黒田は律儀に約束を守ってくれていて、以前のような呼び出しはぱったりとなくなった。そうなると日常は穏やかで、お陰でぼんやりとする時間が増えた。
考えるのは黒田たちのことだ。どうすれば二人が幸せになるか。せめてひと目だけでも会わせられないか。考え始めるときりがない。つまりは悩みがひとつ消えた代わりに別の悩みを抱え込んだことになる。
窓の外には日々緑が増えていた。明るいのは日差しばかりで、藤嗣の気持ちは冴えない。知らぬうちに溜息が漏れている。
「どうした。千種と喧嘩でもしたのか?」
意識を引き戻したのは、園田の声だった。前の席から身を乗り出し藤嗣の顔を覗き込んでいる。その声音はどこか楽しげだった。
「違う」
喧嘩はしていない。そう訊かれるのは何度目になるか。藤嗣自身はこれまでと変わらないと思っていたが、周りにはそう見えないようだった。
「遊廓に行きはじめてから様子がおかしいだろ」
「そんなにおかしいか」
「おかしい」
きっぱりと言い切られる。園田は親切心か好奇心か、打ち明けてみろと促す。だが、黒田のことを全て打ち明けるのも憚られる。藤嗣が勝手に悩んでいるだけなのだ。
「話してみろ」
「遠慮する」
「悩みが解決するかもしれないだろ」
「いいや、しない」
「頑固だな。俺に話してみろ。な?」
そんな問答の末に降参して、悩みの上澄みだけを伝える。
「……世の中、うまくいかないこともあると思っただけだ」
それは上澄みも上澄み、相談にすらなっていない。それ以上は言う気がないと察してくれた園田は、追求してこなかった。
「そりゃあな。何でも思うとおりにはいかないもんだ」
思うとおりにはいかない。その証拠に、藤嗣の帳面は返してもらえていないままだ。かといって、千種との関係が悪いものかと言えばそうでもない。一緒に過ごしていても苦にはならないのだ。千種を慕う学生連中から呼び出されることがなくなった今、単なる仲の良い友人になっている。
「だからこそ、面白くもあるだろう?」
「まあ、確かに……」
そうやって黒田の件も納得できる形に落ち着けられないものだろうか。
夕食を終えてから消灯までの時間は自由だ。何をしても良い。だるま屋に行く日もあれば、勉強をする日もある。そして、議論を交わす日も。題目は何だっていい。醤油の味についてでも良かったし、誰かのマントのほつれについてでも良かった。藤嗣は大いに議論したし、楽しかった。楽しみながら、けれど同時に引っかかるものがあった。
この夜も、ひとつの部屋に集まりとりとめもない議論を交わしていた。話が一段落ついた時に、抱えていたものが零れ落ちる。
「俺たちは、こんなことをしていて良いのだろうか」
議論し、考えを深めている。だがそうしている間にも小花のような娼妓は春を鬻いでいるのだ。それまで穏やかだった場の雰囲気は一瞬にして冷え切る。一人は俯き、一人は天井を見上げ、藤嗣とは顔を合わせない。泥のような重い沈黙が支配する。
「将来を変えるための今だろ」
沈黙を破ったのは千種だった。千種には珍しく、夜の議論に付いてきたのだ。皆が千種を見る。
「今の僕たちには何もできないよ。でも、学校を出れば変えられる。そのために議論をしているんじゃないのか?」
千種はぐるりと場を見回す。そして、きっぱりと揺るぎのない言葉で締めくくる。
「少なくとも、僕はそう思っていたけれど」
千種の言うことはもっともだ。藤嗣も分かる。だからそれで納得しろと言われても腹の辺りで渦巻く消化しきれないものがあるのだ。
「だけど、今すぐどうにかしたいことがあったら――」
「諦める」
千種の返事はすげないものだ。
そうか。姉たちもこうして諦めてきたのか。どうにかしたい、けれどどうにもできないから。姉たちを倣えば、藤嗣もそうやって諦めるべきなのかもしれない。けれど。
「諦めきれなければ、どうする」
どうにかして希望を見いだして縋りたいのだ。それが蜘蛛の糸のように細くても構わないから。千種の、その艶のある唇から紡がれる静かな言葉は答えではなく藤嗣の内面を透かす。
