談話室に向かうとそこは侃々諤々の議論が交わされていた。片隅に座り、この騒がしさの中で本を読む千種を見付ける。
「今日は何か話し合いがあったか?」
「僕は聞いてない」
話し合いがある場合は、前もって日程と議題が掲示板に貼り出される。見落としていたのかと思ったが、そうではないらしい。
喧噪の中から園田を見付け、その近くに陣取る。千種もその後に付いてきた。
「何の話をしているんだ?」
園田は楽しげに口角を上げる
「街頭ストームだよ」
返ってきたのは得意げな答え。園田としてはそれなりの反応を――感嘆の声を上げるなり、興奮するなりを期待していたようだった。だが、藤嗣は首を傾げ、千種に至っては興味なさげに本を開く始末。
「お前ら、楽しみじゃないのか?」
「いや、そう言われても……どういうものか知らないからな」
千種も横で頷く。園田は呆れ混じりに説明してくれた。
「名前の通り、街頭で行うストームだよ」
それは説明になっていなかったけれど。
「ストームを? 街頭で? 咎められるだろう」
「警察を呼ばれるよ」
横からの千種の言葉に頷く。あんな騒ぎを学校外で行うなど、周りにはいい迷惑だ。
「だから、そうならないよう事前に届け出もする。……お前ら、何も知らないんだな」
「当たり前だろ。そんなはた迷惑な行事を知っていてたまるか。園田こそ、なんで詳しいんだよ」
「兄から聞いたんだ」
なるほど、と納得する。
「しかし面白そうだ」
「ひとつの祭りだからな。楽しいぞ」
学校を出て騒ぐのだから、盛大な祭りに違いない。どこを歩くのが良いか、誰が仕切るか。話し合う上級生たちは生き生きとしている。
「おい、一年! ぼんやりしていないでお前達も加われ」
それから寮内は街頭ストームの話で盛り上がるようになっていった。
こうして日常に戻る。黒田のことも忘れてしまえるのだ――きっと。
衣替えがあり季節は確実に春から夏に移り変わっていた。
次姉から手紙の返事が届いた。小説の件は大目に見よう、と書かれていた。それよりも、と書かれていたのは黒だと小花のことだ。
――どうにかできないのかしら。
心から案じているのが伝わってくる。小説はいいから、二人をどうにか助けなさい、とまで書かれていた。そうしたいのは藤嗣も山々なのだが。
小花への手紙は頼まれていない。本当に終わりにするつもりなのだ。
「松原くん」
廊下で呼び止められた。振り返ると、歴史の教師だ。相変わらず、枯れ木のようにひょろりと細い。
「先生」
「悩んでいますか」
「もう、やめました。悩んでも仕方がないことです」
「仕方のない悩みなど、ひとつもありませんよ」
きっぱりとした口ぶりだった。老教師は柔和な瞳でじっと藤嗣を見て続ける。
「納得した答えが出ずに放り投げるのも構いません。それもまた、悩んだ末の結果です。ただ、それに松原くんが納得しているかどうか。それが問題です」
「納得……ですか」
「はい。納得したのなら、どんな答えだろうと構わないのですよ」
「できなければ、どうすれば良いんですか?」
「無理矢理にでも納得するのが大人でしょうねえ」
そうして、成長していくのだと伝えたいのか。俯く藤嗣に、老教師は続ける。
「だが、君は若い。だからできることは私よりも遙かに多い。私も若い頃は道理など無視して無茶をしたものです」
「先生が?」
落ち着いた姿から、無茶をする様子など結び付かず、訊ね返す。
「私にも若い頃はありましたからねえ。東京から鎌倉まで徒歩での旅をしましたよ」
今の穏やかな姿からは想像もできない話が飛び出し、思わず吹き出してしまう。
「成長することは大切です。ただ、一足飛びに育って欲しくはないんですよ。ゆっくり、少しずつ大人になってください。そうして育った木は強いものです」
「それが……無茶で、どうしようもない我が儘でも良いんでしょうか」
「若い頃は無茶を楽しみなさい。我が儘を言えるのは若者の特権です。責任を取るようなことになれば、大人を頼りなさい。そのために私たちがいるんですから」
