緩やかな坂が緩慢に空へと続いている。上る者は大抵坂の途中で足を止め、残る道を仰ぎ見る。そしてため息をつくのだ。まだ半分か、と。
永遠にも続きそうな坂道を、誰がそう呼び始めたのか――無限坂といった。
その無限坂を上りきった先には石造りの門があり、木札が掲げられ厳しい文字でこう書かれている。
私立有鄰館高等学校、と。
時は大正十一年、春。
世の中は大正九年から始まった戦後の大恐慌の只中にあった。大戦中の好景気が一転、銀行の取り付け騒ぎが続出した。綿糸や生糸の相場も暴落、中小企業の多くが倒産している。
だが、そんな暗い話など、彼――松原藤嗣にはあまり身近なものではなかった。関わりはあったのかもしれないが、興味はなかった。彼の興味はこれから始まる新しい生活にのみ向けられていた。
真新しい学生服、白線の入った帽子。それらを身にまとった時の晴れがましさはこれまでに経験したことがなかった。
石造りの門を潜り、足を止めた。帽子のつばを持ち上げ、希望に輝く瞳で顔を上げる。
若葉が茂る木々の向こうに建つのは、赤く輝く煉瓦造りの二階建て校舎。
中央棟には玄関があり、そこから左右両翼棟が伸びている。
東京府、渋谷区の外れに有鄰館高等学校は創立された。大正八年のことである。ようやく卒業生を出したばかりの新しい学校で、伝統は目下作っている最中だ。新しいが、しかし国内でも指折りの教師陣が集められている。そのためにこの学校を選んだ者も多かった。
藤嗣もまたその一人である。
藤嗣は、ここより遥か西、九州は福岡で生まれた。海に面した港町で、家は古くから続く船問屋を営んでいた。きょうだいは姉がふたり。
立て続けに産まれた女児の後だったから、藤嗣が産まれた時は三日三晩の宴が開かれたと聞いている。
父が早くに亡くなり、長姉は婿を取り一時的にだが家を継いだ。
――学校を卒業したら、藤嗣さんが跡を継ぐのよ。
何度もそう言われて育てられた。義兄は穏やかな人だったが、長姉は父の代わりに藤嗣を育てねばと厳しい人だった。薄っすらと記憶に残る父よりも厳しかったように思う。
そんな中で、ひとつ違いの次姉とは仲が良かった。次姉は器量は良いとは言えなかったが、利発なひとで常に何かしらの本を読んでいた。
そんな次姉は、花嫁修業になるからと言い、どうにか女学校まで進んだ。
――学校に通わなくても、花嫁修業はできるでしょうに。
長姉にそう言われながらも、次姉は立派な成績で卒業した。もっとも、女学校を卒業するのは恥だ、卒業前に嫁いで辞めるのが当たり前だと言われていたけれど。
次姉はそんな声にも負けなかった。できればさらに先へ進学したいと願ったが、それは叶わない望みだった。
対する藤嗣は自身の希望など二の次で高等学校の先、大学までの進学が約束されている。
次姉は藤嗣が家を発つぎりぎりまで恨み言を言っていた。藤嗣ばかりずるい、さみしい、と。その言葉には、藤嗣と共に東京へ向かう本との離れがたさが多分に含まれていた。
もし次姉が男であれば、こうしてここに立っているのは彼女だっただろうに。今頃、苦手な嫁入り修行をさせられているのだろう。
世の中にはどうしようもないことは山程ある。女として生まれてしまったのだから諦めるしかないのだ、と長姉は次姉を慰めていたが、藤嗣は納得しかねた。だが、その現実をどう変えればいいのか分からない。高等学校で学べば、時代を変えることもできるだろうか。
藤嗣は桜並木の下へと踏み出した。
有鄰館高等学校は全寮制だ。皆がひとつ屋根の下で暮らし、同じ釜の飯を食う。そうして絆を深める。寮は学校の敷地の一番奥に位置していた。講堂、図書館、テニスコート。それらを見ながら目的の建物を目指す。
辿り着いた寮は玄関を中央にして鋤の形のように左右に棟が伸びている。
恐る恐る敷居を跨ぐと、広々とした玄関があった。建物は新しいのだが、どこか清潔さに欠ける。隅には脱ぎ捨てられた下駄が転がっているし、上がってすぐの所には紐を渡して柔道着が乾してある。暖簾のように。これが男所帯というものか。
