それから、二日ほど経ってからだ。黒田から再び手紙を託された。大きな身体を小さくし、恐縮しきっていた。
「松原、また頼まれてはくれないか」
「俺でよければ」
今の藤嗣にできるのはこれだろう。
日曜日になり、急ぎ電車に乗った。今度は遊廓の雰囲気にも多少は慣れ、見世にも迷わずに辿り着けた。見世の男は藤嗣の顔を覚えていた。
「おや、いらっしゃいませ」
ややばつが悪く、頭を掻きながら小花を指名すると、藤嗣の心情などお構いなしでにこやかに迎え入れてくれる。
「小花ですか。静かですが、いい女でしょう」
男衆は仕事柄仕方ないのかもしれないが、娼妓を物のように扱う。それはけっして気持ちのいいものではなかった。
通された座敷で、小花は藤嗣から渡された手紙を受け取り嬉しそうに読む。
微笑みを浮かべ、時折恥ずかしそうにするその姿は年頃の女性と変わらない。
「黒田さん、楽しそうにしているのね。ほら」
そう言って見せてくれた手紙には、ストームで上級生をやり込めたことが嬉々として書かれていた。黒田ならば負けはしないだろう。
「生き生きしていますよ、黒田さん」
「そう――それは、良かった」
小花は目を伏せて、手紙の文字を指先でなぞる。紙に残る黒田のぬくもりを探すように。
「松原さん、今日もお返事を頼まれてくださる?」
「喜んで」
小花は紙と硯箱を取り出し、文机に向かう。
「あっ」
そうして、思い出したように立ち上がると、箪笥の小さな引き出しから包みを取り出した。
「これ、お駄賃」
包みの中には饅頭がふたつ。
「子供じゃないんですから」
「待っている間に食べていて」
こんな所が次姉を思い出させた。
次姉は、藤嗣が買ってもらった本を読むとき、いつも菓子の包みを渡してくれた。
――はい、藤嗣さん。
そんなものいらない、と突き返しても次姉は無理やり押し付けた。
――これはお礼。
本は藤嗣のものだ。本来ならば、触れてはならないもの。それを、無理を言って貸してもらっているのだ、というのだ。次姉から貰う菓子は甘いはずなのに、どこかほろ苦くも感じられた。
藤嗣に背を向け、手紙を書く小花を眺めながら、貰った饅頭を頬張る。口の中に餡の甘さが、そして次姉のときと同じようなほろ苦さが広がった。
外は、昼間から客引きの声が賑やかだった。この座敷にだけ、平穏な時間が流れている。
「はい。これ、お願い」
「預かりました」
手紙を受け取ると、その平穏な時間も終わりを告げる。
「それでは、小花さん」
「ええ」
小花は手を振り、藤嗣を見送ってくれた。預かった手紙を黒田に渡すと、彼は涙を流さんばかりに喜んだ。
「ありがとう、松原。感謝する」
藤嗣は、そうやって日常と非日常を行き来している。
学校は平穏な時が流れていた。いつものように飛び交う挨拶。授業の用意をしている級友。窓から差し込む日の光。
だが、その日常にも多少の変化はある。冷やかしが加わったのだ。藤嗣の姿を見ると教室中がわっと湧いた。藤嗣の遊廓通いは噂の種になっているのだ。
「松原、昨日は遅かったなあ!」
「黒田さんは、ああ言っていたが。楽しんで来たのか?」
「千種がいるだろう、お前ってやつは――」
「ちゃんと千種に謝れよ!」
揶揄する声と口笛が響く。
「うるさいな。放っておけよ」
それらをかき分けながら席に着く。前の席の園田から小突かれ、顔を上げると少し離れた席から呆れた様子の千種と目が合う。声に出さず、口だけでばーか、と言っているのが見えた。
毎日のように手紙を届けたいけれど、小花に会うには金がいる。二人の恋は前途多難なのだ。
藤嗣は最初こそ二人の幸せな顔が見られればと思っていたが、日を重ねるにつれこれで良いのかと考えるようになっていた。
この手紙のやり取りはいつまで続けられるのだろうか。
有り金をかき集めても、ただ手紙を届けるだけ。触れるどころか顔を見ることも叶わない。
諦めるのが賢い選択だろう。それができれば、の話だ。
ならば、いっそのこと――。
「なあ、園田」
前の席に座る園田の背をつつく。
「どうした?」
身を乗り出し、声を潜めて訊ねる。