穏やかな言葉が背中を押してくれる。老教師は穏やかに微笑み、それじゃあ、と立ち去る。その小さな後ろ姿を見送りながら、じわじわと思いが湧き上がってくる。
――我が儘を言えるのは若者の特権。
特権ならば、言ってやろうではないか。これまでで一番の無茶で、身勝手な我儘を。小花を自由廃業させる。
無茶をするにしても、小花は遊廓の中だ。連れて逃げ出すにしても、ぐるりと見世の者たちの目に囲まれている。そして背後には海。逃げ場はない。
「……いや」
本当にないのか。目の前に待ち構える見世の者たちを潜り抜ける手はないか。一人ならばまだしも、小花を連れてとなると難しい。じりじりと追い詰められるのが目に見えている。追い詰められた先は海なのだ。――海。
藤嗣の家も裏が海だった。止める姉たちを振り切って、二階から海に飛び込んで遊んでいたことを思い出す。例えばそんな風に――。
真正面から外に出られないのなら、あの部屋から海に飛び込むのはどうだろう。だが、海に落ちて泳いで岸まで、とは難しい。
いや、泳がなくともいい。船を待たせていれば、どうにかなるのではないか。
だが、その後は。警察に駆け込んでも、千種の話の通りならばそこは安全な場所ではない。すぐに捕まってしまうのが関の山だ。
見えたと思った光芒が一瞬にして消え去る。
足取りは重く、寮に戻る。
あと一歩。もう少しでどうにかなりそうな気はするのだ。
ざわざわと胸が落ち着かない。何か、これはきっと放り出してはいけないという警告だ。落ち着きなく談話室に向かい、千種の傍に座る。
相変わらず街頭ストームの話で持ちきりだった。
「バケツでなく、太鼓を持ってこよう」
「神輿代わりにお前を担いでやろうか」
耳に入ってくる街頭ストームの内容は、天地をひっくり返すような行列を想像させた。街中を巻き込む、大きな嵐。
「……街頭ストーム」
「なに? どうかした?」
街頭ストームならば、誰も手出しをできないのではないか。騒ぎに紛れて連れ出せたなら、警察まで連れて行くのも叶うのではないか。
思い付くとすぐに黒田を探しに立ち上がる。
「黒田さん!」
寮の廊下を叫びながら駆けていると、何事かと皆が顔を出す。
「黒田さんはいますか!」
「黒田なら、食堂にいたか」
「ありがとうございます!」
早速、食堂に急いだ。握り飯を食べている黒田の向かいに座り、前のめりになり提案する。きっと黒田も目を輝かせてくれるだろうと期待していた。
「黒田さん! ちょっと話を聞いて欲しい!」
「どうした」
「小花さんのこと、考えたんだ。もし小花さんを俺たちで自由廃業させられるとしたら、どうするか聞きたくて」
「そんなこと……叶うはずもない」
「もし叶うとしたら。黒田さんはどうする」
「そりゃあ、一緒になりたい。だけど――もう良いんだ、松原」
返ってきたのは、そんな覇気のない言葉だった。
「なんでそんなに消極的なんだ、一度失敗したくらいで」
「そうだ、失敗したんだ」
諦めたような声音だった。初めて会った時の快活な黒田はどこに行ったのか。
「だったら、黒田さんはこのまま小花さんが見世に居る方が幸せだって言うのか?」
黒田の頬に朱がさす。ぐいと手が伸び、襟首を掴まれた。
「簡単に言うな。俺が……どれだけ……」
どれだけ小花さんを大切に想っているのか。こうしている今も苦しい思いを抱えているのか。藤嗣には想像することしかできない。
「まだ小花さんを好きなんだろう?」
「そりゃあ――」
「だろう?」
「でも、無理だ」
「無理じゃなく、しないんだろう」
黒田はぐっと黙る。抱えている感情を吐き出してはいけないと、懸命に飲み込んでいる。それは消えないでいる好意に違いない。
「苦しいのなら、行動すれば良いんだ」
ずっと抱えているのなら、動けば良いのだ。黒田は諦め切れていない。だからこうして落ち込んでいる。
「一緒に、小花さんを自由廃業させよう。それで駄目なら諦める」
「一度失敗したのに、か」