「藤嗣はさ、これまで思い通りにいかないことなんてなかっただろ」
「そんな――……」
否定をしようとして、しかし言葉に詰まる。思い通りにいかないことはなかった。家の跡継ぎとして生まれて、言われるままに学校に通い、当たり前のように高等学校に入学した。欲しいものは何でも買ってもらえたし、物も時間も不自由なく与えられた。
読みたい本があると言えば数日すれば手元にあった。絵が描きたいと言えば色とりどりの絵の具が与えられた。
確かに姉たちには頭が上がらないが、それでも跡継ぎだからと遠慮している面もあったように思う。姉が手に入れられないものが、藤嗣ならば当然のように与えられていた。
藤嗣の言うことは駄々をこねる子供のそれだ。思うとおりの形に収まって欲しい。そうでなければ嫌だ。諦められない。それは――。
「我が儘だよ」
気付かないふりをして目を逸らそうとしていた事を、涼やかな声が抉る。誰も口を開く者はなかった。千種は立ち上がると、静かに扉を開けて部屋を後にした。
言葉がずしりと重くのしかかる。藤嗣はじっと俯くことしかできなかった。誰も口を開かず、開けず、黙り込む。暫くして沈黙を破ったのは誰だったか。
「だけど、その我が儘で救われる人が居るなら……悪くないんじゃないか?」
藤嗣の我が儘で、果たして黒田は――小花は救われるのだろうか。
答えの出ない悩みは堂々巡りをするばかりだ。お開きになり、部屋に戻ってもなお藤嗣は考える。
そのまま眠りに落ちて見たのは、出口を探す夢だった。薄闇の中、手探りで廊下を歩いている。だが、いつまでたっても外に出られなかった。
魘されていたらしく、下から蹴り上げられて目を覚ます。窓の外はまだ暗い。布団を被り、もう一度眠りにつく。幸い、夢は見ずに朝を迎えられた。
将来を変えるために、今がある。翌日になっても千種に言われたことがずっと渦巻いていた。
そのために、目の前のことは諦めないとならない。我慢を覚えることも大切だ。だが、そこに誰かの人生が関わっていたら。学生だから無理だ、と終わってしまって良いのか。
「――……」
ざわざわとした教室内の声が、薄い膜を通して遠くに聞こえる。
「松原、おい。呼ばれてるぞ」
園田が振り向き、目の前で手をひらひらとさせていた。ぼんやりと彷徨っていた意識が戻ってきて、ここが教室で今は授業中だと気付く。慌てて立ち上がると、教室中が笑いに包まれた。
「松原くん。心ここにあらず、という顔ですね」
歴史を担当する枯れ木のようにひょろりとした老教師は眼鏡を押し上げながら柔らかな声で咎めた。叱責された方がどれほど楽だったか。藤嗣は項垂れて謝罪を絞り出す。
「……すみません」
「まあ、そんな日もあるでしょう。勉学ばかりが学びではないからね。悩むことも大切です。どうですか、その悩みに答えは出ましたか」
開き直り、顔を上げた。
「いえ、答えに到るには容易ではありません」
「そうか、それはいいですね」
教師は呵々と笑った。
「いずれ答えは出ますよ。それが、明日か、一年後か。もしかすると十年かかるかもしれません。死ぬ間際に出る可能性だってある」
「死ぬ間際では困るでしょう」
級友が横から声を上げた。
「そりゃあ、今日の飯のおかずを何にするかくらいの悩みを死ぬ間際まで引き摺るのは困りますね。それまで何も食えんのですから」
教室内がどっと湧いた。
「だが、そんなのはすぐに決まるでしょう。失敗しても、少し気持ちが落ち込む程度だ。だが、世の中にあるのはそんな悩みばかりじゃない。答えが出る前に選択を迫られることもある。選んだ後で悩みが大きくなることもあるでしょうね」
「どうするんです?」
「それを、ここで学ぶんですよ。授業を聞いて欲しいのは山々ですが、それだけじゃない。君らはそのためにここに居るんですから」
それが少し、藤嗣の心を軽くした。悩むことは悪くない。
