電車を降りた時には寮の門限が目前に迫っていた。無限坂を夢中で駆け上り、寮の玄関に辿り着いた頃には膝が笑っていた。全身で息をしながら座り込む。

「おかえり」

 声を掛けられ顔を上げた。待っていたのは千種だった。それも寮の玄関の前で。腕を組み、退屈そうに玄関扉に身体を預けている。

「ま……待ってたのか」

 動悸を抑えながら、ようやくそれだけを返した。荒かった呼吸がようやく落ち着いてくる。千種はつんと澄ましていた。

「念友が遊廓に連れて行かれて、先に休んでいたらおかしいだろ」

 千種には何も言わずに出てきたのだ。それが、なぜ知っているのか。体中の血が逆流するような羞恥に襲われる。

「何で知ってるんだ、お前――!」

「黒田さんが断りに来た」

 早々に出てきた犯人の名に、開いた口が塞がらなかった。

「わざわざ土下座までされたよ、談話室で。使いに行ったんだってね」

「……ああ」

 それならば、もう明日には皆が知ることになっているだろう。黒田のことだから、千種への罪悪感で黙っておくことができなかったのだ。やはり、愚直な人間なのだ。良くも悪くも――と思いかけたが、自分の身に降りかかるとなると悪くも、としか思えない。小花も同じ気持ちだったのだろうと反省した。

 ただ、このことで文句を言ってくる者はいないはずだ。黒田が相手をしてくれる約束なのだから安心していい。黒田は愚直だ。だからこそ、一度決めたことは守ってくれるはずだという信頼感もあった。

 すぐに部屋に戻る気にもなれず、千種の隣に腰を下ろした。

「楽しかった?」

「……ちっとも」

「今日は使いだったから仕方ないか。いずれ、どこかに勤めるようになれば無理やりにでも連れて行かれるよ」

「面倒だな」

 千種と過ごす時間は静かでいい。周りからの冷やかしさえなければ。

 だが、同時に引っかかることがある。周りは藤嗣と千種が一緒にいることが当たり前だと見る。それなのに、好き合っている黒田と小花は一緒にはいられない。

「おかしいよな」

「何が」

「俺たちは一緒に居るのが当たり前と見られてるのに、黒田さんは小花さんと……好いた相手と一緒に居られないんだ」

 よほど互いのことを思いやっているのに。

「そういうものだよ。君が落ち込むことじゃない」

 そうなのだろう。藤嗣があれこれと思い悩んでも、どうなることでもない。

 けれど、小花の寂しそうな顔が忘れられないのだ。千種のようには割り切れない。

「藤嗣は優しいね」

「……馬鹿にしてるのか」

「まさか。僕なら黒田さんの頼みなんて断ってたからね。それを引き受ける藤嗣は優しいよ」

 そこには取引があったのだけれど。それを言っても、千種は優しいと言うだろうか。

 部屋に戻る前に黒田の許に立ち寄ろうとしたが、千種に止められた。

「あっちはそろそろストームが始まるから、巻き込まれるよ」

 なるほど、と納得した後で、ならばこちらの――藤嗣の寝起きする東寮もストームが始まるのではないかと気付く。

「こっちも騒がしくなるだろ」

「東寮は、今日のストームはなし」

 きっぱりと言い切られたことに驚く。

「念友が遊廓に行って寂しがっている女王様への気遣いだよ」

 思わず溜息が漏れて、何も言い返せなかった。門限だぞ、と中から声を掛けられ、連れ立って部屋へ戻る。

 千種が言った通り、数十分もしないうちにけたたましい音が東寮まで届いてきた。藤嗣は寝間着に着替えて布団に潜り込む。

 まだ微かに白粉の匂いが残っていた。あの部屋でのやりとりが鮮明に蘇ってくる。

 小花は今も客を取っているのだろう。黒田を想いながら――もしくは、あえて忘れて。あの小さな身体で懸命に耐えているのだ。

 黒田もまた、それを承知している。だから決して小花に手を出さない藤嗣を使いに選んだのだ。

 藤嗣が考えることではないと千種は言っていた。ならば放っておく――とは藤嗣にはできない。黒田は義理堅く、細やかな人物だ。藤嗣だけでなく千種にまで気を遣っている。

 だから、力になれることを見付けて協力したい。心からそう思うのだ。始まりは単なる取引だったけれど。



 翌朝、黒田は寮から校舎へと続く廊下で待っていた。他の学生たちが何事かと向ける視線に怯むこともない。藤嗣の姿を見付けると、手を上げて存在を伝えた。

「松原、昨日は世話になった」

 そして律儀に頭を下げる。こちらが恐縮してしまうほどに。

「すいません。昨日のうちに報告するべきだったのに」

 そう謝ると、ぐっと手を出してそれ以上の謝罪を押し止める。

「いいや、いいんだ。俺が無理を言って頼んだんだからな」

 寮生たちが次々に校舎へと向かう。ちらちらと視線を向けられたが、妙な冷やかしはなかった。

 周りに誰も居なくなってから、先に口を開いたのは黒田からだった。

「それで……その、小花は元気そうだったか?」

 ずっと気がかりだったのだ。答えを急いているのが伝わってくる。

「元気そうでした。俺が見る限りは」

 大きな身体が萎んでしまうかと思うほど深く息をついて、安堵の言葉を漏らした。

「そうか、良かった……」

 姿を見ていないのに、藤嗣のその一言にそれほど安心してしまう。黒田がどれほど小花を案じ、そして想っているのかを見せられた気がした。

 藤嗣は懐に仕舞い込んでいた便箋を取り出す。

「あの、手紙。小花さんから預かってきた」

 黒田は想像もしていなかったのだろう。目を丸くし、手紙と藤嗣とを見比べた後で無骨な手でそっと受け取った。

 そして、中身に目を通す。大切そうに一文字一文字を読んでいるのが分かった。最後まで読み終えて、黒田は言う。手紙はそっと、学生服の懐に仕舞われた。

「ありがとう……松原」

 黒田はそう言って、深々と頭を下げた。

「何度も諦めようと思ったんだが。……恥ずかしいことだ」

 あの手紙を書くまでに、黒田の中にも多くの葛藤があったのだ。諦めようと努めて、けれどそれができずに悩み、藤嗣に頭を下げるに至ったのだろう。

「黒田さん。俺にできることがあれば、何でもする」

 力になりたいと思う。それが藤嗣の身勝手な思いかもしれなくとも。黒田は嬉しそうに笑い、藤嗣の手を掴み強く握り締めたのだった。