「俺に考えがある」
黒田はしばらく考えた後、襟元を掴んでいた手を解いた。しばらくの沈黙の後、振り絞るように黒田が口にする。
「……わかった」
待っていた返事に、藤嗣は拳を握り締める。
「しかし松原、どんな手順を考えているんだ。見世には人が多い。俺は裏口から出ようとしたが、すぐに見付かってしまったぞ」
「実行できるか、明日、確かめてくる」
翌日、授業を終えて品川の遊廓へ急いだ。気持ちばかりが先走っていたから、着いた頃には肩で息をしていた。小花を指名し、いつもの小さな部屋に入る。
「すみません、今日は手紙はないんです」
部屋に入るなり頭を下げると、小花は驚いたように目を丸くした。そうして、笑い声混じりに思わぬ事を口にした。
「だったら、お客さまとして来てくれたの?」
「そんな、まさか!」
慌てて首を振る。藤嗣の意思で来たが、そんなつもりではなかった。小花は、冗談よ、と笑う。
「何か用事があったの?」
「はい。確かめたいことがあって」
そして、ずかずかと部屋を横切り、障子を開ける。眼下に広がっていたのは海だった。船が行き交っているのが見える。記憶違いではなかった。これならば大丈夫だ、計画は実行に移せると確信する。
「どうしたの?」
小花が後ろから心配そうに伺う。
「ずっと考えていたんです。俺が勝手に」
「何を?」
「もし、ここから出られたなら――」
「外に出られたら、なんて……数え切れないほど考えたわ」
その言葉は切なかった。考えた後で思い知らされるのだ、叶わぬ現実に。
「もし、外に出られたなら。もし、自由になれたなら。それが叶わないことだから考えてしまうのよ」
じっとりと重い沈黙が満ちた。
「……ごめんなさいね」
小花がぽつりとこぼす。
「黒田さんと一緒に居られるとしたら――どうしますか」
仮定の話を打ち消すように強く訊ねる。小花は面くらい、そして少し間を置いて頷いた。
「あの人と過ごせるのなら、他に何も要りません」
それで藤嗣の行動は決まった。小花をここから連れ出して、今度こそ自由廃業させるのだ。
「今日は何か話し合いがあったか?」
「僕は聞いてない」
話し合いがある場合は、前もって日程と議題が掲示板に貼り出される。見落としていたのかと思ったが、そうではないらしい。
喧噪の中から園田を見付け、その近くに陣取る。千種もその後に付いてきた。
「何の話をしているんだ?」
園田は楽しげに口角を上げる
「街頭ストームだよ」
返ってきたのは得意げな答え。園田としてはそれなりの反応を――感嘆の声を上げるなり、興奮するなりを期待していたようだった。だが、藤嗣は首を傾げ、千種に至っては興味なさげに本を開く始末。
「お前ら、楽しみじゃないのか?」
「いや、そう言われても……どういうものか知らないからな」
千種も横で頷く。園田は呆れ混じりに説明してくれた。
「名前の通り、街頭で行うストームだよ」
それは説明になっていなかったけれど。
「ストームを? 街頭で? 咎められるだろう」
「警察を呼ばれるよ」
横からの千種の言葉に頷く。あんな騒ぎを学校外で行うなど、周りにはいい迷惑だ。
「だから、そうならないよう事前に届け出もする。……お前ら、何も知らないんだな」
「当たり前だろ。そんなはた迷惑な行事を知っていてたまるか。園田こそ、なんで詳しいんだよ」
「兄から聞いたんだ」
なるほど、と納得する。
「しかし面白そうだ」
「ひとつの祭りだからな。楽しいぞ」
学校を出て騒ぐのだから、盛大な祭りに違いない。どこを歩くのが良いか、誰が仕切るか。話し合う上級生たちは生き生きとしている。
「おい、一年! ぼんやりしていないでお前達も加われ」
それから寮内は街頭ストームの話で盛り上がるようになっていった。
こうして日常に戻る。黒田のことも忘れてしまえるのだ――きっと。
衣替えがあり季節は確実に春から夏に移り変わっていた。
次姉から手紙の返事が届いた。小説の件は大目に見よう、と書かれていた。それよりも、と書かれていたのは黒だと小花のことだ。