将来のための、今。だから藤嗣は大いに悩み、議論する。そして何らかの選択をする。それは間違いではないのだ。
考えるのは黒田たちのことだ。どうすれば二人が幸せになるか。せめてひと目だけでも会わせられないか。考え始めるときりがない。つまりは悩みがひとつ消えた代わりに別の悩みを抱え込んだことになる。
窓の外には日々緑が増えていた。明るいのは日差しばかりで、藤嗣の気持ちは冴えない。知らぬうちに溜息が漏れている。
「どうした。千種と喧嘩でもしたのか?」
意識を引き戻したのは、園田の声だった。前の席から身を乗り出し藤嗣の顔を覗き込んでいる。その声音はどこか楽しげだった。
「違う」
喧嘩はしていない。そう訊かれるのは何度目になるか。藤嗣自身はこれまでと変わらないと思っていたが、周りにはそう見えないようだった。
「遊廓に行きはじめてから様子がおかしいだろ」
「そんなにおかしいか」
「おかしい」
きっぱりと言い切られる。園田は親切心か好奇心か、打ち明けてみろと促す。だが、黒田のことを全て打ち明けるのも憚られる。藤嗣が勝手に悩んでいるだけなのだ。
「話してみろ」
「遠慮する」
「悩みが解決するかもしれないだろ」
「いいや、しない」
「頑固だな。俺に話してみろ。な?」
そんな問答の末に降参して、悩みの上澄みだけを伝える。
「……世の中、うまくいかないこともあると思っただけだ」
それは上澄みも上澄み、相談にすらなっていない。それ以上は言う気がないと察してくれた園田は、追求してこなかった。
「そりゃあな。何でも思うとおりにはいかないもんだ」
思うとおりにはいかない。その証拠に、藤嗣の帳面は返してもらえていないままだ。かといって、千種との関係が悪いものかと言えばそうでもない。一緒に過ごしていても苦にはならないのだ。千種を慕う学生連中から呼び出されることがなくなった今、単なる仲の良い友人になっている。
「だからこそ、面白くもあるだろう?」
「まあ、確かに……」
そうやって黒田の件も納得できる形に落ち着けられないものだろうか。
夕食を終えてから消灯までの時間は自由だ。何をしても良い。だるま屋に行く日もあれば、勉強をする日もある。そして、議論を交わす日も。題目は何だっていい。醤油の味についてでも良かったし、誰かのマントのほつれについてでも良かった。藤嗣は大いに議論したし、楽しかった。楽しみながら、けれど同時に引っかかるものがあった。
この夜も、ひとつの部屋に集まりとりとめもない議論を交わしていた。話が一段落ついた時に、抱えていたものが零れ落ちる。
「俺たちは、こんなことをしていて良いのだろうか」
議論し、考えを深めている。だがそうしている間にも小花のような娼妓は春を鬻いでいるのだ。それまで穏やかだった場の雰囲気は一瞬にして冷え切る。一人は俯き、一人は天井を見上げ、藤嗣とは顔を合わせない。泥のような重い沈黙が支配する。
「将来を変えるための今だろ」
沈黙を破ったのは千種だった。千種には珍しく、夜の議論に付いてきたのだ。皆が千種を見る。
「今の僕たちには何もできないよ。でも、学校を出れば変えられる。そのために議論をしているんじゃないのか?」
千種はぐるりと場を見回す。そして、きっぱりと揺るぎのない言葉で締めくくる。
「少なくとも、僕はそう思っていたけれど」
千種の言うことはもっともだ。藤嗣も分かる。だからそれで納得しろと言われても腹の辺りで渦巻く消化しきれないものがあるのだ。
「だけど、今すぐどうにかしたいことがあったら――」
「諦める」
千種の返事はすげないものだ。
そうか。姉たちもこうして諦めてきたのか。どうにかしたい、けれどどうにもできないから。姉たちを倣えば、藤嗣もそうやって諦めるべきなのかもしれない。けれど。
「諦めきれなければ、どうする」
どうにかして希望を見いだして縋りたいのだ。それが蜘蛛の糸のように細くても構わないから。千種の、その艶のある唇から紡がれる静かな言葉は答えではなく藤嗣の内面を透かす。