「娼妓の身請けには、どの位の金がいる」
手紙を届けるのはしばらく我慢して金を貯める。その金で身請け――つまり、金を払い年季が明ける前に稼業をやめさせてしまってはどうか。
ここしばらくの廓通いで、藤嗣にも多少の知識が付いた。中々良い案だと思うのだ。
それを聞いた園田はというと、勢い良く立ち上がった。困惑気味に藤嗣を見下ろすのだ。
「お前……本気なのか?」
しばらく待って、向けられたのは質問だった。回答ではない。
「冗談は言ってない」
「お前、身請けするってどういうことか分かってて言ってるんだよな」
園田は身を乗り出し藤嗣の肩を掴む。それを聞いた周りが、どうした、身請けするのか、とざわついた。せっかく声を潜めたのが台無しだ。それでも知りたいことだったから問い掛けには素直に答える。
「分かってるさ」
「そうか、そんなに惚れたのか」
「違う、断じて違う」
「本当か?」
「当たり前だ」
「なんだ、つまらん」
園田は座り直し続ける。
「いいか。身請けには相当な金が必要だ。親に言ってどうにかなる額じゃない」
その相当な金額というものがどれほどの額かを知りたいのだ。眉間に皺が寄る。
「俺は明確な金額が知りたいんだ」
園田は呆れ混じりに――藤嗣の突飛な質問に対してか、それとも世間を知らないと思ったのかは分からないが――答える。
「そりゃ、上から下まであるさ」
「上って、どのくらい」
「家が建つくらい」
「家……」
「じゃあ、下は」
「……学費数カ月分くらいか?」
小花はどうだろうか。どちらにしろ、数回手紙を届けるのを我慢してどうにかなる額ではない。それは分かった。
「身請けってのは娼妓の抱える借金を肩代わりすることだ。無茶だぞ」
「無茶か……」
そうきっぱりと言い切られてしまうとは思わなかった。藤嗣はどれほど世間を知らず、考えが甘かったのか思い知らされる。
娼妓の借金は次から次に膨れ上がり、とても返せる額ではないのだという。
「この際だからしっかり教えておいてやる」
園田は見世と娼妓がどんな関係なのかを順を追って教えてくれた。
「最初に、娼妓は見世から借金をする。それを家が貰う。その金は、借金の返済ですぐに消えてしまうんだ」
「安い金じゃないだろうに」
「それだけ借金があるんだよ。それで、娼妓はその金を返すために日々身を鬻ぐ。見世に住み込みで」
「帰れないのか?」
「当たり前だ。逃げられるかもしれないだろ」
なるほど、確かにと頷く。
「その間――見世に住み込みの間の衣食住は全て娼妓が持つ。金がなければ見世から借金、また借金を繰り返す。その借金に利子が付き、雪玉が転がるように膨れ上がる」
園田は両腕を広げ、身振りを交えて説明してみせた。
「金を全て返し終わらなければ年季は明けない。年季が明ける前に病に倒れる娼妓がほとんどだ」
売られてくるのは、貧農の娘がほとんどだという。徳川の頃には、大火で焼け死んだ娼妓が大勢出た。それでも、娼妓の立場は改善されることなく今に至るのだという。
理不尽なことだが、それが今の仕組みなのだと――園田は言った。
「どちらにしろ、親に頼んでどうにかなる金額じゃないからな」
馬鹿馬鹿しい考えは捨ててしまえと言外に匂わせていた。
「分かった、ありがとう」
礼を言って話を無理矢理切り上げる。教室はまだざわついていたが、藤嗣は再び考えに耽る。
身請けは無理だ。そして娼妓の年季が明けることもない。
小花が見世から出るための道は限られている。黒田に身請けをする金はない。だからこそ自由廃業をと申し出たのだが、それは失敗している。
これまで、娼妓という存在を全く認識していなかった。そういう存在があるとは知っていたが、藤嗣には関わりのないものだったのだ。
だが、小花という一人を見てしまってから、それはもうできなくなってしまった。
彼女は一人の女で、恋い慕う相手がいる。その相手もまた、見知らぬ誰かではなく黒田という同級生だ。そんな二人に、どうにかして幸せになって欲しい。そう願っても罰は当たらないはずだ。
頬杖をついてぼんやりと外を眺める。目に映るのはこれまでと変わらない景色だというのに、何かが歪に感じてしまうのだ。
