外へ出ればじんわり汗ばみ、日差しがきつく感じることも増えた。

 まだ五月だというのに半袖シャツを着ている人も増えたし、年々少しずつこの世の中が暑くなっている気がする。

 もう今にでもセミの鳴き声が聞こえてくるのではないかとさえ思える。

 日に当たるとすぐに赤くなってしまうため、日傘を片手におばあちゃんちに続く土手を下る。

 そんな気分じゃないのに、家に帰るなりお母さんからお使いを頼まれて、庭で採れたばかりの梅がたくさん入った大きな紙袋を持っておばあちゃんちにお届け物にやってきたのだった。

 ちょっと出かけることを伝えるとアキちゃんは『は〜い』と気軽に返してくれた。

 わたしはもっとお話ししたかったのに、残念だ。

 自然と小走りになってしまうのは、別にわたしが慌てているからではない。

「おばあちゃん、こんにちは! 春奈だよ!」

 チャイムを鳴らし、インターホンの向こうに声をかける……と、『解除』というおじいちゃんの渋い声が聞こえ、扉にかけられた鍵がひとつずつ解錠されていく音が聞こえる。

 おじいちゃん、ありがとう……と、おじいちゃんではないのだけど、こっそり心の中でつぶやくのは、いつものことだ。

「はるちゃん、いらっしゃい」

 扉が開いた先で待っていてくれたおばあちゃんが優しい笑顔を浮かべていた。

「今日は暑かったでしょう。さっ、入って入って」

 電話越しの映像では毎日のように会っているけど、やっぱり本物のおばあちゃんにはかなわない。

「おいしいお菓子をもらったのよ~」

 そういってわたしの背中をさすってくれる小さな手は、ここへ来ることでしか味わえない。

 お母さんから頼まれてすぐは面倒だな……なんて思ったけど、やっぱり来てよかったと思えるのは、こうして直接おばあちゃんとやりとりをしたあとなのである。

 受験生の今年は、夏休みから新しい塾にも通い始めるため、おばあちゃんのところにもそう簡単には来られなくなるだろうし、来られるときは貴重かもしれない。

「おじいちゃん、こんにちは~」

 仏壇の前で、先ほどまではキリッと表情を引き締めていたおじいちゃんの写真がわたしの顔を見るなり、にこにこと笑顔を作り、手を振ってくれる。

 ちょっとぎこちない気がするそれに対してわたしも手を振り返して、お茶を入れてくれたらしいおばあちゃんのそばに向かう。

「恵理子さん、気なんて使わなくてよかったのにねぇ」

「今年は去年よりもたくさんなったらしいよ」

 なんだかんだ言いつつ、お母さんに持たされた紙袋の中を眺め、おばあちゃんが嬉しそうに瞳を細める。

 袋いっぱいにおばあちゃんが好きな梅が入っていたからだ。

 梅と言っても、イラストなどで描かれる真っ赤な梅干しではなくて、まだまだ硬くて青いとれたての梅だ。

 庭にたくさんなっており、おかあさんはいつもそれをお酒にしたり、ジャムにしたりと工夫をしているのだけど、あまりにたくさんとれた時は、いろいろな人にお裾分けをしている。

 おばあちゃんちには毎年届けている。

「今年もたくさん梅シロップを作るからね」

「わ、たのしみ!」

 おばあちゃんの梅シロップはおいしい。

 お母さんも欲しいっていうから結局のところ、またわたしがおばあちゃんのつけてくれたシロップをいつかのタイミングで持ち帰ることになるのだけど、これらは初夏の笹岡《ささおか》家の恒例行事だった。

 おじいちゃんの生きていたころはおばあちゃんのおうちでもお酒をつけているようだったけど、最近は全く聞かなくなった。

「はぁ~おいしい~」

 おばあちゃんが入れてくれた麦茶を一気飲みして、もう一杯目は自分で注ぐ。

 グラスの中でカランと氷が揺れる。

 ふうっと息をついたら、ようやく暑さが落ち着いてきて、あたりを見渡す。

 見るたびにちょっと小さくなったようにこの部屋が見えるのは、わたしの背が伸びたからかもしれない。

 写真の中のおじいちゃんは、いつの間にか真顔に戻ってしまっていた。

 笑っていないとすごく気難しそうに見えるのはいつものことだ。

「ちよちゃん、恵理子さんにお礼文を送ってちょうだい」

 台所でおばあちゃんの声がして、ちよちゃんことおじいちゃんの渋い声が『はい』と答えるのが聞こえた。

「え、すごい! おばあちゃんが最近メッセージを頻繁に送ってくれるのって、おじいちゃんにお願いしているからなの?」

 あんなに慣れないものや目に見えないものは怖いから使いたくないと言い張っていたのがうそのようだ。

「年を取るとやっぱりひとりで生きていくのには無理があるからね。不本意ながら時代の流れについていかないといけない時期がきたみたいだよ。本物のちよちゃんはこんなにも的確に電子機器を使いこなせなかったけどね」

 ふんわり笑顔を作るおばあちゃんはどこか懐かしそうにそう告げる。

 機械化が進む中で、人間たちもおいていかれることなく、同じようにアップデートをしていかないといけない。よくおじいちゃんが言っていたことだ。

 考えることを放棄したらおしまいだ。

 人間なんて必要ではなくなってしまう。

 だからこそ、何事も適度に付き合っていくべきなのだと。

「怖いのはね、ちよちゃんがこんな人だったかなって、思ってしまうことが増えたんだよ」

「え?」

「いつもにこにこしていて、こんなにも素直にあたしが頼んだことを「はい」と聞いてくれたんだったか。あたしの記憶の中のちよちゃんと今のちよちゃんが喧嘩をすることがあるんだよ。そう思うと、やっぱりこわいことだって思ってしまうんだよ」

「おじいちゃんはおじいちゃんでしょ?」

 何を言っているんだか。

「少しずつね、あたしの記憶が都合よくちよちゃんを作り変えている気がして、こわいと思えることがあるんだよ……って、はるちゃんにはいつもにこにこしたおじいちゃんだったけどねぇ」

 変なこと言ってごめん、とおばあちゃんは首を振って、出してきてくれたお菓子の包み紙を開ける。

 意味が分からなかったわけではない。

 おばあちゃんのおうちには、五年前になくなったおじいちゃんの影はない。

 それでも、今でもその存在の一部だけが残されている。

 映像も音声も、おばあちゃんやわたしたち家族から作られたおじいちゃんだった。

 とはいっても、それらはおじいちゃんではない。

 わたしたちは声の主をおじいちゃんと呼ぶけど、実際はとても無機質なものであった。