「おい、相原」

 人気のない廊下で黒川に呼び止められたのは、学校祭が一週間後に迫った日の放課後のことだった。呼び止められた理由はすぐに検討がついたので、私は何食わぬ顔で返事をした。

「何の用?」
「何の用、じゃねぇんだよ。お前、またふざけた真似しやがったな」

 黒川の声は怒りに満ちていた。マスクをしているというのに私の耳までよく届く。私は黒川の威圧を真正面から受け流しながら、わざとらしく小首をかしげた。

「ふざけた真似ってなんだっけ。記憶にねぇなぁ」
「すっとぼけんじゃねぇぞ! 学校祭のミスコンに俺の名前でエントリーしやがったのお前だろうが!」

 ああ、そのことか、と適当な相槌を打った。
 黒川への恨みを募らせた私は、花音の助言を得て、学校祭の最終日に開催されるミスコンに黒川をエントリーした。事前に黒川の許可を得ることはせず、『趣味:女装』と嫌味たっぷりの特記事項を書き加えて。

 しらさぎ高校のミスコンはルールが寛容で、本人による立候補のほか、第三者による推薦も認められている。出場する人の性別は問われず、過去には校庭に住みついていた野良猫を推薦立候補させた猛者もいるくらいだ。そんな事情があるからこそ、私が書いた推薦状は難なく受け入れられた。
 黒川は、今日掲示板に張り出された『ミスコン参加者一覧表』を見て、初めて自分がエントリーされていることに気がついたのだろう。

 悪事を暴かれてしまえばごまかす意味もなく、私は素直に認めた。

「はいはい、確かに私がやりましたよっと。で、どうすんの? ミスコン出んの?」
「出るわけねぇだろ!」
「えー、でも直前棄権とかクッソ迷惑じゃね? ミスコン会場で配られる出場者パンフレットももう刷り終わってるだろうしさぁ。私が運営側ならぶっ飛ばしたくなるわ」
「てめぇ……」

 我ながら糞みたいな性格だ。ミスコンには立候補者を集めての事前打合せがないことも、パンフレットができあがってからの棄権が難しいことも、全て知った上で黒川をエントリーしたのだから。

 黒川は長い前髪の下から私を睨みつけていた。しかしそうしたところで埒が明かないことを悟ったのだろう。ふいと視線を逸らして諦めたようにつぶやいた。

「……もういーわ。お前に期待した俺が馬鹿だった」

 私はふんと鼻を鳴らした。
 ようやくわかったのか。私は誰かに期待されたり、期待に応えるために努力すんのが大っ嫌いなんだよ。だからわざと良い子じゃない見た目にして、人から嫌われるようなキャラ作りをしてんじゃねぇか。

 幻滅されることには慣れているはずなのに、古傷を抉られたときのようにじくりと胸が痛んだ。

 ◇

 楽しさを感じないまま学校祭の準備期間は終わった。望みどおり黒川に一泡吹かせてやったはずなのに、分厚いマスクで顔を覆われているように息苦しい日々だった。
 しかし私の気分など関係なしに時間は進み、学校祭は当日を迎えた。1日目の仮装パレードと、2日目の一般公開を無事に終え、間もなく最終日を迎えようとしていた――

「今日は帰り、遅くなるから。打ち上げあんだよね」

 履きなれたローファーにつま先を入れながら私は言った。リビングから抑揚のない母親の声が聞こえてきた。

「打ち上げってどこでやるの」
「忘れた。どっか駅前の焼肉屋」

 そう、とさして興味もなさげな相槌のあと、母親は突き放すような口調で言った。

「愛美にはもう何も期待はしてないんだけどね。酒と煙草は止めておきなさいよ。退学になったら面倒見れないから」
「……わかってるっつーの」

 何も期待はしていない――その言葉は私が望んでいたもので、そうだというのに心は鈍い痛みを訴えた。

 小学生の頃の私は超がつく良い子だった。宿題を忘れたことは一度もなかったし、先生の頼みごとは全部引き受けたし、友達と喧嘩をしたこともなかった。
 小学4年生のとき、中学受験に備え塾に通い始めた。受験に向けた勉強は大変で、高学年になると友達と遊ぶこともままならなくなった。それでも私は頑張った。両親の期待に、塾の先生の期待に、周囲の人々の期待に応えるために。
 
