若葉のころを君と駆ける

 授業を終えて、藤嗣は深いため息をついて机に突っ伏した。前の席の園田が振り返るのが分かる。

「ストームどころじゃないな、大将」

 そう、ここ数日ストームは行われていなかった。もし行われていても、藤嗣への集中砲火は免れなかったろう。返事もできない藤嗣に、園田はのんびりと続ける。

「今日は誰も来なけりゃ良いな」

 呼び出しに次ぐ呼び出しで、心身の疲れは溜まる一方だ。

 さらに言うと、自習室でも食堂でも千種が隣にいる。千種については構わないのだが、周りからの視線が刺さるのだ。息苦しくて仕方がない。煩わしさから逃げ出したくて、藤嗣はがばりと身体を起こす。

「今晩、だるま屋に行こう」

 気分転換したかった。園田は乗ってくれるだろうと思ったが、返事は非情なものだ。

「今日はだめだろ」

「どうして」

 食い下がるが、園田は手元に本を引き寄せて読みさしの頁を開く。手元に目を落としながら藤嗣がすっかりと忘れていることを告げた。

「会合の日だ」

 そういえばそうだった、と思い出す。

 会合――寮の運営についての話し合いである。寮の自治は学生に任されている。何から何まで好きにしていい、ただし責任は自分たちで負うこと。会合はそのために欠かせない。談話室に集まり、侃々諤々の議論が交わされるのだ。定期的に開かれる時もあれば、問題が発生して急遽開かれる時もある。

 議題は多岐にわたる。食堂の献立について、自習室の利用について、近頃の風紀について――等々。

 今日は定期的な会合だ。

「何の議題だったか」

「山羊を飼うか否かについて」

「山羊……」

 山羊がいれば乳が搾られる、と誰かが言い出して今回の議題になったのだった。

 山羊なあ、と呟いてみたが寮の近くに山羊が放し飼いにされている光景を想像しようとして――できなかった。

 思い描いていた高等学校の生活はこんなものではなかったはずなのに。ここまで踏み込んでしまっては、もう腹を括るしかないのかもしれない。次の日も、また次の日も呼び出しは増えていった。中庭から教室を見ると、楽しそうに見物する千種の姿があり、藤嗣の中に何とも消化しきれない感情がふつふつと湧き上がるのだった。



 そんなある日。机に一通の封書が置かれていた。

「また面白いものでも届いた?」

 千種が横から覗き込んでくる。誰のせいでこんな目に遭っているのかと思っているのか。内心で舌打ちをする。

「なんだ、果たし状か?」

 園田も面白がって様子を見に来る始末だ。

「これで何人目になるかな」

「確か……ちょうど二十人目だな」

 律儀に園田が答える。暇なことだ。

「数えてたのか」

「いいから。中身、見てみろよ」

 手紙の内容は、午前の授業の後で中庭に来るようにとのことだった。また呼び出しである。まだ書面を渡されるだけましかもしれないが。皆、千種の外見に騙されている。

「誰からだ?」

 封筒の裏を見ると、力強い文字で差出人の名が書かれていた。

「黒田……正隆」

 そう読める。反応をしたのは園田だった。

「黒田さん? あのひとも千種を狙っていたのか」

 言いながら、藤嗣の握る手紙を奪い取る。舐めるように紙に顔を近づけ内容を確認している。

「知り合いか?」

「前に言っただろ、娼妓を自由廃業させようとした人」

 かすかにだが記憶に残っている。あれはいろいろな学生がいるという話をされた時だった。

「理乙組だよ。西寮の幹部をしている人だ」

 自由廃業させるほど娼妓を廃業させたがっていた人が、千種に惚れたのか。隣の千種を見る。確かに、男にしては線はほっそりとしているが、娼妓から乗り換えるほどのものだろうか。腑に落ちないものを感じながら、手紙を取り返す。

「落ち込んでいたところに千種を見て、惚れたのかもな」

 本当にそうだろうか。だが、確かに手紙は届いているのだ。

「千種、心当たりはあるのか?」

「さあ。僕、名前を覚えるのは苦手だから」

 当人はこれである。多少は面倒を引きつけない努力をして欲しい、と思わずため息をついた。



「藤嗣は律儀だよね」

 昼休みになり教室を出る藤嗣を見送るのは、そんな千種の言葉だ。

「無視すればいいのに」

「さらに面倒なことになるかもしれないだろ」

「行った方が面倒かもしれないのに」

 確かにそれも一理ある。が、無視できないのは藤嗣の性格だ。頼まれると断れない。頑張ってこい、と無責任な同輩に見送られながら教室を出る。廊下を歩き、外に出ると気持ちの良い天気だった。若葉の香りを乗せた風が頬を撫でる。次第に重くなる足を引きずりながらぐるりと校舎に囲まれた中庭を覗く。藤嗣を呼び出した黒田正隆は仁王立ちで待っていた。

 蓬髪。伸ばしっぱなしの髭。そのせいで顔の八割が黒い。その中でぎょろりとした目が覗いている。

 藤嗣よりも頭ひとつ分背が高く、学生服の上からでも盛り上がった筋肉が分かる。これは隙を見せたらやられてしまう――思わず身構えた。そこに、校舎の壁にぶつかって中庭に響き渡る大音声。

「松原ぁ!」

 何事か、と窓から観客が顔を覗かせた。また松原か、相手は誰だ、女王陛下を巡っての――と興味津々な視線が突き刺さる。

「お前に! 話がある!」

 腹の底から吐き出される声は耳を押さえていても聞こえそうだ。この後に続くのは、千種には似合わないだの、勝負をしろだのという内容だろう。分かっているが――分かっているからこそ、大きな声で聞きたいものではなかった。

