日が落ち、障子の向こうは暗くなっている。他の様子はどうだろうかと外を見ると、ボートが三艘ほど待機している。藤嗣に気付き、一人が頷いた。準備は整っている。あとは黒田が小花を連れ、別の座敷からボートへ飛び移ってくれさえすればいい。

 座敷はというと、徳利が何本も転がるほど盛り上がっていた。目隠しをして娼妓を追いかける者もいれば、笑い声を上げて次から次に酒を飲む者もいる。園田の兄も次から次に酒を注いでいた。

 総揚げというだけあって、見世中の娼妓が座敷に集まっている。その中に、小花の姿を見つけたものだから藤嗣は目を疑った。なぜ小花がここにいる。

「こ――小花さん」

「あら、松原さん。どうなさったの? 今日はお祝い?」

 不思議そうに首を傾げている。小花は何も知らない。知らせるのは黒田の役目なのだ。

 いつもの黒田では顔が割れているから、髭を剃って髪を整えて見世に来てもらう。そこで小花に逃げる段取りを説明してもらうのだったが。

「あ――いえ、その……」

「そう? 楽しんでくださいね」

 微笑んで、小花は藤嗣のそばを離れる。

 黒田たちを受け止めてくれるのは、品川遊廓に沿う海に出したボート。

 そっと障子を開けて、ボートの乗員に合図をした。乗っているボート部の部員たちが大きな身振りで何かを訴えている。まだか、と言っているようだった。もう少し待ってくれ、と合図を送る。彼らは座敷がどうなっているのか知る由もない。そして藤嗣も理解できていない。

 どうなっているのか。小花は黒田と一緒に出たいと言っていたが、気が変わったのだろうか。落ち着きなくしていると、隣に座っていた娼妓の腕が絡みつく。

「どうなさったの?」

 その甘ったるい声と白粉の香りに身動きが取れなくなる。

「いや、ちょっと……手洗いに……」

「初めてでしょう? 案内しましょ」

 必要ない、と振り切る勇気はなかった。特に用事もない手洗いに連れて行かれる。こうしている間にも、黒田がどうしているかが気になって仕方がない。

 いくら暗くなったとはいえ、同じ場所にボートを留めておくのは限界がある。何かあったのだろうか。

 座敷に戻っても、藤嗣はあれこれと考えを巡らせる。これまで何度も練った計画を反芻し、何が悪かったのか、可能性を考える。

「小花さん。今日、黒田さんは……」

 小声で小花に訊ねる。

「黒田さん? どうして?」

「今日、こちらに来るよう言っていたんです」

「まあ、無理よ。総揚げですもの」

「いえ、そうなんですが。今日はその特別でして」

「特別?」

 小花が首を傾げる。無理もない、まだ何も伝えていないのだ。だが、黒田が来ていないとは。ずしっと身体が重くなる。今日は中止にするべきだろうか。しかし、街頭ストームなどそう何度もできるものではない。黒田の代わりに、藤嗣が小花を連れて逃げようか。