――どうにかできないのかしら。
心から案じているのが伝わってくる。小説はいいから、二人をどうにか助けなさい、とまで書かれていた。そうしたいのは藤嗣も山々なのだが。
小花への手紙は頼まれていない。本当に終わりにするつもりなのだ。
「松原くん」
廊下で呼び止められた。振り返ると、歴史の教師だ。相変わらず、枯れ木のようにひょろりと細い。
「先生」
「悩んでいますか」
「もう、やめました。悩んでも仕方がないことです」
「仕方のない悩みなど、ひとつもありませんよ」
きっぱりとした口ぶりだった。老教師は柔和な瞳でじっと藤嗣を見て続ける。
「納得した答えが出ずに放り投げるのも構いません。それもまた、悩んだ末の結果です。ただ、それに松原くんが納得しているかどうか。それが問題です」
「納得……ですか」
「はい。納得したのなら、どんな答えだろうと構わないのですよ」
「できなければ、どうすれば良いんですか?」
「無理矢理にでも納得するのが大人でしょうねえ」
そうして、成長していくのだと伝えたいのか。俯く藤嗣に、老教師は続ける。
「だが、君は若い。だからできることは私よりも遙かに多い。私も若い頃は道理など無視して無茶をしたものです」
「先生が?」
落ち着いた姿から、無茶をする様子など結び付かず、訊ね返す。
「私にも若い頃はありましたからねえ。東京から鎌倉まで徒歩での旅をしましたよ」
今の穏やかな姿からは想像もできない話が飛び出し、思わず吹き出してしまう。
「成長することは大切です。ただ、一足飛びに育って欲しくはないんですよ。ゆっくり、少しずつ大人になってください。そうして育った木は強いものです」
「それが……無茶で、どうしようもない我が儘でも良いんでしょうか」
「若い頃は無茶を楽しみなさい。我が儘を言えるのは若者の特権です。責任を取るようなことになれば、大人を頼りなさい。そのために私たちがいるんですから」
穏やかな言葉が背中を押してくれる。老教師は穏やかに微笑み、それじゃあ、と立ち去る。その小さな後ろ姿を見送りながら、じわじわと思いが湧き上がってくる。
――我が儘を言えるのは若者の特権。
特権ならば、言ってやろうではないか。これまでで一番の無茶で、身勝手な我儘を。小花を自由廃業させる。
無茶をするにしても、小花は遊廓の中だ。連れて逃げ出すにしても、ぐるりと見世の者たちの目に囲まれている。そして背後には海。逃げ場はない。
「……いや」
本当にないのか。目の前に待ち構える見世の者たちを潜り抜ける手はないか。一人ならばまだしも、小花を連れてとなると難しい。じりじりと追い詰められるのが目に見えている。追い詰められた先は海なのだ。――海。
藤嗣の家も裏が海だった。止める姉たちを振り切って、二階から海に飛び込んで遊んでいたことを思い出す。例えばそんな風に――。
真正面から外に出られないのなら、あの部屋から海に飛び込むのはどうだろう。だが、海に落ちて泳いで岸まで、とは難しい。
いや、泳がなくともいい。船を待たせていれば、どうにかなるのではないか。
だが、その後は。警察に駆け込んでも、千種の話の通りならばそこは安全な場所ではない。すぐに捕まってしまうのが関の山だ。
見えたと思った光芒が一瞬にして消え去る。
足取りは重く、寮に戻る。
あと一歩。もう少しでどうにかなりそうな気はするのだ。
ざわざわと胸が落ち着かない。何か、これはきっと放り出してはいけないという警告だ。落ち着きなく談話室に向かい、千種の傍に座る。
相変わらず街頭ストームの話で持ちきりだった。
「バケツでなく、太鼓を持ってこよう」
「神輿代わりにお前を担いでやろうか」
耳に入ってくる街頭ストームの内容は、天地をひっくり返すような行列を想像させた。街中を巻き込む、大きな嵐。
「……街頭ストーム」
「なに? どうかした?」
街頭ストームならば、誰も手出しをできないのではないか。騒ぎに紛れて連れ出せたなら、警察まで連れて行くのも叶うのではないか。
