私が黒川の秘密を知ってしまってから2週間が経とうとしていた。
 この間、私と黒川のあいだに特別な出来事は起きず、秘密を知る以前と変わらない関係が続いていた。黒川は相変わらず大きなマスクをつけて登校し、休み時間だからといって友達と騒ぐこともなく、地味で目立たない生活を送っている。一方の私はギャルグループの一員として、クラスメイトたちから恐れられる日々だ。

 そして私と黒川ひかりの関係も以前と同じままだった。黒川ひかりは相変わらず男であることを隠してレイヤー活動を続け、ときおりコスプレ写真を投稿してはフォロワーにちやほやされている。私はそんな黒川ひかりの投稿を、特別なリアクションをするでもなく遠巻きに眺めていた。
 
 この2週間のうちに実感したことは、やっぱり私はコスプレイヤーとしての黒川ひかりが好きだということ。
 黒川ひかりのコスプレは原作を投影したかのように真に迫っていて、現実と創作の境界があいまいになるほど美しい。また写真に添えられる文章の端々からは、黒川ひかりが原作を愛し、そしてコスプレを心から楽しんでいるのだということが伝わってきた。

 私は黒川ひかりが好きだ。だから彼女を応援するためにファンを続けていた。言うまでもなくクラスメイトの黒川のことは大っ嫌いだが、それとこれとは別の話だ。
 ……別の話だよな?

 ◇
 
 5月も終盤にさしかかろうとする頃の日曜日。私は自宅のベッドに寝転んでSNSを眺めていた。タイムラインを更新すると、黒川ひかりの最新投稿がライムラインの上部に現れる。投稿時間はわずか数秒前――奇跡的なタイミングだ。
 私はスマホに顔を近づけてその投稿を読んだ。

『今日はお休みなので、駅前の手芸屋さんに行きます! 新しい衣装を作る予定なので、お楽しみに~♡』

 新しい衣装? 烏屋ユクネじゃない別のキャラのコスプレをする予定ってこと? おいおい胸アツすぎんだろ。
 私は何度かSNSの更新ボタンを押してみたが続報はなし。『新しい衣装』に関する詳細はわからないままだ。しかし黒川ひかりの別の姿が見られるのだと想像するだけで、今から心が躍った。

 SNSを閉じ、ころりと寝返りを打つ。ふとある考えが頭に浮かんだ。
 ……『駅前の手芸屋さん』って、白鷺駅前のくるみ堂のことだよなぁ。

 くるみ堂は、しらさぎ高校の最寄り駅である白鷺駅前にある大型の手芸店だ。しらさぎ高校の生徒は、毎年学校祭の時期になると、このくるみ堂を『駅前の手芸屋』と呼んで愛用している。だから黒川ひかりの外出先は十中八九くるみ堂だと直感した。

 そしてひとつ考えがまとまると、今度は別の疑問が湧き上がってきた。このアカウントで外出宣言するということは、ひょっとして黒川ひかりの姿で出かけるつもりなのだろうか――と。

「くるみ堂……今から出れば間に合うか……?」

 つい口に出してからはっと我に返った。
 いやいや、いくらなんでもまずいだろ! 黒川ひかりの私服姿が見たいからってストーカーみたいな真似をすんのは! 本人に見つかったらまた散々罵倒されるっつーの!

「いや……でもバレなきゃいいわけだしな……そもそも会える確率も低いんだし、ちょっと駅前に行ってみるくらいなら……?」

 悶々と考え込み、最終的には欲望が理性に勝った。
 私は頭に野球帽をのせ、小さな鞄を肩に引っかけて白鷺駅前へと向かうのであった。

 ◇

 私の自宅から白鷺駅前までは、電車に乗って3駅分の距離だ。駅までの徒歩時間と電車の待ち時間を含めれば、所要時間は30分というところ。
 もしも黒川が私よりも白鷺駅に近いところに住んでいたら、入れ違いになってしまう可能性は十分にあったが、ひとまず私は白鷺駅のくるみ堂へとやってきた。

「くるみ堂……久しぶりに来たなー。どこに何が売ってるんだっけ……」

 私はくるみ堂の出入り口にある店舗案内図を見つめた。生地、毛糸、ビーズ、手芸材料と様々な文字が並んでいる。一からコスプレ衣装を作るんならまずは布だと単純な推測をし、私はひとまず生地売り場へと向かった。
 そしてその生地売り場の一角で、すぐに見慣れた後ろ姿を見つけた。黒川だ。黒いTシャツにシンプルなジーンズを合わせている。

 何だ、普通に男の格好か。つまんねぇの。

 私はがっかりした。私のいる場所から黒川の顔を見ることはできないが、ウィッグもつけていなければ女性用の服も着ていない。ひょっとしたら黒川ひかりの私服姿が見られるかも――という淡い期待は見事に打ち砕かれてしまった。

 すぐに帰ろうかとも思ったが、私はしばらく黒川を観察することにした。陳列棚の陰に身を隠し、怪しくないようにときおり商品を物色するふりをして。というのも黒川を観察していれば、黒川ひかりが次に着るコスプレ衣装が何かわかるのではないかと思ったからだ。案の定、黒川は数色のロール布を手にとった。

 青と白……ってことは『黒魔女』の伊崎ニノか⁉ でもニノは天真爛漫な性格だから、黒川ひかりのイメージとは合わないような……。そういえば鏡ヶ原シズクもあんな色の服を着てたっけ……?