 襖が開いた。顔を覗かせたのは男衆だ。園田の兄と何やら話し込んでいる。酔いの回った座の主は、声を張り上げて藤嗣に訊ねる。

「なあ、芸妓は呼んだかな」

 そんな話は知らない。これ以上計画が乱れては困る。首を振り、知らないと――そんなものは断ってくれと伝えるが、その思いは届かなかった。

「ああ、頼んだかな。頼んだかもなあ」

 すっかり酔ってしまった彼には伝わらなかった。終わった、とうなだれる。計画は水泡に帰したのだ。

 ボート部は十時になれば引き上げる算段になっていた。あとは芸妓の舞でも見て、時が過ぎるのを待つしかない。そもそも、一体誰が呼んだのか。

「楽しみねえ」

 そう横で藤嗣にしなだれかかる娼妓に、適当に相槌を打つ。身体中の力が抜けていったのだが。

 入ってきた芸妓を見て藤嗣は口をぽかんと開けて呆けてしまった。

 白粉を塗り、紅をさして桃割れの少女髷に振り袖。美しい芸妓なのだが――芸妓は千種だった。

「――……!」

 声を上げかけてぐっと飲み込む。ここは声を上げるべきではない、という理性がぎりぎりで勝った。

 しかし、なぜ。千種が芸妓の格好など。疑問ばかりが渦巻く。

 まさか千種は好んで行っているのか? 今日の計画に反対していた。失敗するところを見物に来た、という可能性もある。そうか、笑いに来たのか。ならば納得がいく。

 千種の後には、三味線を持った大柄の男衆が付いてきている。

 男衆は後に付いてきた老女に三味線を渡し、後ろに控える。千種は正座をし、三指をついて深々と頭を下げる。

 べべんっと三味線の音が座敷に響いた。千種は扇子を手にした右手をすっと伸ばし、左手の指先で袖をつまむ。そして流れるような所作で扇子を開いた。扇子の両端を持ち、顔を隠す。そうしている間に右手は扇子の要に添えられ、扇面を表へ裏へとひらひら――まるで蝶が舞うように動かす。

 どうするかを考えなければならないのに、すっかり見入ってしまっていた。

 舞が終わると、わっと座が沸いた。それでやっと我に返る。

 そして、じっと向けられる千種からの視線に気付いた。

 顎をしゃくり、外に出るよう促している。藤嗣は己を指差し確認する、千種はいっそう不機嫌そうに頷いた。察しの悪いやつめ、と目が語っている。



 千種は廊下で待っていた。

「馬鹿か」

 開口一番がそれだった。

「いきなりなんだ。千種のことは誰にも言うつもりはないから――」

「そうじゃない。総揚げにしたら、黒田さんが入れないだろう」

 なぜかは分からないが、千種は今の状況を理解していた。藤嗣が困り果てていることも。

「どうして分かるんだ」

「それは後で」

 切羽詰まった藤嗣に、千種は横に控えていた大男を指す。

「困っているだろうから、連れてきた」

「連れて?」

 なにかの助っ人だろうか。黒い髪を短く刈り上げている。凛々しい眉に、つり気味の双眸。小鼻の大きな鼻に、大きな口。

「あの、あなたは――」

「黒田さんだよ」

 嘘だろう、と言いかけて飲み込む。髪を整えて髭を剃るようにと指示をしたのは藤嗣だった。こんな別人になるなんて思いもしなかったが。

「松原、済まない。遅れてしまった」

 黒田が頭を下げる。

「総揚げは考えたが、詰めが甘かったね」

「どうして言ってくれなかったんだ」

「あの場で言って、誰が聞いた?」

 確かに、盛り上がっているあの場で千種の言葉など聞き流されてしまう可能性が高い。

「説教は後から聞く」

「そんなことより、作戦だろ」

 千種に急かされ、黒田に確認をする。

「小花さんは座敷にいる。俺がすぐに連れ出してくるから、ここで待っていて欲しい」

「恩に着る」

 黒田の礼を背中に受けて、藤嗣は座敷に戻る。賑やかな座敷の片隅で、酌をする小花を見つける。

「小花さん、良いですか」

「どうなさったの?」

「ちょっと、あー、その、手洗いに案内して欲しいんです」

 連れ出す理由が見付からず、口から出任せで小花の手を取る。

「ちょっと失礼いたしますね」

 酌をしていた相手に頭を下げる小花を引っ張るようにして座敷から連れ出した。

「黒田さん」

 握っていた小花の手を黒田に任せる。

「まあ、髪を切られたの? お髭まで」

 小花もまた、黒田の変わりように驚いていた。素顔を知らなかったのか、と微笑ましくも思ったが、今はそれどころではない。

「それは後にして、小花さん。ここから逃げてください」

「逃げるって……」

 あとを引き継いだのは黒田だ。

「自由廃業するんだ、小花。俺と来てくれないか」

「じゆ……!」

 驚いた小花の口元を黒田が慌てて塞ぐ。藤嗣が今日の計画をざっと伝える。

「もし嫌でしたら、無理は言いません。ですが、黒田さんと一緒にいたいと言っていましたよね。ですから、逃げるために今日は寮の皆で作戦を練りました。外にボートを用意しています。ここからそのボートに乗って逃げ出すんです」

