黒田とはそれから念入りに打ち合わせをした。小花とは自由廃業させようとした一件以来会っていないのだという。
「優しい女なのだ……」
黒田はしみじみと語った。
「初めは、女になど興味はなかったのだ、けっして。だが、時を重ねるたびに――」
「惚れた、と」
「いや、そう包み隠さず言うものではない……」
黒田は恥ずかしそうに縮こまる。
「では、惚れてはいない、と?」
「いや、そういう訳では、ない」
惚れているのだ。
強面の――女とは無縁とも思える黒田が、そこまで熱を上げる娼妓とはどんな人物なのだろう。
「や、優しいだけではないぞ」
「そうなのか」
「頑固な所もあるのだ」
少し照れくさそうに、そうも言った。頑固というからには芯が強いのだろう。無理を言って女学校に進学した次姉を思わせた。
「日曜の、昼過ぎから出ると良い。門限までには戻れる」
「約束通り、小花さんに届けるよ」
黒田が面倒を引き受けてくれたこともあるが、それ以上に――小花について話す彼がとても嬉しそうで、だからその願いを叶えてやりたいと思うのだ。
日曜日の昼過ぎ、念のために身だしなみを整えていると横から千種が覗き込んできた。
「どこか出かけるの」
「ちょっとな」
「僕も行こうか?」
「来るな」
今日は一緒に行く場所ではない。友人ならば連れだって――ということもあるけれど、一応は念友なのだ。二人で行くべきではない。何より金は一人分しかないのだ。
「冗談だよ。たまには別々に過ごすのも良いね」
言うべきなのだろうか、と思ったが、しかし何から何まで千種に報告するのも妙だ。
「じゃあな、出かけてくる」
そう挨拶をして寮を出た。
寮から品川までの道程は黒田が書いてくれた。どこで電車に乗り、降りるか。そして降りてからも。だから迷うことなく門の前に辿り着けた。
品川遊廓は海に面していた。時折香る海の匂いに懐かしさを覚える。
「そういえば……」
姉たちはどうしているだろう。長姉からも手紙は届いたが、まだ返事を書いていなかった。
――頑張って勉強に集中なさい。
――跡継ぎはあなたなのですから。
長姉もまた、家に縛られて生きている。
そんな姉たちの不幸と、これから会いに行く小花という娼妓の不幸。どちらがより重いのだろう。姉たちも自由がないとはいえ、一般の家庭で暮らせている。一方、小花は――。
そこまで考え、藤嗣は頭を振った。
どちらがより不幸かなど考えるのも馬鹿馬鹿しい。自由を謳歌している藤嗣が優劣を付けるなど、おこがましいではないか。高等学校にいる藤嗣が、彼女たちの境遇を変えるために学ばせてもらっているのだ。
――考えること、それが最大の学びだ。
入寮式の日に聞いた、あの言葉を思い出す。そして、襟を正し遊廓へと足を進めた。
女きょうだいの中で育ったから、遊廓だろうと気後れするようなことはないと思っていたが、そんな考えは一気に吹き飛んだ。
むせ返るような白粉の匂い。二階から楽しげに見下ろす女たち。掛けられる声は艶めかしく、姉たちとは全く違う。さらには見世は決まっているのかと客引きに来る男衆。それらを躱しながら、黒田に言われた見世、三松屋を探す。
「く、黒田さんの地図……」
頼みの綱である地図を懐から出す。しかし、そこに書かれていたのは、雑で――いや、男らしい簡易地図。線が一本引かれ、丸印が書かれている。
通りを真っ直ぐに進む。その突き当たりにあるのだと言っていた。二階建ての建物で、大きな看板が掲げられているから分かるはずだ、ということだ。
廓の入り口、大門を潜ってから奥に向かうにつれ建物は徐々にきらびやかな造りになってゆく。
「学生さぁん、どお?」
「うふふ、日の高いうちからお楽しみかしら?」
二階から、艶めいた声が降ってくる。視線を上げては捕まってしまう、そんな気がして聞こえないふりをして足早に通り過ぎる。
「うぶねえ」
「かわいらしいこと!」
からかうような声が、背中を擽った。目的の見世は決まっているのだ。急がなくては。