「松原、また頼まれてはくれないか」
「俺でよければ」
今の藤嗣にできるのはこれだろう。
日曜日になり、急ぎ電車に乗った。今度は遊廓の雰囲気にも多少は慣れ、見世にも迷わずに辿り着けた。見世の男は藤嗣の顔を覚えていた。
「おや、いらっしゃいませ」
ややばつが悪く、頭を掻きながら小花を指名すると、藤嗣の心情などお構いなしでにこやかに迎え入れてくれる。
「小花ですか。静かですが、いい女でしょう」
男衆は仕事柄仕方ないのかもしれないが、娼妓を物のように扱う。それはけっして気持ちのいいものではなかった。
通された座敷で、小花は藤嗣から渡された手紙を受け取り嬉しそうに読む。
微笑みを浮かべ、時折恥ずかしそうにするその姿は年頃の女性と変わらない。
「黒田さん、楽しそうにしているのね。ほら」
そう言って見せてくれた手紙には、ストームで上級生をやり込めたことが嬉々として書かれていた。黒田ならば負けはしないだろう。
「生き生きしていますよ、黒田さん」
「そう――それは、良かった」
小花は目を伏せて、手紙の文字を指先でなぞる。紙に残る黒田のぬくもりを探すように。
「松原さん、今日もお返事を頼まれてくださる?」
「喜んで」
小花は紙と硯箱を取り出し、文机に向かう。
「あっ」
そうして、思い出したように立ち上がると、箪笥の小さな引き出しから包みを取り出した。
「これ、お駄賃」
包みの中には饅頭がふたつ。
「子供じゃないんですから」
「待っている間に食べていて」
こんな所が次姉を思い出させた。
次姉は、藤嗣が買ってもらった本を読むとき、いつも菓子の包みを渡してくれた。
――はい、藤嗣さん。
そんなものいらない、と突き返しても次姉は無理やり押し付けた。
――これはお礼。
本は藤嗣のものだ。本来ならば、触れてはならないもの。それを、無理を言って貸してもらっているのだ、というのだ。次姉から貰う菓子は甘いはずなのに、どこかほろ苦くも感じられた。
藤嗣に背を向け、手紙を書く小花を眺めながら、貰った饅頭を頬張る。口の中に餡の甘さが、そして次姉のときと同じようなほろ苦さが広がった。
外は、昼間から客引きの声が賑やかだった。この座敷にだけ、平穏な時間が流れている。
「はい。これ、お願い」
「預かりました」
手紙を受け取ると、その平穏な時間も終わりを告げる。
「それでは、小花さん」
「ええ」
小花は手を振り、藤嗣を見送ってくれた。預かった手紙を黒田に渡すと、彼は涙を流さんばかりに喜んだ。
「ありがとう、松原。感謝する」
藤嗣は、そうやって日常と非日常を行き来している。
学校は平穏な時が流れていた。いつものように飛び交う挨拶。授業の用意をしている級友。窓から差し込む日の光。
だが、その日常にも多少の変化はある。冷やかしが加わったのだ。藤嗣の姿を見ると教室中がわっと湧いた。藤嗣の遊廓通いは噂の種になっているのだ。
「松原、昨日は遅かったなあ!」
「黒田さんは、ああ言っていたが。楽しんで来たのか?」
「千種がいるだろう、お前ってやつは――」
「ちゃんと千種に謝れよ!」
揶揄する声と口笛が響く。
「うるさいな。放っておけよ」
それらをかき分けながら席に着く。前の席の園田から小突かれ、顔を上げると少し離れた席から呆れた様子の千種と目が合う。声に出さず、口だけでばーか、と言っているのが見えた。
毎日のように手紙を届けたいけれど、小花に会うには金がいる。二人の恋は前途多難なのだ。
藤嗣は最初こそ二人の幸せな顔が見られればと思っていたが、日を重ねるにつれこれで良いのかと考えるようになっていた。
この手紙のやり取りはいつまで続けられるのだろうか。
有り金をかき集めても、ただ手紙を届けるだけ。触れるどころか顔を見ることも叶わない。
諦めるのが賢い選択だろう。それができれば、の話だ。
ならば、いっそのこと――。
「なあ、園田」
前の席に座る園田の背をつつく。
「どうした?」
身を乗り出し、声を潜めて訊ねる。
「娼妓の身請けには、どの位の金がいる」
