面倒事というものは、次から次に起きるものらしい。千種との――偽りだが――念友関係が知られ、ひそひそと噂をされる程度は覚悟していた。

 だが、予想外のことが起きたのである。

「松原藤嗣はいるか!」

 午前の授業を終えた頃、教室に野太い声が響いた。周りの視線が藤嗣に注がれたため名乗り出る必要はなかった。

 藤嗣を呼んだのは、ひと学年上の大柄な学生だった。ずかずかと教室に入ってくると、椅子に座ったままの藤嗣を遙か上から見下ろす。

「お前か、千種の念友になったのは」

「……一応」

 そうとしか答えられない。念友らしいこと――どんなことかは分からないけれど――をする仲ではない。しかし違うと言ってしまえば藤嗣の帳面が公開されてしまうのだ。

 だから一応、と答えたのだがそれが相手の気に触ったようだった。

「なんだ、歯切れの悪い言い方をしやがって!」

 もう少し堂々とした答え方をすれば良かった、と思ったときにはもう遅い。いらだった相手から襟首を掴まれる。無理矢理立ち上がらせられた。

「ちょっと、何を――」

「うるさい、黙って付いてこい!」

 そしてそのまま、強く引っ張られる。救いの手はなかった。廊下を引きずられながら、千種の念友になるとはこういうことなのかとようやく悟る。

 千種との間には何もない。多少、一緒に過ごす時間が増えるくらいで何も変わらない。それは事実だ。

 ただ、取り巻く環境は大きく変わる。千種に向けられていた好意は藤嗣への嫉妬に変わるのだ。

 ここまで考えが及ばなかった。かといって、もうひとつの選択肢、帳面の公開を選んだかというと――それも避けたい。

 どちらにしろ、こうなるしかなかったのだ。帳面をなくしてしまった時から。引き摺られた先の中庭に着く頃にはすっかり観念していた。

 中庭で対峙する上級生は腹から声を出して言う。

「お前が千種に相応しい男にはどうしても思えん!」

 相応しい男とは一体どういう人物を言うのだろうか。できることなら代わってやりたいとすら思う。そんなことを言えば火に油を注ぐだけだから、冷静に返す。

「……千種とは同意の上です」

 認めたくはないが、と内心で続ける。同意というよりも、取引の上、という表現が正しいのだが。

「千種はお前にぞっこんだと言っている! だが、俺は認めん!」

 上級生は拳を握りしめて一歩を踏み出していた。話し合っても結論が出そうな相手ではないと思っていたが、こうも短絡的に暴力へ走るとは思わなかった。

 千種は冷たくあしらっても殴られることはなかったのに。向けられる感情の違いで、こうも変わるものなのか。

 殴ろうとする拳をぎりぎりのところでかわす。肩を掴もうとする手をかわし、身体を引いて踵を返す。

「これは俺たちのことですから、口を出さないでください!」

 そう言って踵を返し走り出す。後はもう、一目散に逃げ出していた。

 言った後で、これではまるで本当の念友のようではないか。もっと言葉を選ぶべきだったかもしれない。待て、という声が追ってくる。校舎に戻り、とにかく走った。幸い、まだ顔は覚えられていなかったから逃げ切るのは容易だった。だが、これが続けば――想像しただけで鳥肌が立つ。

 どうか、これで終わってくれと祈る。叶わぬことだと思いながらも。



 案の定、呼び出しは始まりだった。

 千種に好意を寄せていた連中は山のようにいた。最低でも日に一回、ひどい時は三、四回。その全てを逃げ切り、やり過ごす。学生の中に紛れる日もあれば、机の下に隠れる日もあった。とにかく逃げる。それしかない。