果たしてその三松屋に辿り着いたのだが――藤嗣は尻込みする。
「ここ――は……」
見世は廓の一番奥にあった。街の一角を占有する大店なのだ。藤嗣のような学生風情が来るような場ではない。
今すぐにでも回れ右をして帰ってしまいたかった。じりじりと後退りしそうになる気持ちを勇気付けるために懐を探る。仕舞っている、黒田から預かった手紙。これを届けるのが今日の使命。逃げるなどもってのほか。
「おや、学生さん。お店はお決まりですか」
だから客引きの男から声を掛けられたのは、運が良かった。入りたくても、あと一歩の勇気が出せないのだと思ったのだろう。
「どうです、お安くいたしますよ」
これは自分で暖簾を潜るよりも入りやすい。
「じゃあ、ここにしようかな……」
わざとらしい演技をしながら、目的の見世へと足を踏み入れた。
暖簾をくぐった先は別世界だった。寮の部屋の倍はありそうな広い玄関には下足番がいた。靴を脱ぐよう促され、それに従う。脱いだ靴は下足箱へ。その一連の案内にひとつも無駄はなかった。
「初めてでしょう。ささ、こちらへ」
そう言いながら通されたのは、左手にある少し高く舞台のようになった場所だ。そこにはずらりと写真が並んでいる。どの写真もきれいに着飾り、美しい女性たちが写っている。微笑んでいる人もいれば、きりりと引き締まった表情のひともいる。
この見世の娼妓たちなのだ。写真の横には名前が貼り出されている。
「うちの見世で一番の人気が東雲ですね。こちらの駒野も学生さんにはぴったりかと思いますよ」
男の言葉を聞き流しながら、黒田に言われた娼妓を探す。
小花。
その遊女の写真は、名前の通りひっそりと片隅に置かれていた。派手な写真が並ぶ中で、彼女だけは静かにこちらを見て佇んでいる。黒田が会いたがっている、娼妓。
「この、小花さんを」
初めから決まっていたのに、さも写真を見て惹かれた風を装って指名する。不審に思われないか、断られはしないか、気が気でなかった。だが男衆は快く藤嗣の指名を受け入れてくれる。
「小花ですね。承知いたしました。どうぞこちらに」
右手に中庭を見ながら、待合室に通される。この建物は庭を中心にしてロの字の形に造られているようだ。
その待合室だが、藤嗣の口はぽかんと開いたまましばらく塞がらなかった。柱には彫刻が施され、壁には天女が舞っている。とりあえずと用意されている椅子に腰掛け息をつくと、天井から視線を感じた。見上げてみると、龍が睨みをきかせている。豪奢な造りに目眩を起こしそうになった頃、小花が現れた。
「お待たせいたしました」
写真の通りの儚げな女だった。眉尻が下がり、伏せた目許は大人しげというよりも淋しげだ。首は今にも折れてしまいそうに細く、紅が乗った小さな唇から溢れる声音は弱々しい。けれどしっかりと耳に残る。頑固だと黒田は言ったが、そんな雰囲気は少しも感じられない。黒田の話から思い描いていた姿との違いを照らし合わせるように小花を見ていると、彼女は細い首を傾げて藤嗣を覗き込む。
「あの、どうなさいました?」
その声に我に返り、慌てて首を振った。
「いえ、その、気になさらないでください」
それを見た小花は、くすくすと笑い声を零した。心地良い声だ。
「さ、まいりましょう」
藤嗣の手に触れたのは、柔らかな指先だ。黒田の忠告を思い出し、慌てて引っ込める。
指一本触れるな。
これは触れたうちに入るのだろうか。小花は目を丸くし、だがそれ以上無理に触れようとはしなかった。
「こちらへ」
先を歩く小花について階段を上る。壁には東海道の宿場町のような絵が描かれていた。登り切った先を左に曲がり、小さな庇がついた部屋に通される。
そこは六畳ほどの部屋だった。真っ先に目に飛び込んできたのは、天井にはめ込まれた彫刻だった。流れる川、そしてその上を飛ぶ鳥がのびのびと、だが細やかに彫られている。
これまで見たことのない造りにしきりに溜息をもらしていた藤嗣だが、その視線が足下に至り、ここがどういう場所であったかを思いだした。