話し声は聞こえるが、人の姿はない。好奇心のままに片方の棟を覗いてみて、藤嗣は唖然とした。
廊下のいたるところに毛筆で漢詩が書かれているのだ。
暖簾は柔道着だけではない、剣道着もある。それらの暖簾は幾重にもなって奥まで見渡せなかった。柱には傷が入っている。この建物が決して穏やかな――それは静かに物思いに耽るという意の――日々を過ごす場ではなさそうだと思わせた。
「新入生か?」
背後から声を掛けられ、飛び上がらんばかりに驚いた。恐る恐る振り返ると、柔道着を着た人物がいた。上級生だろう。彼はそんな藤嗣を見て笑う。
「そんなに驚いたか」
「は……はい……」
素直に頷くと、豪快に肩を叩かれる。
「今日は入寮式だったな。二階の談話室に行くといい」
「あ、ありがとうございます」
深々と頭を下げると、頑張れよと送り出されたのだった。
教えてもらった通り、階段を上り談話室へと向かう。それはちょうど、玄関の上にあたった。覗いてみると、長机が置かれ、すでに半分ほどが埋まっていた。
入ってすぐに受付があり、そこで名を伝える。待つようにと告げられ、新入生の群れの中に混ざった。
程なくして着古された学生服姿の上級生がずらりと前に並ぶ。さっぱりと髪を切っている者は少なく、厳つく髭を伸ばした者、髪と髭が伸び切って表情が全く分からない者までいる。
「諸君、この度はおめでとう」
その中で、一番髪の短い――表情の分かる人物が祝いの言葉を述べた。後から聞いた話だが、彼らが寮の運営を取り仕切る幹部学生なのだそうだ。
「ここで、諸君らは我々と共に大いに学び、悩むこととなる」
幹部を取り巻く上級生が拍手をし、新入生はそれに倣った。
「だが、迷うことは悪ではない。今、この時しかできない貴重なことだ。答えが出るまで考え抜いて欲しい。もちろん、我々も日々迷い考えている」
その言葉に、藤嗣は思わず頷く。そんなことをするのは自分だけかと慌てて周りを見ると、同じように頷きながら聞いている者を見付け安心した。
「寮では、全て話し合いで物事を決める」
隣にいた物腰柔らかそうな学生がその言葉を引き継ぐ。
「月に一度は会合が開かれます。臨時でも開かれますので、必ず出席してくださいね」
「出席しない場合は、相応の粛正があるものと覚えておいて欲しい」
粛正、という言葉はひやりと冷たい。だがそうは言っても学生寮でのことだ。たかが知れている。そうのんびりと構えている者がほとんどだ。だから適当に聞き流している雰囲気だったのだが。
「私の実家は寺でしてね。経のひとつは上げられますので安心してくださいね」
その言葉に、笑い声が上がる。
「なんだ、俺たちは殺されるのか?」
「そうなったら骨は拾ってやるよ」
そんな戯言が聞こえてくる。しかし。
「おい、やめろ。本当に死人が出たこともあるらしいぞ」
その言葉を聞いて、場はしんと静まり返った。実家が寺だという幹部学生は、その動揺ぶりを見て嬉しそうにしていた。欠席するとどうなるか分からない。それが共通の認識となる。
中央に立つ幹部が咳払いをした。
「互いを尊重し、高め合う。それこそが、我が寮の心得である!」
これは、上級生に倣わずとも自然と拍手が湧いた。晴れて寮の一員になったのだ、という思いが皆の気持ちを高揚させていた。
寮は二棟あり、それぞれ西寮と東寮と呼ばれている。西寮には理科、そして東寮には文科が入る。それぞれの科は履修する第一外国語で分けられ、英語ならば甲類、ドイツ語ならば乙類となる。藤嗣は文科甲類――省略して文甲であった。
何科、そして何類であろうとも高等学校生としての誇りは忘れるな、と力強く伝えられた。
「守らなければならない決まりはある。だが諸君、それに従うことが正しいとは限らない!」
幹部がそう言うと、わっと声が上がった。藤嗣も思わず声を上げていた。これからは決まりに従うだけではない。何が正しいのか、間違っているのか。常に自分で考えるのだ。
