「取引をしよう」

 それは楽しげな声音だった。

 寮の一角にある自習室には西日が差し込んでいた。壁を、机を、橙と黒に染め上げる。開け放った窓から差し込むのは生暖かな風。春が終わりに近付いているのを告げている。

 室内には人影がふたつ。西日に染められた者と、影に飲まれた者――それだけだ。いつもならば聞こえる本の頁を捲る音や、帳面に文字を書き付ける音もない。二人の息づかいすら聞こえそうなほど静かだった。

 取引を持ちかけたのは、影色だった。西日色は何も言わず、口を真一文字に結んでいる。答えが出ないのか、それとも出せないのか。

 答えは始めから期待していなかったのかもしれない。影色は小首を傾げて続ける。

「何も君にとって不利なことじゃないさ」

 その声は相変わらず弾んでいた。影色は答えを待つことをしない。何か答えたいのならば、問いかけたいのならば自発的に話すだろうから。だから己の正当性を、持ちかけた取引がいかに正しいものかを強調する。

 西日色はそれを聞くだけだ。

「これは純然たる取引だ。互いに利益しかない」

 利益。その言葉に西日色が口を開く。

「だったら、こちらに何の利益がある」

 言葉の端に隠しきれない笑いが滲んでいた。こんな一方的な取引など何がある、と。

 だが、それでも影色は自身を崩さない。

「秘密保持」

 間髪入れず、堂々と言ってのけるのだから呆れてしまう。秘密を守るから取引をしろなど、それは利益ではない。脅しているのだ。

 そう、脅し。影色は間違いなく脅迫者であった。

「もし、断れば――」

 この取引を受けなければどうなるか。それは目に見えている。それでもなお訊ねたのは虚勢だろう。

「分かるだろう、どうなるか」

 脅迫者である影色はそれ以上を言わなかった。言ったところで答えは変わらないと分かっているのだ。受け入れるか、拒むか。それは初めから決まっている。

「……条件は、なんだ?」

 だがそれでもなお、条件を聞くだけだというふりを見せる。そうしなければ分が悪い。

 いや、分など最初から悪いのだ。脅迫する者とされる者、端から立場は対等ではない。

「そうこなくてはね」

 脅迫者は双眸を細めて微笑んだように見えた。影が邪魔をしてよく見えなかったけれど。影に包まれていない彼の面立ちは知っている。だから想像するのは容易だ。

 誰もが見惚れるほどの微笑みに違いない。