柔らかそうな布団が延べてあったのである。
「――ひっ!」
後退ると、障子ががたりと音を立てた。さらにはこれまで気付かなかったが、他の座敷の声が聞こえるではないか。
それは男女が睦み合う声。艶っぽく、そして理性を失ったような――乱れた吐息。
遊廓とはこういう場所なのだ。更には小花が布団のそばで帯を解こうとしている。
「ちょ……ちょっと! それはちょっと! 待ってください!」
とっさに手首を掴んで止めた後、急いで手を離し距離を取る。藤嗣の目的など知らない小花は首を傾げた。
「先にお酒がよろしかった?」
「いや、酒もいりません」
「でしたら――」
何を目的にして来たのか。小花には不思議だろう。
「とりあえず、あの、座ってください」
促すと、小花はやはり不思議そうなまま布団の上に正座をした。藤嗣もその向かいに正座をする。深く深呼吸をし、気持ちを落ち着けた。膝の上に握りしめた拳を置き、少し前のめりになりながらここに来た目的を切り出した。
「俺は、黒田さんに言われて来ました」
その名を聞いて、小花の表情が強張る。そして、畳の上に身を引くと、小さな身体をさらに小さくし、畳に額を擦り付けた。
「申し訳ありません。もう、あれからお会いしてはいないのです。どうぞ――」
藤嗣の訪問が、邪魔をせぬように言ってきたと思ったのか。謝罪の声は震えていた。
「小花さん、頭を上げてください」
「申し訳ありません。申し訳ありません……」
恐る恐る顔を上げたが、しかしその表情は怯えていた。
「違うんです、聞いてください」
「違う、とは……」
「黒田さんから手紙を預かってきました。あなた宛です」
懐から取り出した手紙を渡す。黒田の無骨な文字で書かれた宛名を見て、小花の表情はさらに悲しさを増した。彼女はじっと手紙を見詰めたまま動かなかった。いや、動けなかったのか。
「読んであげてください」
震える細い指が封を切った。
小花が手紙を読む間、聞こえてくるのは他の部屋の猥雑な物音だった。この部屋だけが静かで、妙な心地だった。藤嗣は耐えられず立ち上がり、障子窓を開ける。その先には海が広がっていて、行き交う船が見えた。どれくらいそうしていただろう。
「ありがとうございます」
小花の声を聞き、振り返る。彼女は手紙を大切そうに胸に抱きしめていた。
どんな内容が書かれていたのかは分からない。しかし、彼女に指一本触れるなと言った黒田は今でも好意を抱いている。手紙にはその想いが綴られているのだろうとは容易に察せられた。
「元気にしていらっしゃるの?」
少し申し訳なさそうな、頼りない声音だった。藤嗣はすぐさま頷く。
「はい。元気ですよ」
「そう……それは良かった」
浮かべた表情は心から嬉しそうに、少し寂しそうに見えた。小花はぽつりと話し始める。
「あの人……」
それは黒田を指しているのだとすぐに分かった。そして、その時を思い出したようにくすりと笑った。
「初めて見世に上がった時、私になんて言ったと思います?」
小花のことを話す様子は照れくさそうで、嬉しそうだった。けれど、そんな彼が女性と二人きりになる光景を思い浮かべるのは難しい。まして、話しかけるなど。
「さあ……難しいですね」
首を傾げる藤嗣に、小花はそっと秘密を打ち明けるように声をひそめて教えてくれる。
「綺麗な着物着て飯を食って男に抱かれるなんて楽な仕事だ、ですって」
「それは――……」
ひどすぎる。苦労を分かっていないにもほどがある。娼妓をほとんど知らない藤嗣ですら、彼女たちの境遇に思いを寄せることはできるのに。だが、黒田なら言いかねないとも思う。良くも悪くも愚直な人物なのだ。
「そのうえ、女工の苦労を切々と語るんです」
その時の様子を思い浮かべてみる。部屋はここだったのだろうか。小花と、向かい合う黒田。あの声で切々と説教する。相手がどう思うかよりも先に、自分の思いを伝えるのを優先して。