 記憶力を頼りにするには限界があったので、私はてっとりばやく黒魔女に登場するキャラクターを調べてみることにした。スマホの検索フォームに『黒の魔女と白の街』と打ち込み、ぽちっと検索。どのサイトを見るべきか迷っていると、私の手元にふっと人影が落ちた。

「てめぇ、こんなところで何してんだよ」
「……ぎゃあ!」

 私の目の前に立っていたのは黒川だった。長いロール状の生地を、大刀を担ぐようにして肩にのせている。マスクはつけておらず、雑に分けられた前髪のあいだで、切れ長の瞳がぎらぎらと敵対心を燃やしていた。

「く、黒川。おっす、偶然だねー……なんて」

 黒川に見つかることを想定していなかった私は、どぎまぎと不自然な挨拶をした。黒川はそんな私の全身を疑り深く眺め、冷めた口調で尋ねてきた。

「まさかとは思うけど……黒川ひかりのSNSを見てここに来たのか?」

 ぎっくぅ。

「そそそそそんなわけないだろーが! 被害妄想も大概にしろや! 本屋に行くついでにたまたま立ち寄っただけだっつーの!」

 我ながら苦しい言い訳だと思った。手芸店に行くついでに本屋へ立ち寄ったというのならまだわかるが、本屋に行くついでに手芸店へ立ち寄るというのは無理がある。
 学生が通りすがりに買う手芸用品ってなんだよ。ミサンガ糸か?

 黒川も同じことを考えたようで、ロール生地を肩にのせたまま大きな溜息を吐いた。

「お前さぁ……こういうストーカーじみたことはマジで止めろ。顔見知りだからまだギリ許せるけど、顔も知らない他人だったら警察に突き出してんぞ」

 ぐぅの音も出なかった。言い返せずに黙り込んでいると、黒川の糾弾は続く。

「たまにいんだよね、面倒な絡みをして気を引こうとする奴。毎日同じようなDMを送りつけてきたりとか、リプ返さなかったらわざと俺の目につくところで叩いてきたりとか。そんなことしても害悪認定されるだけだってこと、何でわかんねぇんだろな?」

 黒川の言葉は私の胸にぐさぐさと突き刺さった。
 私はまっとうに黒川ひかりのファンをしているつもりだった。でも()()()にとってみれば、私は害悪以外の何でもない。弱みにつけこんで飲み物を買いに行かせようとしただけではなく、こうしてストーカーまがいのことまでしているのだから。

「俺の気を引きたいなら素直に告白でもしてこいよ。喧嘩腰で話しかけたり、後をつけまわしたりするより、そっちの方がよっぽど効果的だぜ」
「ふざけんな! 何で私がアンタに告白なんかすんだよ! 好きどころか大っ嫌いだっつーの!」

 周囲の視線も忘れて憤慨すると、黒川はさして興味もなさそうに「あっそ」と相槌を打った。そしてさっさとレジの方へと向かっていった。私の存在などまるで気にかけていないのだというよう足取りで。
 私は興奮で乱れた息を整えながら、ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。

 ◇
 
 その日の夜。
 私がリビングでテレビを見ていると、母親が抑揚のない口調で話しかけてきた。

「愛美……今日、どこに行ってたの?」
「別に、どこでもいいだろ」

 突き放すような口調で答えると、母親はすぐに言い返してきた。

「出かけるのは構わないけど、行き先と帰る時間くらい伝えて行きなさいよ。心配するでしょ。このあいだだって、朝早く出て行ったと思ったら電話も繋がらなくなっちゃうし」

 このあいだ、とは私が横浜コスプレサミットに参加した日のことだ。あの日は家族に何も言わず家を出たため、母親から何度も着信が入っていた。しかし黒川ひかりのことで頭がいっぱいだった私は、母親からの着信をことごとく無視してしまった。
 いや、黒川ひかりのことがなくとも、私は母親からの電話をまめに受けるような人間ではないのだが。

 私が何も言わずに黙っていると、母親は諦めたように肩を落とした。

「愛美に何を言っても無駄だってことはわかってるけどね……昔はあんなに素直だったのに、どうしてこうなっちゃったんだろ」

 リビングを出て行く母親の背中に、心の中で悪態を吐きかけた。
 無駄だってわかってんなら端から話しかけんじゃねぇよ。私に何かを期待すんじゃねぇ。

 何かを期待されたところで、その期待に応えることは私にとって苦痛でしかないのだから。