 この日も同級生からの呼び出しに回れ右をして逃げ出した先、校舎への入り口に千種の姿があった。それを見た同級生は怯み、舌打ちをして中庭から立ち去る。

 残された千種は、楽しそうに後ろ手に組んで藤嗣を眺めている。

「……なんだよ、千種」

 中庭がちょうど見える場所かつ、校舎から目立つ位置だ。わざと皆に見られるようにしているのでは、と穿ったことを考えてしまう。

「藤嗣は逃げ足が速いね」

「……褒めてるのか?」

「褒めてるよ、心から」

 嘘をつけ、と思いながらも黙っておいた。これ以上は不毛なやり取りでしかない。幸い、今日は逃げ回らなくて済んだ。同時に、千種を盾にしてと反感も買っただろう。

 入り口から校舎に入り、廊下を歩く。通り過ぎる教室から向けられる視線を無視する。校内は静かなさざめきに満ちていた。その話題は授業についてか、それとも藤嗣たちについてか分からなかった。

「毎日呼び出されてるの?」

「まあな」

 面倒くさそうに答えると、大変だね、と他人事の反応があった。それが癪に障ったので訊ね返す。藤嗣がこれだけ大変な目に遭っているのだ。千種も同じような目に遭っていなければ割に合わない。

 どうしてあんな男と念友になったのかと詰め寄られてくれていれば多少は溜飲が下がるというもの。

「千種はどうだ。お前も絡まれて大変だろ」

 だが、返事は予想外のもの。

「全く」

「は……? そりゃ、多少は減ったかもしれないが、全くって……」

「本当に、一度もないよ」

 千種は心から晴れ晴れとした顔をしている。

「みんな“女王陛下”に嫌われるのは嫌みたいだね」

 にっこりと笑う千種はまさに統治者だった。こいつ、段々楽しんできているぞ、と藤嗣は思う。

 こうなることを見越していたのかもしれない。千種がこれまで受けていた念友の申し込みは、全て藤嗣への呼び出しに変わっていたのだ。

「……お前、俺のこと嫌いだろ」

 だから、こんな面倒な取引を持ち出したのではないか。そうとしか思えなかったが、千種は心外だと言いたげに首を振る。

「まさか。嫌いだったら念友になろうなんて言わないよ」

 そして楽しそうに微笑んだ。何を考えているのか腹の底が分からない。

「藤嗣を念友に選んで良かった」

「ふりだろ」

 そう念を押すのがせめてもの抵抗だ。そんな抵抗などささやかすぎて気にも留めない千種は、さらに無茶苦茶な提案をする。

「今度は僕も一緒に行こうか?」

「やめてくれ。さらに面倒なことになる」

 二人で並んでいては、不快感を煽るだけにしかならない。それならば、無様だろうと何だろうと藤嗣が一人で逃げ回った方が良い。

「面白そうなのになあ」

「少しも面白くない」

 それもこれも、こうなってしまったのは――。

「……お前のせいだ、千種」

「僕は悪くないだろ」

「お前が自分でどうにかしていれば、俺はこんな目に遭わなかった」

 自分で断って、自分で面倒ごとを解決していれば、ふりだろうと念友など作らなくて良かったのだ。帳面をなくした失敗を忘れ、悪態が漏れる。

「そう思っているの?」

「ああ」

 悪態をつかれても千種は気を悪くした様子はない。藤嗣の感情を全て受け止め、言うのだ。

「だったら、やめようか。念友のふり。皆の前で言うよ。やっぱりやめましたって」

「……帳面は、どうなるんだ」

「さあ?」

 可愛らしく首を傾げてみせる。それだけで返す気はないのだと知れた。

 もしそうなってしまったら。千種の手元にある帳面は、人から人へと伝い読み継がれるのだ。

 藤嗣は千種をこんな風に見ていたのだ、やはり、好いていたんだな、振られてしまったのか、可哀想に――あることないこと言われるに決まっている。

「……どこまで根性が曲がってるんだよ」

「僕は自分の身を守りたいだけだよ」

 人間、誰しも我が身がかわいい。それはなかなか言葉にはできないことだが、千種は悪びれもせず言ってしまう。それが似合うから――いっそう悔しいのだ。