「さすがに腹が立って、言い返しました。娼妓なんて外にも出られないから囚人と変わらないんだって。囚人なんだから、どんな綺麗な着物を着てようが嬉しくも何ともない。それに男に抱かれるのが楽? 好きでもない男は畜生も同じだ、そんなのに抱かれて悦ぶ人が居ると思うのかって」
静かに語られる、昔の出来事。その時は腹が立って仕方がなかったのだろう。今では懐かしそうに笑い声混じりだったが。
「黒田さんは、なんと?」
「鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていました。言い返されるなんて思わなかったんでしょうね」
その姿を思い描いて――藤嗣も笑ってしまった。
「その日は黙って帰っていきました。もう来ないだろうと思っていたら、何日かしてまた来たんです。馬鹿にするなと言って乗り込んできたのかと、慌ててしまって」
「そしたら?」
「申し訳ないって頭下げるんです。私に」
黒田らしい。何が悪かったのか、自分の発言を振り返り、非があると認めたのだろう。そのままにしていられず、また会いに訪れたのだ。謝るために。
「自分は親の金で学ばせてもらっている、そんな人間が人様に説教など思い上がったことをしてしまったって言うんです。私、びっくりしてしまって」
それは、小花にとっても懐かしい思い出なのだ。声音に交じるのは楽しげな色。
「それから、時々来るようになりました。話だけして帰るんですよ」
指一本触れなかったのだ、黒田は。
「物理の話をされても、少しも分からなかったけれど」
ある日、学生の身分でどこにそんな金があるのかと小花は訊ねたという。すると、ここに通うために身の回りのものを質に入れたという。そして、田舎からの仕送りもつぎ込んだのだと。
そう語る小花は悲しそうだった。黒田が来ることは、決して嬉しいだけではなかったのだ。
「ごめんなさい、こんな話をしてしまって。つまらなかったでしょう」
話はそこで打ち切られる。藤嗣はいえ、と小さな言葉を添えて首を振った。
そして小花は申し訳なさそうに切り出す。
「ひとつ、頼まれて下さいますか?」
「俺で良ければ、いくらでも」
「優しい女なのだ……」
黒田はしみじみと語った。
「初めは、女になど興味はなかったのだ、けっして。だが、時を重ねるたびに――」
「惚れた、と」
「いや、そう包み隠さず言うものではない……」
黒田は恥ずかしそうに縮こまる。
「では、惚れてはいない、と?」
「いや、そういう訳では、ない」
惚れているのだ。
強面の――女とは無縁とも思える黒田が、そこまで熱を上げる娼妓とはどんな人物なのだろう。
「や、優しいだけではないぞ」
「そうなのか」
「頑固な所もあるのだ」
少し照れくさそうに、そうも言った。頑固というからには芯が強いのだろう。無理を言って女学校に進学した次姉を思わせた。
「日曜の、昼過ぎから出ると良い。門限までには戻れる」
「約束通り、小花さんに届けるよ」
黒田が面倒を引き受けてくれたこともあるが、それ以上に――小花について話す彼がとても嬉しそうで、だからその願いを叶えてやりたいと思うのだ。
日曜日の昼過ぎ、念のために身だしなみを整えていると横から千種が覗き込んできた。
「どこか出かけるの」
「ちょっとな」
「僕も行こうか?」
「来るな」
今日は一緒に行く場所ではない。友人ならば連れだって――ということもあるけれど、一応は念友なのだ。二人で行くべきではない。何より金は一人分しかないのだ。
「冗談だよ。たまには別々に過ごすのも良いね」
言うべきなのだろうか、と思ったが、しかし何から何まで千種に報告するのも妙だ。
「じゃあな、出かけてくる」
そう挨拶をして寮を出た。
寮から品川までの道程は黒田が書いてくれた。どこで電車に乗り、降りるか。そして降りてからも。だから迷うことなく門の前に辿り着けた。
品川遊廓は海に面していた。時折香る海の匂いに懐かしさを覚える。
「そういえば……」
姉たちはどうしているだろう。長姉からも手紙は届いたが、まだ返事を書いていなかった。
――頑張って勉強に集中なさい。
