電車に乗り、出かけたのは浅草だった。
高く空を突く凌雲閣、賑やかに幟をはためかせる活動写真屋。寄席の前では客引きが演目を読み上げている。同じ華やかさでも、遊廓とは全く違っていた。賑やかで心が踊る。
「何を見ようか。千種は何か見たいものがあるのか?」
「なんでもいいよ。藤嗣が選んで」
「いいのか?」
「ああ」
「そうだな……外国の活動がいいか」
いくつかある中で一番流行っている劇場を選び、真ん中の辺りに陣取る。フィルムが回り始めると、弁士が感情豊かに語り始めた。
銀幕に映し出されるのは異国の街並みを歩く女。石畳を歩きながら、道行く男に声を掛けられ話し込む。それを弁士が節を付けて説明をするのだ。楽しげな場面にはそれに合わせた音楽が演奏された。小さなオーケストラが銀幕の下にいるのだ。
「どうなるかな」
横から楽しげな千種の声が聞こえた。
「面倒ごとが起こるのが定石だろ」
物語とはそういうものだ。
「さすが、藤嗣センセイ」
からかう千種を小突き、銀幕に視線を移す。
二人は面倒に巻き込まれ、追いかけられる。だがそれは誤解だった。場面はくるくると変わり、その度に美しい街並みが映し出される。
「ほら、頑張って逃げろォ!」
「後ろだぞー!」
他の客も銀幕の中の二人に向かい、声援を投げる。
弁士は巧みで、女声を作ってそれらしく演じるものだから場内は大いに沸いた。藤嗣もまた、何も考えずにただ話の内容に入り込み――笑ったのだった。
劇場を出た千種は晴れやかな表情をしていた。日の下で大きく伸びをする。
「他に行きたいところはある?」
「千種は、ないのか?」
「僕は東京で育ったから」
「そう。だったら――」
気になっていたものはたくさんある。上野の動物園、大仏。銀座の賑わいも見てみたい、日本橋も。そして何より、ここは浅草。浅草といえば、天高くそびえ立つ建物。
「浅草十二階、上ってみたいんだけど」
あまりにも定番すぎるからか、千種は顔をしかめた。
「……わかったよ」
東京の人間には通い慣れたものなのかもしれない。それでも千種は藤嗣の意見を受け入れ、浅草十二階と呼ばれ親しまれる凌雲閣へと足を向けた。
浅草に凌雲閣が建てられたのは、明治二十三年。浅草公園に建てられた十二階建ての建築物、ということで浅草十二階という名で親しまれた。日本で初めての電動エレベーターが設置されたが、すぐに壊れてしまった。
「乗ってみたかったな、エレベーター」
そんなことを言いながら、階段を上る。長い長い、終わりの見えない階段。それを上りきった先には東京府内を見渡せる展望台があった。
いつも暮らしている街が小さな作り物のように見えた。この中で、大勢の人たちが笑って泣いて――そうやって日々を過ごしているのだ。吹き込んでくる春の風が頬を撫でた。
「こうして見ていると、俺の悩みなんてちっぽけなものに思えるな」
街は広くて、抱える悩みなど大したものではないように思えてしまう。
「まだ悩んでいる顔をしているな。黒田さんの好きな人のことだろ」
「ああ……」
「自由廃業は難しいんだ。簡単にできることじゃないんだよ」
「そう、なのか」
「見世から逃げて警察に駆け込む。そう聞けば簡単に聞こえるだろうけど、まず廓から出ることが難しい。見張りがあるからね。それに、運良く駆け込めても、主人は警察にまで手を回している。見世に通報されて連れ戻されるのがオチだよ」
「法律で決まっているだろう、その……」
「娼妓取締規則には確かに書いてあるよ。警察署に出頭して娼妓名簿削除ができるって。でも、そうそう守られてはいない。見世と警察は結託しているからね」
「……ひどいな」
助けを求めた先が味方ではないなど、どうすれば良いのだ。この社会を恨むように言葉を吐き捨てる藤嗣に対し、千種は冷静だ。
「それが、この世の中だよ」
世の中を知り尽くしたような、そんな一言で片付ける。冷たいんだな、と喉元まで出かかった。それを言ってしまえば千種は気を悪くするに決まっている。だから飲み込んで、代わりに別の言葉を選ぶ。