「藤嗣はさ、これまで思い通りにいかないことなんてなかっただろ」
「そんな――……」
否定をしようとして、しかし言葉に詰まる。思い通りにいかないことはなかった。家の跡継ぎとして生まれて、言われるままに学校に通い、当たり前のように高等学校に入学した。欲しいものは何でも買ってもらえたし、物も時間も不自由なく与えられた。
読みたい本があると言えば数日すれば手元にあった。絵が描きたいと言えば色とりどりの絵の具が与えられた。
確かに姉たちには頭が上がらないが、それでも跡継ぎだからと遠慮している面もあったように思う。姉が手に入れられないものが、藤嗣ならば当然のように与えられていた。
藤嗣の言うことは駄々をこねる子供のそれだ。思うとおりの形に収まって欲しい。そうでなければ嫌だ。諦められない。それは――。
「我が儘だよ」
気付かないふりをして目を逸らそうとしていた事を、涼やかな声が抉る。誰も口を開く者はなかった。千種は立ち上がると、静かに扉を開けて部屋を後にした。
言葉がずしりと重くのしかかる。藤嗣はじっと俯くことしかできなかった。誰も口を開かず、開けず、黙り込む。暫くして沈黙を破ったのは誰だったか。
「だけど、その我が儘で救われる人が居るなら……悪くないんじゃないか?」
藤嗣の我が儘で、果たして黒田は――小花は救われるのだろうか。
答えの出ない悩みは堂々巡りをするばかりだ。お開きになり、部屋に戻ってもなお藤嗣は考える。
そのまま眠りに落ちて見たのは、出口を探す夢だった。薄闇の中、手探りで廊下を歩いている。だが、いつまでたっても外に出られなかった。
魘されていたらしく、下から蹴り上げられて目を覚ます。窓の外はまだ暗い。布団を被り、もう一度眠りにつく。幸い、夢は見ずに朝を迎えられた。
将来を変えるために、今がある。翌日になっても千種に言われたことがずっと渦巻いていた。
そのために、目の前のことは諦めないとならない。我慢を覚えることも大切だ。だが、そこに誰かの人生が関わっていたら。学生だから無理だ、と終わってしまって良いのか。
「――……」
ざわざわとした教室内の声が、薄い膜を通して遠くに聞こえる。
「松原、おい。呼ばれてるぞ」
園田が振り向き、目の前で手をひらひらとさせていた。ぼんやりと彷徨っていた意識が戻ってきて、ここが教室で今は授業中だと気付く。慌てて立ち上がると、教室中が笑いに包まれた。
「松原くん。心ここにあらず、という顔ですね」
歴史を担当する枯れ木のようにひょろりとした老教師は眼鏡を押し上げながら柔らかな声で咎めた。叱責された方がどれほど楽だったか。藤嗣は項垂れて謝罪を絞り出す。
「……すみません」
「まあ、そんな日もあるでしょう。勉学ばかりが学びではないからね。悩むことも大切です。どうですか、その悩みに答えは出ましたか」
開き直り、顔を上げた。
「いえ、答えに到るには容易ではありません」
「そうか、それはいいですね」
教師は呵々と笑った。
「いずれ答えは出ますよ。それが、明日か、一年後か。もしかすると十年かかるかもしれません。死ぬ間際に出る可能性だってある」
「死ぬ間際では困るでしょう」
級友が横から声を上げた。
「そりゃあ、今日の飯のおかずを何にするかくらいの悩みを死ぬ間際まで引き摺るのは困りますね。それまで何も食えんのですから」
教室内がどっと湧いた。
「だが、そんなのはすぐに決まるでしょう。失敗しても、少し気持ちが落ち込む程度だ。だが、世の中にあるのはそんな悩みばかりじゃない。答えが出る前に選択を迫られることもある。選んだ後で悩みが大きくなることもあるでしょうね」
「どうするんです?」
「それを、ここで学ぶんですよ。授業を聞いて欲しいのは山々ですが、それだけじゃない。君らはそのためにここに居るんですから」
それが少し、藤嗣の心を軽くした。悩むことは悪くない。
将来のための、今。だから藤嗣は大いに悩み、議論する。そして何らかの選択をする。それは間違いではないのだ。