――跡継ぎはあなたなのですから。
長姉もまた、家に縛られて生きている。
そんな姉たちの不幸と、これから会いに行く小花という娼妓の不幸。どちらがより重いのだろう。姉たちも自由がないとはいえ、一般の家庭で暮らせている。一方、小花は――。
そこまで考え、藤嗣は頭を振った。
どちらがより不幸かなど考えるのも馬鹿馬鹿しい。自由を謳歌している藤嗣が優劣を付けるなど、おこがましいではないか。高等学校にいる藤嗣が、彼女たちの境遇を変えるために学ばせてもらっているのだ。
――考えること、それが最大の学びだ。
入寮式の日に聞いた、あの言葉を思い出す。そして、襟を正し遊廓へと足を進めた。
女きょうだいの中で育ったから、遊廓だろうと気後れするようなことはないと思っていたが、そんな考えは一気に吹き飛んだ。
むせ返るような白粉の匂い。二階から楽しげに見下ろす女たち。掛けられる声は艶めかしく、姉たちとは全く違う。さらには見世は決まっているのかと客引きに来る男衆。それらを躱しながら、黒田に言われた見世、三松屋を探す。
「く、黒田さんの地図……」
頼みの綱である地図を懐から出す。しかし、そこに書かれていたのは、雑で――いや、男らしい簡易地図。線が一本引かれ、丸印が書かれている。
通りを真っ直ぐに進む。その突き当たりにあるのだと言っていた。二階建ての建物で、大きな看板が掲げられているから分かるはずだ、ということだ。
廓の入り口、大門を潜ってから奥に向かうにつれ建物は徐々にきらびやかな造りになってゆく。
「学生さぁん、どお?」
「うふふ、日の高いうちからお楽しみかしら?」
二階から、艶めいた声が降ってくる。視線を上げては捕まってしまう、そんな気がして聞こえないふりをして足早に通り過ぎる。
「うぶねえ」
「かわいらしいこと!」
からかうような声が、背中を擽った。目的の見世は決まっているのだ。急がなくては。
果たしてその三松屋に辿り着いたのだが――藤嗣は尻込みする。
「ここ――は……」
見世は廓の一番奥にあった。街の一角を占有する大店なのだ。藤嗣のような学生風情が来るような場ではない。
今すぐにでも回れ右をして帰ってしまいたかった。じりじりと後退りしそうになる気持ちを勇気付けるために懐を探る。仕舞っている、黒田から預かった手紙。これを届けるのが今日の使命。逃げるなどもってのほか。
「おや、学生さん。お店はお決まりですか」
だから客引きの男から声を掛けられたのは、運が良かった。入りたくても、あと一歩の勇気が出せないのだと思ったのだろう。
「どうです、お安くいたしますよ」
これは自分で暖簾を潜るよりも入りやすい。
「じゃあ、ここにしようかな……」
わざとらしい演技をしながら、目的の見世へと足を踏み入れた。
暖簾をくぐった先は別世界だった。寮の部屋の倍はありそうな広い玄関には下足番がいた。靴を脱ぐよう促され、それに従う。脱いだ靴は下足箱へ。その一連の案内にひとつも無駄はなかった。
「初めてでしょう。ささ、こちらへ」
そう言いながら通されたのは、左手にある少し高く舞台のようになった場所だ。そこにはずらりと写真が並んでいる。どの写真もきれいに着飾り、美しい女性たちが写っている。微笑んでいる人もいれば、きりりと引き締まった表情のひともいる。
この見世の娼妓たちなのだ。写真の横には名前が貼り出されている。
「うちの見世で一番の人気が東雲ですね。こちらの駒野も学生さんにはぴったりかと思いますよ」
男の言葉を聞き流しながら、黒田に言われた娼妓を探す。
小花。
その遊女の写真は、名前の通りひっそりと片隅に置かれていた。派手な写真が並ぶ中で、彼女だけは静かにこちらを見て佇んでいる。黒田が会いたがっている、娼妓。
「この、小花さんを」
初めから決まっていたのに、さも写真を見て惹かれた風を装って指名する。不審に思われないか、断られはしないか、気が気でなかった。だが男衆は快く藤嗣の指名を受け入れてくれる。
「小花ですね。承知いたしました。どうぞこちらに」