「考えること、それこそが最大の学びだ」
永遠にも続きそうな坂道を、誰がそう呼び始めたのか――無限坂といった。
その無限坂を上りきった先には石造りの門があり、木札が掲げられ厳しい文字でこう書かれている。
私立有鄰館高等学校、と。
時は大正十一年、春。
世の中は大正九年から始まった戦後の大恐慌の只中にあった。大戦中の好景気が一転、銀行の取り付け騒ぎが続出した。綿糸や生糸の相場も暴落、中小企業の多くが倒産している。
だが、そんな暗い話など、彼――松原藤嗣にはあまり身近なものではなかった。関わりはあったのかもしれないが、興味はなかった。彼の興味はこれから始まる新しい生活にのみ向けられていた。
真新しい学生服、白線の入った帽子。それらを身にまとった時の晴れがましさはこれまでに経験したことがなかった。
石造りの門を潜り、足を止めた。帽子のつばを持ち上げ、希望に輝く瞳で顔を上げる。
若葉が茂る木々の向こうに建つのは、赤く輝く煉瓦造りの二階建て校舎。
中央棟には玄関があり、そこから左右両翼棟が伸びている。
東京府、渋谷区の外れに有鄰館高等学校は創立された。大正八年のことである。ようやく卒業生を出したばかりの新しい学校で、伝統は目下作っている最中だ。新しいが、しかし国内でも指折りの教師陣が集められている。そのためにこの学校を選んだ者も多かった。
藤嗣もまたその一人である。
藤嗣は、ここより遥か西、九州は福岡で生まれた。海に面した港町で、家は古くから続く船問屋を営んでいた。きょうだいは姉がふたり。
立て続けに産まれた女児の後だったから、藤嗣が産まれた時は三日三晩の宴が開かれたと聞いている。
父が早くに亡くなり、長姉は婿を取り一時的にだが家を継いだ。
――学校を卒業したら、藤嗣さんが跡を継ぐのよ。
何度もそう言われて育てられた。義兄は穏やかな人だったが、長姉は父の代わりに藤嗣を育てねばと厳しい人だった。薄っすらと記憶に残る父よりも厳しかったように思う。
そんな中で、ひとつ違いの次姉とは仲が良かった。次姉は器量は良いとは言えなかったが、利発なひとで常に何かしらの本を読んでいた。
そんな次姉は、花嫁修業になるからと言い、どうにか女学校まで進んだ。
――学校に通わなくても、花嫁修業はできるでしょうに。
長姉にそう言われながらも、次姉は立派な成績で卒業した。もっとも、女学校を卒業するのは恥だ、卒業前に嫁いで辞めるのが当たり前だと言われていたけれど。
次姉はそんな声にも負けなかった。できればさらに先へ進学したいと願ったが、それは叶わない望みだった。
対する藤嗣は自身の希望など二の次で高等学校の先、大学までの進学が約束されている。
次姉は藤嗣が家を発つぎりぎりまで恨み言を言っていた。藤嗣ばかりずるい、さみしい、と。その言葉には、藤嗣と共に東京へ向かう本との離れがたさが多分に含まれていた。
もし次姉が男であれば、こうしてここに立っているのは彼女だっただろうに。今頃、苦手な嫁入り修行をさせられているのだろう。
世の中にはどうしようもないことは山程ある。女として生まれてしまったのだから諦めるしかないのだ、と長姉は次姉を慰めていたが、藤嗣は納得しかねた。だが、その現実をどう変えればいいのか分からない。高等学校で学べば、時代を変えることもできるだろうか。
藤嗣は桜並木の下へと踏み出した。
有鄰館高等学校は全寮制だ。皆がひとつ屋根の下で暮らし、同じ釜の飯を食う。そうして絆を深める。寮は学校の敷地の一番奥に位置していた。講堂、図書館、テニスコート。それらを見ながら目的の建物を目指す。
辿り着いた寮は玄関を中央にして鋤の形のように左右に棟が伸びている。
恐る恐る敷居を跨ぐと、広々とした玄関があった。建物は新しいのだが、どこか清潔さに欠ける。隅には脱ぎ捨てられた下駄が転がっているし、上がってすぐの所には紐を渡して柔道着が乾してある。暖簾のように。これが男所帯というものか。