「黒田さんはそれを分かっていて、助けようとしたのかな」
どこまで知っていたのだろう。千種は静かに語る。
黒田なりに計画を立てたのだろうが、それはうまくいかなかった。
「どうだろうね。一人で行ったんだから、手の込んだことはできなかっただろうけれど。どちらにしろ、失敗した」
それは揺るぎない事実だ。
「悩んだって構わないよ。だけど、半端な気持ちで哀れみの言葉は掛けるな」
「哀れんではいない」
「本当に? 可哀想だと、少しでも思っていないか?」
「……」
言葉に詰まり、藤嗣は黙り込む。千種の言うことは正しい。二人が幸せになれたらいい、どうして幸せになれないのか――それはつまり、可哀想ではないか、と哀れんでいたのだ。
千種の言葉は冷たいようで優しい。藤嗣だけでなく、黒田のことも考えている。誰に肩入れするでもない。周りをしっかりと見ているのだ。
振り返り、千種の横顔を見る。すらりと伸びた鼻筋。伏せた睫が目元を縁取り、薄い影を落としていた。きゅっと結ばれた唇は形良く、いくら見ていても飽きさせない。
視線に気付いた千種が眉間に皺を寄せ藤嗣を睨む。
「……なんだよ」
「いや、妙に気遣ってくれるなと思って」
今日の外出の目的は疑いの目を逸らすためであって、それ以外の意味は――いや、あるのか。
それならば、寮で一緒に過ごしていればいいのだ。わざわざ活動写真を見なくていい。凌雲閣に上る必要もなかった。
訊ねてみてもはぐらかされるだろうから、推測の域は出ないけれど。今日の外出は、藤嗣の気分転換のためでもあったのだ。
「ありがとう、千種」
藤嗣の、何の前置きもない礼の言葉に、千種は相変わらず眉間に皺を刻んだままだ。だがそこに少しだけ照れくさそうな様子が見えた気がした。
「別に、何もしてないだろ」
「そうだな」
少なくとも、千種のおかげで救われた。それでいい。
寮に帰り、久々に次姉に手紙を書いた。遅れに遅れている小説の謝罪と、近況だった。悩んでいることがある、と書き始めると止まらなかった。黒田のこと、小花のこと。それらを書き綴り、次姉へと送ったのだった。
日曜日の外出のおかげで、千種の周りは静かになったらしい。当人はとても満足そうだった。
「読書の邪魔をされるのが、僕は一番腹が立つ」
そうも言っていた。そして、一番静かだからと藤嗣のそばで本の頁を捲っていた。
藤嗣の日々もまた、静かだった。
というのも、ここしばらく黒田から手紙を頼まれる日がなくなっていたのだ。金が尽きたのか、多少ならば融通できるがそれを言うのは失礼にあたるかもしれない。気になっていたがこちらから催促する訳にもいかず、気がかりを抱えながら過ごしていた。
だから、偶然黒田に会った時には安心した。
「黒田さん」
「ああ、松原」
久しぶりに見る黒田には以前のような豪快さが消えていた。疲れているように見える。
「近頃、手紙は書いていないけれど、良いのか?」
そんなことはない、と冷やかしに対する反応があるだろうと構えていたのだが。
「そうだな」
そんな、諦めたような言葉が返ってきた。
「小花さんは……」
どうするのか。だが、黒田はさっぱりとした調子で答える。
「さんざん手を打ってもどうにもならなかった。俺の力じゃ無理なんだ」
それは黒田に選んで欲しくはなかった。黒田の襟元を掴み、揺さぶる。
「でも、気持ちは変わっていないはずだ」
掴んでいた手が振り解かれた。
「松原も分かるだろう。気持ちだけではどうにもならないことはある」
冷たい、理性的な声で言われては何も返せなかった。
時間は確かに流れているのだ。黒田の後ろ姿を見送りながらそう思った。小花は今日も客を取り、黒田はそれを知りながら――自由にさせたいと思いながら叶わぬ我が身を呪っている。そして、諦めようとしているのだ。それを、諦めるな、どうにかしろと言うのは藤嗣の我儘でしかない。
小花を今の稼業から足を洗わせるには身請けか自由廃業か。だが金はない。自由廃業は失敗している。
本当に、もう何も打つ手はないのか。諦めるしか――ないのか。