右手に中庭を見ながら、待合室に通される。この建物は庭を中心にしてロの字の形に造られているようだ。
その待合室だが、藤嗣の口はぽかんと開いたまましばらく塞がらなかった。柱には彫刻が施され、壁には天女が舞っている。とりあえずと用意されている椅子に腰掛け息をつくと、天井から視線を感じた。見上げてみると、龍が睨みをきかせている。豪奢な造りに目眩を起こしそうになった頃、小花が現れた。
「お待たせいたしました」
写真の通りの儚げな女だった。眉尻が下がり、伏せた目許は大人しげというよりも淋しげだ。首は今にも折れてしまいそうに細く、紅が乗った小さな唇から溢れる声音は弱々しい。けれどしっかりと耳に残る。頑固だと黒田は言ったが、そんな雰囲気は少しも感じられない。黒田の話から思い描いていた姿との違いを照らし合わせるように小花を見ていると、彼女は細い首を傾げて藤嗣を覗き込む。
「あの、どうなさいました?」
その声に我に返り、慌てて首を振った。
「いえ、その、気になさらないでください」
それを見た小花は、くすくすと笑い声を零した。心地良い声だ。
「さ、まいりましょう」
藤嗣の手に触れたのは、柔らかな指先だ。黒田の忠告を思い出し、慌てて引っ込める。
指一本触れるな。
これは触れたうちに入るのだろうか。小花は目を丸くし、だがそれ以上無理に触れようとはしなかった。
「こちらへ」
先を歩く小花について階段を上る。壁には東海道の宿場町のような絵が描かれていた。登り切った先を左に曲がり、小さな庇がついた部屋に通される。
そこは六畳ほどの部屋だった。真っ先に目に飛び込んできたのは、天井にはめ込まれた彫刻だった。流れる川、そしてその上を飛ぶ鳥がのびのびと、だが細やかに彫られている。
これまで見たことのない造りにしきりに溜息をもらしていた藤嗣だが、その視線が足下に至り、ここがどういう場所であったかを思いだした。
柔らかそうな布団が延べてあったのである。
「――ひっ!」
後退ると、障子ががたりと音を立てた。さらにはこれまで気付かなかったが、他の座敷の声が聞こえるではないか。
それは男女が睦み合う声。艶っぽく、そして理性を失ったような――乱れた吐息。
遊廓とはこういう場所なのだ。更には小花が布団のそばで帯を解こうとしている。
「ちょ……ちょっと! それはちょっと! 待ってください!」
とっさに手首を掴んで止めた後、急いで手を離し距離を取る。藤嗣の目的など知らない小花は首を傾げた。
「先にお酒がよろしかった?」
「いや、酒もいりません」
「でしたら――」
何を目的にして来たのか。小花には不思議だろう。
「とりあえず、あの、座ってください」
促すと、小花はやはり不思議そうなまま布団の上に正座をした。藤嗣もその向かいに正座をする。深く深呼吸をし、気持ちを落ち着けた。膝の上に握りしめた拳を置き、少し前のめりになりながらここに来た目的を切り出した。
「俺は、黒田さんに言われて来ました」
その名を聞いて、小花の表情が強張る。そして、畳の上に身を引くと、小さな身体をさらに小さくし、畳に額を擦り付けた。
「申し訳ありません。もう、あれからお会いしてはいないのです。どうぞ――」
藤嗣の訪問が、邪魔をせぬように言ってきたと思ったのか。謝罪の声は震えていた。
「小花さん、頭を上げてください」
「申し訳ありません。申し訳ありません……」
恐る恐る顔を上げたが、しかしその表情は怯えていた。
「違うんです、聞いてください」
「違う、とは……」
「黒田さんから手紙を預かってきました。あなた宛です」
懐から取り出した手紙を渡す。黒田の無骨な文字で書かれた宛名を見て、小花の表情はさらに悲しさを増した。彼女はじっと手紙を見詰めたまま動かなかった。いや、動けなかったのか。
「読んであげてください」
震える細い指が封を切った。
小花が手紙を読む間、聞こえてくるのは他の部屋の猥雑な物音だった。この部屋だけが静かで、妙な心地だった。藤嗣は耐えられず立ち上がり、障子窓を開ける。その先には海が広がっていて、行き交う船が見えた。どれくらいそうしていただろう。