手紙を届けるのはしばらく我慢して金を貯める。その金で身請け――つまり、金を払い年季が明ける前に稼業をやめさせてしまってはどうか。
ここしばらくの廓通いで、藤嗣にも多少の知識が付いた。中々良い案だと思うのだ。
それを聞いた園田はというと、勢い良く立ち上がった。困惑気味に藤嗣を見下ろすのだ。
「お前……本気なのか?」
しばらく待って、向けられたのは質問だった。回答ではない。
「冗談は言ってない」
「お前、身請けするってどういうことか分かってて言ってるんだよな」
園田は身を乗り出し藤嗣の肩を掴む。それを聞いた周りが、どうした、身請けするのか、とざわついた。せっかく声を潜めたのが台無しだ。それでも知りたいことだったから問い掛けには素直に答える。
「分かってるさ」
「そうか、そんなに惚れたのか」
「違う、断じて違う」
「本当か?」
「当たり前だ」
「なんだ、つまらん」
園田は座り直し続ける。
「いいか。身請けには相当な金が必要だ。親に言ってどうにかなる額じゃない」
その相当な金額というものがどれほどの額かを知りたいのだ。眉間に皺が寄る。
「俺は明確な金額が知りたいんだ」
園田は呆れ混じりに――藤嗣の突飛な質問に対してか、それとも世間を知らないと思ったのかは分からないが――答える。
「そりゃ、上から下まであるさ」
「上って、どのくらい」
「家が建つくらい」
「家……」
「じゃあ、下は」
「……学費数カ月分くらいか?」
小花はどうだろうか。どちらにしろ、数回手紙を届けるのを我慢してどうにかなる額ではない。それは分かった。
「身請けってのは娼妓の抱える借金を肩代わりすることだ。無茶だぞ」
「無茶か……」
そうきっぱりと言い切られてしまうとは思わなかった。藤嗣はどれほど世間を知らず、考えが甘かったのか思い知らされる。
娼妓の借金は次から次に膨れ上がり、とても返せる額ではないのだという。
「この際だからしっかり教えておいてやる」
園田は見世と娼妓がどんな関係なのかを順を追って教えてくれた。
「最初に、娼妓は見世から借金をする。それを家が貰う。その金は、借金の返済ですぐに消えてしまうんだ」
「安い金じゃないだろうに」
「それだけ借金があるんだよ。それで、娼妓はその金を返すために日々身を鬻ぐ。見世に住み込みで」
「帰れないのか?」
「当たり前だ。逃げられるかもしれないだろ」
なるほど、確かにと頷く。
「その間――見世に住み込みの間の衣食住は全て娼妓が持つ。金がなければ見世から借金、また借金を繰り返す。その借金に利子が付き、雪玉が転がるように膨れ上がる」
園田は両腕を広げ、身振りを交えて説明してみせた。
「金を全て返し終わらなければ年季は明けない。年季が明ける前に病に倒れる娼妓がほとんどだ」
売られてくるのは、貧農の娘がほとんどだという。徳川の頃には、大火で焼け死んだ娼妓が大勢出た。それでも、娼妓の立場は改善されることなく今に至るのだという。
理不尽なことだが、それが今の仕組みなのだと――園田は言った。
「どちらにしろ、親に頼んでどうにかなる金額じゃないからな」
馬鹿馬鹿しい考えは捨ててしまえと言外に匂わせていた。
「分かった、ありがとう」
礼を言って話を無理矢理切り上げる。教室はまだざわついていたが、藤嗣は再び考えに耽る。
身請けは無理だ。そして娼妓の年季が明けることもない。
小花が見世から出るための道は限られている。黒田に身請けをする金はない。だからこそ自由廃業をと申し出たのだが、それは失敗している。
これまで、娼妓という存在を全く認識していなかった。そういう存在があるとは知っていたが、藤嗣には関わりのないものだったのだ。
だが、小花という一人を見てしまってから、それはもうできなくなってしまった。
彼女は一人の女で、恋い慕う相手がいる。その相手もまた、見知らぬ誰かではなく黒田という同級生だ。そんな二人に、どうにかして幸せになって欲しい。そう願っても罰は当たらないはずだ。
頬杖をついてぼんやりと外を眺める。目に映るのはこれまでと変わらない景色だというのに、何かが歪に感じてしまうのだ。
