日曜日、のろのろと身体を起こしたのはいつもより少し遅い時間だった。洗面所で同級生から、遅いお目覚めでとからかわれ、それを適当にかわして食堂へと向かう。

 今日はどう過ごそうか。復習をしておこう。読みさしの本を片付けるのもいい。ぼんやりと立ち始めた一日の予定は、食堂に入るなり名を呼ばれ、一気に吹き飛んでしまう。

「藤嗣!」

 それは食堂中に聞こえるような大きな声だった。呼んだ当の千種は人に囲まれている。

「何だよ、朝から……」

 ぼんやりした頭が無理矢理叩き起こされる。朝食を貰いに行きながら、まだ寝癖を整えていない髪を掻く。返事はあくび混じりの気の抜けたもの。千種は人の波を掻き分けて近付いてくる。

「出かけるよ」

 出かけようと誘うのではなく、出かけないかと伺うでもない。そこに藤嗣の意思はなく出かけるという決定事項だけがあった。

 山盛りの白飯と味噌汁を受け取り、空いている席にかける。

「千種、飯は」

「食べた。藤嗣が遅いんだよ」

「悪かったな。でも、今日はそんな気分じゃ――」

「約束しただろ、出かけるって」

「約束?」

 したのかどうかも思い出せない。近頃、考えるのは黒田のことがほとんどで、話し掛けられても生返事しかしていない。千種は味噌汁を啜る藤嗣に張り付いて離れなかった。

「活動を見に行くって約束したよ」

 活動――つまりは活動写真だ。白黒の映像が映されて、活動弁士が物語を盛り上げる。庶民の娯楽だ。

「活動なあ……」

「破るのか? 約束」

「人聞きの悪いことを言うな」

 藤嗣が生返事をしている間に取り付けられた約束だろう。とはいっても、約束は約束。覚えていないからと突っぱねるのは信用に関わる。

「行くよ、行く。分かったから朝飯はゆっくり食わせてくれ」

「決まりだな!」

 嬉しそうな千種の声が響き、その後で遠巻きに見ていた学生たちの溜息が聞こえたのは、多分気のせいではない。



 支度を調えて寮を出る。

 背後から、千種、と呼ぶ声が聞こえたが隣を歩く当人は聞こえていないようだ。声があまりに悲痛だったから、千種をつつく。

「呼んでるぞ」

「良いんだよ」

 千種は振り返らず、いつもより少しばかり近い距離で並んで歩く。離れようとすると、袖を引かれて止められた。

「……近いだろ」

「良いんだよ、これで」

 そして、門を出てしばらくした頃だ。

「この一週間、静かだっただろ」

 おもむろにそう話を振られた。声音に恨みがましいものを感じ、ぎくりとする。千種には言っていなかった。黒田との間の取引を。

 悪いことではないはずだ。だがどこか後ろめたい。

「まあ……そうだな」

 適当に誤魔化していれば話題は変わるかもしれないと、曖昧な相づちを打つ。

「一日中ぼんやりしていたもんな」

「それは、俺の勝手だろ」

「僕との約束も覚えていなかったもんな」

「それは……」

 そのことについての非は認めざるを得ない。だが、千種にかけた迷惑というとその程度だ。

「どうして静かだったか、と考えるなんてしなかったのか」

 話題はいつまで経っても変わらない。それどころか、じりじりと逃げ場を絶ってくる。このまましらばくれるなどできそうになかった。

「……実は」

 結局、観念して切り出す。

「黒田さんと約束をしたんだ。遊廓に行く代わりに、俺への呼び出しの相手をするって」

 だが、これは黒田との間の約束で千種は関わりがない。念友の関係を解消してはいないし、何の迷惑もかかっていないはずだ。文句を言われる筋合いはない、と思う。

 それなのに、千種はじろりと横目で睨む。

「それだけじゃないからな」

「……と、いうと?」

 黒田の助力の他に何かあるのか。思い当たる節はない。

「僕は大変だった」

 千種はいっそう不機嫌そうに眉を寄せる。

「何かあったのか?」

 千種が大変な目に遭う理由など思い当たりもしない。心配して訊ねたのだが、千種にとって面白くなかったらしい。向ける視線は相変わらず冷え冷えとしている。

「藤嗣が黒田さんの女に惚れたんじゃないかって噂になってるの、知ってるか?」

「……は?」

 それは寝耳に水だった。二の句が出てこず、目を丸くする。それだけで充分な答えになっていたらしい。

「知らないんだな」

 頷く。それしかなかった。

「始終ぼんやりして、授業も上の空。何かあったんじゃないかって噂されてるよ」

 そんな噂が流れているのか。

 それはどの程度まで広がっているのだろうか。ごく一部の界隈でなのか、それとも学校中の誰もが知る話なのか。

 もし黒田にまで知られていたら――どう思っているだろう。指一本触れるな、と念を押されている。その約束は守っているが、もし噂を聞いてそれを信じてしまったら。黒田のために行っていることが、逆に傷付けることになっている。誤解なのだとすぐに説明しなければ。踵を返そうとして腕を捕まれた。

「黒田さんには僕が話してるよ」

「千種が?」

「僕と藤嗣の仲は変わっていないから、誤解だって。信じてくれた」

「それは……どうも」

 それはそれで誤解なのだが、少なくとも黒田を傷付けるよりはましだ。だが千種の不機嫌は変わらない。

「問題はそれだけだと思ったのか」

「まだあるのか?」

「小説を書いているんだから、少しくらい想像してみろよ」

 言いがかりに眉根を寄せる。従わなければさらに罵倒されそうだったから考えてみる。

 藤嗣に妙な噂が立っている。幸いにも黒田は誤解していない。それで、他に何があるのか。

 横から大仰なため息が聞こえる。

「連日、僕が呼び出されているんだよ。藤嗣をやめて俺にしろって。迷惑極まりない」

 そうか、なるほどと合点がいった。娼妓にうつつを抜かしているやつなど捨て置いてしまえ、ということか。確かにそうだろう、と納得していると、横から向けられる射るような視線に気付いた。

「……すまない」

 偽りとはいえ念友の関係なのだ。謝ると、当然だとばかりに一瞥される。

「本当に恋煩いなのか?」

「まさか!」

 慌てて首を振る。恋煩いなどこれまで一度としてしたことはない。

「二人がどうにか幸せにならないか、考えていたんだ」

 それだけだ。それ以外の感情はない。

「藤嗣らしいな」

 呆れるでもなく、馬鹿にするでもなく。千種は疑うことなく、そっくりそのままを受け入れてくれた。

「本当に恋煩いでも、僕は何も言えないけれどね」

 そして、足を止めて藤嗣に向き直る。

「ただ、今日は埋め合わせをしてもらう」

「埋め合わせ?」

「僕は散々な目に遭ったんだ。だから、僕らの関係を念押しさせる」

 皆がいる食堂で外出する話を持ち出したのはそのためか。必要以上に距離を詰めて歩いていたし、呼ばれても振り返らなかった。これまでの千種の行動を思い出すと、全てに納得がいく。

「抜け目がないな」

 全て計算ずくの千種に、苦笑を漏らした。