 喜ぶだろうと思っていた小花は、唇を噛んで複雑そうな表情を浮かべる。

「ですが、私だけ……」

 彼女は、ちらと襖を見る。自分と同じ状況の娼妓たちを気遣っているのだ。自分だけ逃げて良いものか、と。

 しかし、そうこうしているうちに見世の誰かがやって来てもおかしくない。そうなったら計画は潰れてしまう。

 痺れを切らしたのは千種だった。

「ああもう。黒田さんと一緒に行くのか行かないのか。あなたはそれだけを考えれば良いんだ」

 それまで芸妓と思っていた人物から、女性のものではない声が発せられたことに驚いた小花は、目を瞬かせた。

「あなた、男の方の声……」

「そうです。ほら、男ですよ、僕は」

 千種は被っていた鬘を乱暴に脱ぐ。

「あなたを助けに来たんだ。行くのか、行かないのか。決めるのはあなただし、今しかない」

 脱ぎ捨てた鬘は廊下に放り出された。小花は、化粧をした――それがまた似合っている――千種に詰め寄られる。

「ですが」

「ですが、じゃない。あなた、言ったんでしょう。黒田さんと一緒に居たいって。だから、僕らはここにいるんだ」

 そして少し間を起き。

「どうしてもと頼まれた訳じゃありませんが」

 そう続けた。

「今は、自分のことだけを考えてください。これが最後の好機だ」

「私は……」

 小花は下唇を噛み締め、着物を握りしめた。きっと、彼女の中では決まっている。それができないのは、迷惑になるかを考えているからだ。

 黒田が小花の手を取る。

「頼む。俺と、来てくれないか」

 その、迷いない言葉が背中を押した。小花はようやく覚悟を決めた表情になる。

「行きます、一緒に」

「よし、決まりだ。黒田さん、後は任せた」

 黒田の肩を叩いて、後は打ち合わせた通りに動いてくれと頼む。空いている座敷からボートに飛び乗ってくれさえすればいい。

 そっと廊下の先に消える二人を見送り、ひと息つく。

「さあ、僕たちも退散しよう」

「だけど、千種」

 藤嗣が止めると、千種は目をすがめた。

「また妙なことを考えているんじゃないだろうね」

「それは……」

「言わなくても分かってるよ。他の娼妓だろう? 彼女らも自由廃業させたいのか」

「……できれば」

 小花も気にしていた、他の娼妓たち。せめて一人でも多く自由廃業させることはできないものか。

「そう言うだろうと思っていたよ」

 諦めたような口調だった。

「大変だからな、覚悟しておけよ」

 ぐっと黙って俯く藤嗣を見かねたらしい。千種が勢いよく襖を開ける。

「自由廃業したいやつ! 海に留めてあるボートに乗り込め!」

 座敷がしんとなった。そして少しして。

 自由廃業? 川に? ボート? と娼妓たちがさざめく。

「どうなっても知らないからな」

 じろりと千種に睨まれる。

「ああ」

 こうなれば、もう開き直るしかない。園田の兄たち一行もまた、作戦に穴が出たのだと察したようだった。

「自由廃業させるのか?」

「面白そうだな!」

「ほら、ボートに乗り遅れるなよ!」

 戸惑う娼妓たちを急かす。

 娼妓たちもまた、これは好機なのだと察したらしい。帯を解き、重い着物を脱ぎ捨てる者もあれば、障子を開け、そこにボートが停まっているのを確かめる者もあった。

 驚いたのはボート部の面々である。小花と黒田を乗せるだけのつもりが、他の娼妓にも見つかってしまったのだから。