高く空を突く凌雲閣、賑やかに幟をはためかせる活動写真屋。寄席の前では客引きが演目を読み上げている。同じ華やかさでも、遊廓とは全く違っていた。賑やかで心が踊る。
「何を見ようか。千種は何か見たいものがあるのか?」
「なんでもいいよ。藤嗣が選んで」
「いいのか?」
「ああ」
「そうだな……外国の活動がいいか」
いくつかある中で一番流行っている劇場を選び、真ん中の辺りに陣取る。フィルムが回り始めると、弁士が感情豊かに語り始めた。
銀幕に映し出されるのは異国の街並みを歩く女。石畳を歩きながら、道行く男に声を掛けられ話し込む。それを弁士が節を付けて説明をするのだ。楽しげな場面にはそれに合わせた音楽が演奏された。小さなオーケストラが銀幕の下にいるのだ。
「どうなるかな」
横から楽しげな千種の声が聞こえた。
「面倒ごとが起こるのが定石だろ」
物語とはそういうものだ。
「さすが、藤嗣センセイ」
からかう千種を小突き、銀幕に視線を移す。
二人は面倒に巻き込まれ、追いかけられる。だがそれは誤解だった。場面はくるくると変わり、その度に美しい街並みが映し出される。
「ほら、頑張って逃げろォ!」
「後ろだぞー!」
他の客も銀幕の中の二人に向かい、声援を投げる。
弁士は巧みで、女声を作ってそれらしく演じるものだから場内は大いに沸いた。藤嗣もまた、何も考えずにただ話の内容に入り込み――笑ったのだった。
劇場を出た千種は晴れやかな表情をしていた。日の下で大きく伸びをする。
「他に行きたいところはある?」
「千種は、ないのか?」
「僕は東京で育ったから」
「そう。だったら――」
気になっていたものはたくさんある。上野の動物園、大仏。銀座の賑わいも見てみたい、日本橋も。そして何より、ここは浅草。浅草といえば、天高くそびえ立つ建物。
「浅草十二階、上ってみたいんだけど」
あまりにも定番すぎるからか、千種は顔をしかめた。
「……わかったよ」
東京の人間には通い慣れたものなのかもしれない。それでも千種は藤嗣の意見を受け入れ、浅草十二階と呼ばれ親しまれる凌雲閣へと足を向けた。
浅草に凌雲閣が建てられたのは、明治二十三年。浅草公園に建てられた十二階建ての建築物、ということで浅草十二階という名で親しまれた。日本で初めての電動エレベーターが設置されたが、すぐに壊れてしまった。
「乗ってみたかったな、エレベーター」
そんなことを言いながら、階段を上る。長い長い、終わりの見えない階段。それを上りきった先には東京府内を見渡せる展望台があった。
いつも暮らしている街が小さな作り物のように見えた。この中で、大勢の人たちが笑って泣いて――そうやって日々を過ごしているのだ。吹き込んでくる春の風が頬を撫でた。
「こうして見ていると、俺の悩みなんてちっぽけなものに思えるな」
街は広くて、抱える悩みなど大したものではないように思えてしまう。
「まだ悩んでいる顔をしているな。黒田さんの好きな人のことだろ」
「ああ……」
「自由廃業は難しいんだ。簡単にできることじゃないんだよ」
「そう、なのか」
「見世から逃げて警察に駆け込む。そう聞けば簡単に聞こえるだろうけど、まず廓から出ることが難しい。見張りがあるからね。それに、運良く駆け込めても、主人は警察にまで手を回している。見世に通報されて連れ戻されるのがオチだよ」
「法律で決まっているだろう、その……」
「娼妓取締規則には確かに書いてあるよ。警察署に出頭して娼妓名簿削除ができるって。でも、そうそう守られてはいない。見世と警察は結託しているからね」
「……ひどいな」
助けを求めた先が味方ではないなど、どうすれば良いのだ。この社会を恨むように言葉を吐き捨てる藤嗣に対し、千種は冷静だ。
「それが、この世の中だよ」
世の中を知り尽くしたような、そんな一言で片付ける。冷たいんだな、と喉元まで出かかった。それを言ってしまえば千種は気を悪くするに決まっている。だから飲み込んで、代わりに別の言葉を選ぶ。