思い付くとすぐに黒田を探しに立ち上がる。
「黒田さん!」
寮の廊下を叫びながら駆けていると、何事かと皆が顔を出す。
「黒田さんはいますか!」
「黒田なら、食堂にいたか」
「ありがとうございます!」
早速、食堂に急いだ。握り飯を食べている黒田の向かいに座り、前のめりになり提案する。きっと黒田も目を輝かせてくれるだろうと期待していた。
「黒田さん! ちょっと話を聞いて欲しい!」
「どうした」
「小花さんのこと、考えたんだ。もし小花さんを俺たちで自由廃業させられるとしたら、どうするか聞きたくて」
「そんなこと……叶うはずもない」
「もし叶うとしたら。黒田さんはどうする」
「そりゃあ、一緒になりたい。だけど――もう良いんだ、松原」
返ってきたのは、そんな覇気のない言葉だった。
「なんでそんなに消極的なんだ、一度失敗したくらいで」
「そうだ、失敗したんだ」
諦めたような声音だった。初めて会った時の快活な黒田はどこに行ったのか。
「だったら、黒田さんはこのまま小花さんが見世に居る方が幸せだって言うのか?」
黒田の頬に朱がさす。ぐいと手が伸び、襟首を掴まれた。
「簡単に言うな。俺が……どれだけ……」
どれだけ小花さんを大切に想っているのか。こうしている今も苦しい思いを抱えているのか。藤嗣には想像することしかできない。
「まだ小花さんを好きなんだろう?」
「そりゃあ――」
「だろう?」
「でも、無理だ」
「無理じゃなく、しないんだろう」
黒田はぐっと黙る。抱えている感情を吐き出してはいけないと、懸命に飲み込んでいる。それは消えないでいる好意に違いない。
「苦しいのなら、行動すれば良いんだ」
ずっと抱えているのなら、動けば良いのだ。黒田は諦め切れていない。だからこうして落ち込んでいる。
「一緒に、小花さんを自由廃業させよう。それで駄目なら諦める」
「一度失敗したのに、か」
「俺に考えがある」
黒田はしばらく考えた後、襟元を掴んでいた手を解いた。しばらくの沈黙の後、振り絞るように黒田が口にする。
「……わかった」
待っていた返事に、藤嗣は拳を握り締める。
「しかし松原、どんな手順を考えているんだ。見世には人が多い。俺は裏口から出ようとしたが、すぐに見付かってしまったぞ」
「実行できるか、明日、確かめてくる」
翌日、授業を終えて品川の遊廓へ急いだ。気持ちばかりが先走っていたから、着いた頃には肩で息をしていた。小花を指名し、いつもの小さな部屋に入る。
「すみません、今日は手紙はないんです」
部屋に入るなり頭を下げると、小花は驚いたように目を丸くした。そうして、笑い声混じりに思わぬ事を口にした。
「だったら、お客さまとして来てくれたの?」
「そんな、まさか!」
慌てて首を振る。藤嗣の意思で来たが、そんなつもりではなかった。小花は、冗談よ、と笑う。
「何か用事があったの?」
「はい。確かめたいことがあって」
そして、ずかずかと部屋を横切り、障子を開ける。眼下に広がっていたのは海だった。船が行き交っているのが見える。記憶違いではなかった。これならば大丈夫だ、計画は実行に移せると確信する。
「どうしたの?」
小花が後ろから心配そうに伺う。
「ずっと考えていたんです。俺が勝手に」
「何を?」
「もし、ここから出られたなら――」
「外に出られたら、なんて……数え切れないほど考えたわ」
その言葉は切なかった。考えた後で思い知らされるのだ、叶わぬ現実に。
「もし、外に出られたなら。もし、自由になれたなら。それが叶わないことだから考えてしまうのよ」
じっとりと重い沈黙が満ちた。
「……ごめんなさいね」
小花がぽつりとこぼす。
「黒田さんと一緒に居られるとしたら――どうしますか」
仮定の話を打ち消すように強く訊ねる。小花は面くらい、そして少し間を置いて頷いた。
「あの人と過ごせるのなら、他に何も要りません」
それで藤嗣の行動は決まった。小花をここから連れ出して、今度こそ自由廃業させるのだ。