「ありがとうございます」
小花の声を聞き、振り返る。彼女は手紙を大切そうに胸に抱きしめていた。
どんな内容が書かれていたのかは分からない。しかし、彼女に指一本触れるなと言った黒田は今でも好意を抱いている。手紙にはその想いが綴られているのだろうとは容易に察せられた。
「元気にしていらっしゃるの?」
少し申し訳なさそうな、頼りない声音だった。藤嗣はすぐさま頷く。
「はい。元気ですよ」
「そう……それは良かった」
浮かべた表情は心から嬉しそうに、少し寂しそうに見えた。小花はぽつりと話し始める。
「あの人……」
それは黒田を指しているのだとすぐに分かった。そして、その時を思い出したようにくすりと笑った。
「初めて見世に上がった時、私になんて言ったと思います?」
小花のことを話す様子は照れくさそうで、嬉しそうだった。けれど、そんな彼が女性と二人きりになる光景を思い浮かべるのは難しい。まして、話しかけるなど。
「さあ……難しいですね」
首を傾げる藤嗣に、小花はそっと秘密を打ち明けるように声をひそめて教えてくれる。
「綺麗な着物着て飯を食って男に抱かれるなんて楽な仕事だ、ですって」
「それは――……」
ひどすぎる。苦労を分かっていないにもほどがある。娼妓をほとんど知らない藤嗣ですら、彼女たちの境遇に思いを寄せることはできるのに。だが、黒田なら言いかねないとも思う。良くも悪くも愚直な人物なのだ。
「そのうえ、女工の苦労を切々と語るんです」
その時の様子を思い浮かべてみる。部屋はここだったのだろうか。小花と、向かい合う黒田。あの声で切々と説教する。相手がどう思うかよりも先に、自分の思いを伝えるのを優先して。
「さすがに腹が立って、言い返しました。娼妓なんて外にも出られないから囚人と変わらないんだって。囚人なんだから、どんな綺麗な着物を着てようが嬉しくも何ともない。それに男に抱かれるのが楽? 好きでもない男は畜生も同じだ、そんなのに抱かれて悦ぶ人が居ると思うのかって」
静かに語られる、昔の出来事。その時は腹が立って仕方がなかったのだろう。今では懐かしそうに笑い声混じりだったが。
「黒田さんは、なんと?」
「鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていました。言い返されるなんて思わなかったんでしょうね」
その姿を思い描いて――藤嗣も笑ってしまった。
「その日は黙って帰っていきました。もう来ないだろうと思っていたら、何日かしてまた来たんです。馬鹿にするなと言って乗り込んできたのかと、慌ててしまって」
「そしたら?」
「申し訳ないって頭下げるんです。私に」
黒田らしい。何が悪かったのか、自分の発言を振り返り、非があると認めたのだろう。そのままにしていられず、また会いに訪れたのだ。謝るために。
「自分は親の金で学ばせてもらっている、そんな人間が人様に説教など思い上がったことをしてしまったって言うんです。私、びっくりしてしまって」
それは、小花にとっても懐かしい思い出なのだ。声音に交じるのは楽しげな色。
「それから、時々来るようになりました。話だけして帰るんですよ」
指一本触れなかったのだ、黒田は。
「物理の話をされても、少しも分からなかったけれど」
ある日、学生の身分でどこにそんな金があるのかと小花は訊ねたという。すると、ここに通うために身の回りのものを質に入れたという。そして、田舎からの仕送りもつぎ込んだのだと。
そう語る小花は悲しそうだった。黒田が来ることは、決して嬉しいだけではなかったのだ。
「ごめんなさい、こんな話をしてしまって。つまらなかったでしょう」
話はそこで打ち切られる。藤嗣はいえ、と小さな言葉を添えて首を振った。
そして小花は申し訳なさそうに切り出す。
「ひとつ、頼まれて下さいますか?」
「俺で良ければ、いくらでも」