「黒田さんはそれを分かっていて、助けようとしたのかな」
どこまで知っていたのだろう。千種は静かに語る。
黒田なりに計画を立てたのだろうが、それはうまくいかなかった。
「どうだろうね。一人で行ったんだから、手の込んだことはできなかっただろうけれど。どちらにしろ、失敗した」
それは揺るぎない事実だ。
「悩んだって構わないよ。だけど、半端な気持ちで哀れみの言葉は掛けるな」
「哀れんではいない」
「本当に? 可哀想だと、少しでも思っていないか?」
「……」
言葉に詰まり、藤嗣は黙り込む。千種の言うことは正しい。二人が幸せになれたらいい、どうして幸せになれないのか――それはつまり、可哀想ではないか、と哀れんでいたのだ。
千種の言葉は冷たいようで優しい。藤嗣だけでなく、黒田のことも考えている。誰に肩入れするでもない。周りをしっかりと見ているのだ。
振り返り、千種の横顔を見る。すらりと伸びた鼻筋。伏せた睫が目元を縁取り、薄い影を落としていた。きゅっと結ばれた唇は形良く、いくら見ていても飽きさせない。
視線に気付いた千種が眉間に皺を寄せ藤嗣を睨む。
「……なんだよ」
「いや、妙に気遣ってくれるなと思って」
今日の外出の目的は疑いの目を逸らすためであって、それ以外の意味は――いや、あるのか。
それならば、寮で一緒に過ごしていればいいのだ。わざわざ活動写真を見なくていい。凌雲閣に上る必要もなかった。
訊ねてみてもはぐらかされるだろうから、推測の域は出ないけれど。今日の外出は、藤嗣の気分転換のためでもあったのだ。
「ありがとう、千種」
藤嗣の、何の前置きもない礼の言葉に、千種は相変わらず眉間に皺を刻んだままだ。だがそこに少しだけ照れくさそうな様子が見えた気がした。
「別に、何もしてないだろ」
「そうだな」
少なくとも、千種のおかげで救われた。それでいい。
寮に帰り、久々に次姉に手紙を書いた。遅れに遅れている小説の謝罪と、近況だった。悩んでいることがある、と書き始めると止まらなかった。黒田のこと、小花のこと。それらを書き綴り、次姉へと送ったのだった。
日曜日の外出のおかげで、千種の周りは静かになったらしい。当人はとても満足そうだった。
「読書の邪魔をされるのが、僕は一番腹が立つ」
そうも言っていた。そして、一番静かだからと藤嗣のそばで本の頁を捲っていた。
藤嗣の日々もまた、静かだった。
というのも、ここしばらく黒田から手紙を頼まれる日がなくなっていたのだ。金が尽きたのか、多少ならば融通できるがそれを言うのは失礼にあたるかもしれない。気になっていたがこちらから催促する訳にもいかず、気がかりを抱えながら過ごしていた。
だから、偶然黒田に会った時には安心した。
「黒田さん」
「ああ、松原」
久しぶりに見る黒田には以前のような豪快さが消えていた。疲れているように見える。
「近頃、手紙は書いていないけれど、良いのか?」
そんなことはない、と冷やかしに対する反応があるだろうと構えていたのだが。
「そうだな」
そんな、諦めたような言葉が返ってきた。
「小花さんは……」
どうするのか。だが、黒田はさっぱりとした調子で答える。
「さんざん手を打ってもどうにもならなかった。俺の力じゃ無理なんだ」
それは黒田に選んで欲しくはなかった。黒田の襟元を掴み、揺さぶる。
「でも、気持ちは変わっていないはずだ」
掴んでいた手が振り解かれた。
「松原も分かるだろう。気持ちだけではどうにもならないことはある」
冷たい、理性的な声で言われては何も返せなかった。
時間は確かに流れているのだ。黒田の後ろ姿を見送りながらそう思った。小花は今日も客を取り、黒田はそれを知りながら――自由にさせたいと思いながら叶わぬ我が身を呪っている。そして、諦めようとしているのだ。それを、諦めるな、どうにかしろと言うのは藤嗣の我儘でしかない。
小花を今の稼業から足を洗わせるには身請けか自由廃業か。だが金はない。自由廃業は失敗している。
本当に、もう何も打つ手はないのか。諦めるしか――ないのか。