 距離を詰めながら、黒田を宥める。

「聞こえます、聞こえますから、声を落としませんか」

 受け入れられないことも覚悟していたが、黒田は、はっと気付いたように瞬きをすると素直に声を落としたのだった。

「そ……そうか。確かに、そうだな」

 見た目と違い、素直な人なのかもしれない。申し訳なさそうに蓬髪を掻く。咳払いをし、すまない、と謝る様子には好感が持てた。これまで呼び出された中では一番の強面だが、一番話が通じそうだった。

「来てくれたこと、感謝する」

 そんなことまで言うのだ。会話が成り立つ。そのことに藤嗣は感激した。

「伺っても良いですか」

「なんだ」

「黒田さんも千種を好いていたんですか」

 できるならば話し合いで解決したいと思い、恐る恐る訊ねる。だが、返事は意外なものだった。強く首を横に振ったのである。

「違う。断じて、違う」

 藤嗣は面食らう。違うならば、どうして手紙を送り付けるに至ったのか。

「でしたら、どうして呼び出しなんて――」

「敬語はいい、やめてくれ。我々は同級なのだ」

「はい……あ、いえ。その、だったらどうして呼び出しを?」

「頼みがあるのだ」

 重々しい調子だった。続けられるのは面倒そうな内容だと本能が告げる。それなのに、恐る恐る促してしまう。回れ右をして逃げてしまえば良いのに、だ。

「頼み、とは……」

 ここで初めて顔を合わせる藤嗣に頼み事は何があるだろうか。

 黒田は理乙組、藤嗣は文甲組。寮も東寮と西寮。全く違う。共通点は同級生というだけだ。

 黒田はその大きな身体をほぼ直角に折って頭を下げた。そして手紙を出した用件を告げたのである。



「廓に行って、娼妓を買ってほしい」



 周りの雑音が消え、他の何も聞こえなくなる。

 廓――娼妓。

 聞き間違いでなければ、確かにはっきりとそう言ったのである。

 これまでの藤嗣の人生において全く関わりのない言葉が一気に出てくる。すぐには理解ができないまま、頭を上げて、黒田は畳みかけるように話を運ぶ。

「買うと言っても、会って手紙を渡してくれさえすれば良い。な、簡単だろう」

 ようやく音が戻ってきて、校舎の野次馬に気付く。何が起こっているのかとざわついていた。窓から身を乗り出している者もいる。視線を避けるために、黒田を掴んで木の陰まで走った。死角になる場所で座り込む。

「いや、黒田さんが行けば良いことだろうに」

 黒田はそんな疑問を抱かれることが理解できないとでもいうように、すぐさま答えが返ってくる。

「俺が行けないから頼んでいるんだ」

「どうして」

「出入りが禁じられている」

 苦しそうに、そう吐き出した。

「出入り禁止って、どうして」

「俺は以前、自由廃業をさせようとしたのだ。分かるか、自由廃業は」

 園田に聞いていたから頷く。

「見世から連れ出そうとして失敗した。だから、出入りはできない」

「だったら、郵便は」

「見世の者に中身が見られてしまっては迷惑がかかる」

「なるほど」

 それは分かったが、次の疑問が沸いてくる。

「でも、どうして俺に?」

 今日初めて顔を合わせる藤嗣に頼むのか。黒田にも友人はいるだろうに。

「娼妓には手を出して欲しくはないのだ。手紙を渡すだけだ。その点、硬派のお前なら安心して任せられる」

 二つ目の合点だ。他の学生に頼めば何があるか分からない。その点、硬派で念友のいる藤嗣ならば安心して任せられるという訳だ。

「金は俺が出すから気にするな」

 黒田の中では了承したことになってしまっている。

「いや、待ってくれ。遊廓は行ったことがない」

 興味がないと言えば嘘になるが、気軽に足を踏み入れられる場所でもない。言葉を濁す藤嗣に、黒田が畳みかける。

「松原、困っていることがあるだろう」

 全て分かっているのだとばかりに、髭の奥にある口元が笑みの形を作った。

「それは、まあ……あるにはある、が」

「そうだろう、そうだろう。毎日のように千種の恋敵から呼び出されていると聞いた」

 黒田も知っているのか。この調子では学校中に知られているに違いない。

 もっとも連日続く呼び出しは藤嗣の問題であり、黒田には関わりがない。まして遊廓で娼妓を買うことには無縁だ。

「その呼び出しを、俺がどうにかしてやると言ったら?」

「――……!」

「呼び出してくるやつは俺が片付けてやる。手紙を届けてくれる礼だ」

「それは……信じていいのか?」

「俺の柔道の腕は中々のものだぞ」

 言いながら腕まくりをする。それを見せられると、確かに言葉に真実味があった。

 目の前がぱっと明るくなる。遊廓に手紙を届けに行けば、この連日の呼び出しから解放されるのだ。疲れ始めていた藤嗣には渡りに船、持って来い、差し伸べられた手を無視するなどできようがない。

「どうだ、松原」

「黒田さん、俺は手紙を届ける」

「そう言ってくれると信じていた!」

 そう言うと、懐から札を何枚か取り出し藤嗣の手に握らせた。そして、封筒も一通。こちらには藤嗣に宛てたものよりも丁寧な文字で宛名が認められている。

「場所は品川遊廓だ。見世は三松屋(みまつや)小花(こはな)という娼妓を買ってくれ」

 品川遊廓、三松屋、小花。それらの重要事項を叩き込む。

「小花さん。確かに引き受けた。黒田さんも――頼んだ」

「任せておけ」

 約束への心構えを伝えるように、強く手を握る。大きく頼りがいのある手は、これからの藤嗣の平穏を保証してくれているようだった。