話し声は聞こえるが、人の姿はない。好奇心のままに片方の棟を覗いてみて、藤嗣は唖然とした。
廊下のいたるところに毛筆で漢詩が書かれているのだ。
暖簾は柔道着だけではない、剣道着もある。それらの暖簾は幾重にもなって奥まで見渡せなかった。柱には傷が入っている。この建物が決して穏やかな――それは静かに物思いに耽るという意の――日々を過ごす場ではなさそうだと思わせた。
「新入生か?」
背後から声を掛けられ、飛び上がらんばかりに驚いた。恐る恐る振り返ると、柔道着を着た人物がいた。上級生だろう。彼はそんな藤嗣を見て笑う。
「そんなに驚いたか」
「は……はい……」
素直に頷くと、豪快に肩を叩かれる。
「今日は入寮式だったな。二階の談話室に行くといい」
「あ、ありがとうございます」
深々と頭を下げると、頑張れよと送り出されたのだった。
教えてもらった通り、階段を上り談話室へと向かう。それはちょうど、玄関の上にあたった。覗いてみると、長机が置かれ、すでに半分ほどが埋まっていた。
入ってすぐに受付があり、そこで名を伝える。待つようにと告げられ、新入生の群れの中に混ざった。
程なくして着古された学生服姿の上級生がずらりと前に並ぶ。さっぱりと髪を切っている者は少なく、厳つく髭を伸ばした者、髪と髭が伸び切って表情が全く分からない者までいる。
「諸君、この度はおめでとう」
その中で、一番髪の短い――表情の分かる人物が祝いの言葉を述べた。後から聞いた話だが、彼らが寮の運営を取り仕切る幹部学生なのだそうだ。
「ここで、諸君らは我々と共に大いに学び、悩むこととなる」
幹部を取り巻く上級生が拍手をし、新入生はそれに倣った。
「だが、迷うことは悪ではない。今、この時しかできない貴重なことだ。答えが出るまで考え抜いて欲しい。もちろん、我々も日々迷い考えている」
その言葉に、藤嗣は思わず頷く。そんなことをするのは自分だけかと慌てて周りを見ると、同じように頷きながら聞いている者を見付け安心した。
「寮では、全て話し合いで物事を決める」
隣にいた物腰柔らかそうな学生がその言葉を引き継ぐ。
「月に一度は会合が開かれます。臨時でも開かれますので、必ず出席してくださいね」
「出席しない場合は、相応の粛正があるものと覚えておいて欲しい」
粛正、という言葉はひやりと冷たい。だがそうは言っても学生寮でのことだ。たかが知れている。そうのんびりと構えている者がほとんどだ。だから適当に聞き流している雰囲気だったのだが。
「私の実家は寺でしてね。経のひとつは上げられますので安心してくださいね」
その言葉に、笑い声が上がる。
「なんだ、俺たちは殺されるのか?」
「そうなったら骨は拾ってやるよ」
そんな戯言が聞こえてくる。しかし。
「おい、やめろ。本当に死人が出たこともあるらしいぞ」
その言葉を聞いて、場はしんと静まり返った。実家が寺だという幹部学生は、その動揺ぶりを見て嬉しそうにしていた。欠席するとどうなるか分からない。それが共通の認識となる。
中央に立つ幹部が咳払いをした。
「互いを尊重し、高め合う。それこそが、我が寮の心得である!」
これは、上級生に倣わずとも自然と拍手が湧いた。晴れて寮の一員になったのだ、という思いが皆の気持ちを高揚させていた。
寮は二棟あり、それぞれ西寮と東寮と呼ばれている。西寮には理科、そして東寮には文科が入る。それぞれの科は履修する第一外国語で分けられ、英語ならば甲類、ドイツ語ならば乙類となる。藤嗣は文科甲類――省略して文甲であった。
何科、そして何類であろうとも高等学校生としての誇りは忘れるな、と力強く伝えられた。
「守らなければならない決まりはある。だが諸君、それに従うことが正しいとは限らない!」
幹部がそう言うと、わっと声が上がった。藤嗣も思わず声を上げていた。これからは決まりに従うだけではない。何が正しいのか、間違っているのか。常に自分で考えるのだ。
「考えること、それこそが最大の学びだ」