 しかし――私は誰の期待にも応えられなかった。第一志望の中学には受からず、滑り止めにも引っかからなかった。人生で初めての挫折だった。
「受かると思ったのに残念だったね」
「期待してたんたけどなぁ」
「もう少し頑張れれば良かったね」
 悪意のないたくさんの言葉を向けられた。私は子どもながらに世の中の理不尽さを感じた。なぜあんなに頑張ったのに責められなければならないのだろう。ならば初めから何も頑張らない方がいいじゃないか。努力なんてしなければ、結果が出なくて残念だと言われることはない。期待されるような人間にならなければ、失望も落胆もされることはない。
 そう――私が誰にも期待されない人間になれば。

 地元の公立中学に入学した。制服を着崩して、週に何度か宿題を忘れてみた。初めのうちは怒られたが、そのうちに何も言われなくなった。テストと点数が下がると、あれだけ教育熱心だった両親もしだいに勉強の話をしなくなった。
 高校の入学式前日に髪を染め、最初の夏休みでピアス穴を空けた。ろくに勉強もせず、部活にも入らず、毎日を遊んで過ごした。『相原愛美はヤバイ奴』という噂が広がり、ギャル友達以外は私に近づかなくなった。宿題を忘れても、テストの点数が悪くても、クラスメイトと揉め事を起こしても、「相原だから仕方ないよね」と許された。

 そうして今の私ができあがった。
 誰にも期待されることのない私が――

 ◇

 しらさぎ高校の学園祭は、1日目が仮装パレード、2日目と3日目が一般公開日と昔から決まっている。一般公開日には学生たちが喫茶店や縁日をひらき、学外から訪れたたくさんの人々を楽しませるのだ。
 
 学校祭も最終日である3日目を迎える今日、空はよく晴れていた。屋外にいるとただそれだけで汗が流れるような真夏日だった。だから私たちのクラス展示あるハワイアンカフェは、朝から大盛況だ。

「お釣りが50円でーっす。あざっしたー」

 私は棒読みでお礼を言って、小さな女の子の手に50円玉をのせた。女の子がいなくなるとすぐに次の客が注文を口にする。トロピカル・ジュースとブルー・ハワイ、ハワイアンカフェの定番商品だ。

「愛美ぃ、交代の時間だよぉ」

 一瞬だけ客が途切れたとき、花音に声をかけられた。ピンクブラウンの髪をお団子にまとめた花音は、腰回りにアロハ柄のエプロンをつけている。このアロハ柄のエプロンが、3年1組ハワイアンカフェの正装なのだ。

「鈴が、時間できたら一緒にまわろって言ってたよぉ。連絡してみたら?」
「ん、おー。そうするわ」

 アロハ柄のエプロンをポケットにつっこみ、花音に向けてひらひらと手を振った。

 賑やかな校内を目的もなく歩きながら、私はずっと黒川のことを考えていた。黒川をミスコンに推薦したことを後悔はしていないが、あの日からずっと気にかかっている。黒川が大人しくミスコンに出るとは思えないし、だからといって棄権すれば運営側に迷惑がかかってしまう。いったいどういう判断をするのだろう。

 ……まぁでも、運営側に事情を説明して棄権するのが普通だよな。クラスメイトにコスプレ趣味がバレるの嫌がってたし、そもそも大人しく私の言いなりになるような奴じゃないし。

「……」

 黒川はミスコンに出ない。そう結論づけても気分はそわそわと落ち着かなかった。
 結局いてもたってもいられなくなって、私は鈴に連絡を入れることも忘れてミスコンの控え室へと向かった。

 『ミスコン控え室』と書かれた教室の前には、眼鏡をかけた男子生徒が立っていた。私の記憶が正しければ、学校祭実行委員会の書記をつとめる学生のはずだ。

「あのさ、黒川光って控え室に来てる?」

 私がやや遠慮がちに尋ねると、男子生徒はすぐに返事をした。

「来てますよ」
「え……来てんの? 替え玉とかじゃなくて?」
「本人が来てますよ。学生証、確認しましたし」
「……フツーの格好だった?」
「控え室に入っていったときは普通でしたけど……あ、でも、そのあとすぐに出てきたんですよね。着替えたいから1人になれる部屋を貸してほしいって言われて、少し離れたところにある社会科準備室に案内したんですよ」

 男子生徒が言葉を終えるや否や、私の頭の中は信じられないという気持ちでいっぱいになった。
 あいつ、本気でミスコンに出るつもりなのか? 着替えるってことは、まさか黒川ひかりの姿で?
 
 男子生徒につたない礼を言い、その場を離れた。歩くうちに社会科準備室の前を通りすがる。その中には黒川がいるはずだ。でも扉を開ける勇気は出なかった。黒川が何を考えているのかわからないし、私が何をしたいのかもわからなかったから。

 私は――黒川にどうしてほしいのだろう。
 答えは見つからないままミスコンの開催時刻は迫る。