれこれ吹き出てくる思いを、千種は一言で封じ込める。

「藤嗣がいたからね。ありがとう」

「俺が?」

「そうだよ。藤嗣のおかげだ」

 けれど、そう言われても。

「俺は何もしていない」

「手を伸ばしてくれたじゃないか」

 確かに手は伸ばした。けれど、決して届くような距離ではなかったし、なんの支えにもならなかった。藤嗣が何も言えないでいると、千種が続ける。

「きっと、落ちても助けてくれる。拾い上げてくれるって思ったんだ。違うか?」

「そりゃあ、助けるさ」

「だろう? だから、飛べた」

 ふふ、と千種は笑う。

「藤嗣のおかげだよ」

 そう言われたら、もう何も言えなくなる。

「それなら、良かった」

 千種の心に再びの傷を作らなかったのならば、本当に良かった。

 千種は昔から大人の嫌な面を見せられてきたのだろう。我が儘も押さえ込んでこれまで過ごしてきたのだ、きっと。

 彼の目に、藤嗣はひどく幼く映ったはずだ。理想ばかりを掲げ、現実の苦しさを知らない。対して千種は冷静に物事を見ている。それは良いことのようにも思えるけれど――今は、まだもう少しだけ子供でいても良いのではないか。

「千種」

「どうした?」

「俺は……俺たちは、まだ子供だ」

 いくら大人ぶってみても、まだまだ成長途中だ。

「だから、今のうちに好きなだけ我が儘を言う。お前も言って良いんだ。今のうちに言わないと、きっと後悔するぞ」

 悩んだ末に行き着いた持論を伝えると、千種は細い肩を震わせて笑った。

「吹っ切れたな」

 藤嗣を悩ませた犯人の一人は、それ以上非難することはなかった。その笑った表情に藤嗣と同じくさっぱりとした雰囲気を纏わせる。

「じゃあ、僕も我が儘を言おうかな」

「ああ、どんどん言え」

 湯船の縁に頬杖をついた千種がすっかりと忘れてしまっていたことを訊ねた。

「どうして僕のことを小説にしようとしたんだ?」

 小説。全ての始まりの、あの。

「教えてくれても良いよな」

 今晩の件で失念していた。そうだった、と思い出し今更のように恥ずかしくなる。千種はあの帳面を持っているのだ。

 何より、全てを話してくれた千種に対して適当なことを言うなどできない。だから観念するしかないのだ。

「……頼まれたんだ。姉から。……学校の出来事をネタにして、物語を書いてほしいって」

 藤嗣としては恥ずかしい気持ちを堪えての告白だった。だが、返ってきたのは何だそんなことかと言いたげな反応だった。

「なんだ、面白くないな」

「面白くないってなあ、俺は一生懸命に書いたんだぞ」

「いや、だったら僕のことじゃなくても良かったろうにと思ったんだ」

「一度はそうしたよ。でも、姉はもっと別の話を書いて寄越せと言ったんだ」

 それが始まりだった。それがなければ、千種とはもっと別の関係になっていただろう。だが、それがどんなものか、藤嗣の望むものだったかは分からない。話をするようになっても、千種はやはり少し遠い存在に思えていたのだ。今のように腹を割って話せるようになっていたか、どうか。

 だから、経緯はどうあれ――今の関係が一番しっくりくる。

「どんな話を書いたんだ?」

「ストームのことを、主に」

「なるほど。確かに女性は喜ばないだろうね」

 そして、何か思いついたように湯船から身を乗り出す。

「だったら、今日のことを小説にしたらどうだ?」

「今日の?」

「姫君を助ける王子様。喜ばれるぞ、きっと」

「それはいい」

「だろう?」

 騒々しく、息もつかせぬ冒険物語になりそうだ。

「今度はちゃんと、黒田さんに許可を貰えよ」

「当たり前だ」

 小突きながらそう返すと、千種は声を上げて笑った。

「伊織さあん」

 千種の母の声がする。

「今日は泊まっていくのでしょう? お布団敷いておいたわよ」

「明日帰るか」

「そうだな。もう疲れた」

 門限を破るどころか朝帰りだ。だが、もう歩けそうにない。風呂からあがり、借り物の浴衣に袖を通す。用意された布団に倒れ込むと、夢も見ずに眠った。