「あたしも乗せてちょうだい!」

「アタシも!」

 それまで客にしなだれかかっていた女性も、あっという間に帯を解き身軽になる。驚く藤嗣に対して。

「好きでしなだれかかっていたんじゃないわよ!」

 そう啖呵を切ってみせた。その力強さに、藤嗣は思わず笑顔になる。そうでなくては。

 藤嗣が駆け寄り、ボート部の皆に伝える。

「済まない、乗せられるだけ乗せてやってくれ! 皆、自由廃業させる!」

「無茶を言うな!」

「でもやるしかない!」

「お嬢さんがた、落ちないでくれよ!」

 ボートに乗り移る娼妓、海に落ちた娼妓を助ける学生。辺りは次第に騒がしくなる。どたばたと廊下を駆けてくる音がした。

「なんだ、どうしたんだこれは!」

 見世の主人が座敷の惨状を見て青い顔をして叫ぶ。次いで、男衆や女将も出てきて逃げようとする娼妓たちの袖を、裾を掴む。

「暴力は嫌いなんですがね!」

 園田の兄がそう言い、男衆を殴る。殴られた男は徳利に足を取られ、どたりと倒れた。

「警察だ、警察を呼べ!」

 主人が叫ぶ。

「松原くん、とりあえず君たちは逃げろ」

「ありがとうございます!」

 園田の兄に促され、千種の手を取って廊下を駆ける。

「逃がすか!」

 大柄の男衆に追われながら、玄関に急いだ。しかしそこはもう見世の者たちに遮られている。急いで踵を返し、入り組んだ建物の中を逃げ回る。

 階段を駆け上がり、海に面した狭い座敷にたどり着いたときには、藤嗣らを追っていた男衆もすっかり肩で息をしていた。

「さあ、追い詰めたぞ」

 じりじりと詰め寄られる。藤嗣は背中の障子を開け、手すりに足をかけた。もうこれしかない。

「俺が先に行くからな。後から来い」

 そう言い残し、窓から飛んでいた。

 バシャンと大きな音がして身体が水の中に沈む。ボート部が慌てて引き返し、引き上げてくれる。

「飛べ!」

 まだ部屋に残る千種に向かって叫んだ。戸惑った様子を見せていたが、藤嗣がボートの上から手をのばす。早く、と急かした。振袖を男衆に掴まれ、千種は逃げ場を絶たれる。

「大丈夫! 俺がいるから!」

 そう叫んでいた。千種は帯を解き、振袖を脱ぎ捨てる。やっとのことで意を決した様子で飛び降りた。

 襦袢が纏わり付いている千種を引き寄せ、ボートに引き上げる。船を出すように声を張った。

「早く! すぐに逃げろ!」

 これではもう逃亡犯だ。だが皆、楽しそうに声を上げて力一杯オールを漕ぐ。

 飛び降りた二階からは男衆が怒鳴っているのが見えた。

 船を下りると、黒田や小花、逃げ切れた娼妓たち、そして千種と藤嗣を真ん中に据えてのストームの行列が続いた。面白がって声援を送る往来の人、眉をひそめる人。反応は様々だ。

「お前ら!」

 背後から呼ばれ、びくりと飛び跳ねる。

「待て! おい!」

 男衆が掴んだのは、娼妓の格好をした学生だった。

「逃げろ逃げろォ!」

 その声を合図に、蜘蛛の子を散らすように走り出す。

「藤嗣、こっちだ!」

千種に言われるまま、付いていく。人混みをかき分け、明かりの海を泳ぐようにして走る。

「千種! お前がいてくれて助かった!」

 千種がいなければ、作戦は水泡に帰していたのだ。

「僕だけじゃないだろ!」

「だけど!」

「一人でも欠けたら、成功しなかった!」

 千種は楽しそうに、そう言った。