横浜コスプレサミット、当日。
 会場である赤煉瓦倉庫は、大勢の人々で賑わっていた。イベントの中心となるのは赤煉瓦倉庫の南側に位置する芝生の広場で、アニメや漫画の物販の他、飲食物の屋台が軒をつらねている。

 その広い会場の一角で、野球帽を目深にかぶった私は、目を皿のようにして黒川ひかりの姿を探していた。

「黒川ひかり……どこにいんだろ。烏屋ユクネのコスプレしてる、ってことしかわかんないんだよなぁ……」

 つぶやきながら首筋を流れる汗をぬぐう。まだ6月の中旬だというのに会場は真夏のような暑さだ。日光をさえぎる物がないことに加え、人口密度が高すぎて風が通らない。こまめに水分補給をしないと熱中症で倒れてしまいそうだ。
 この暑さの中で執事服やドレスのコスプレしてる人ってどんな肌感覚してんだろな。服の中にアイスノンでも仕込んでんの?

 黒川ひかりが横浜コスプレサミットに参加するという情報を得てからというもの、私は彼女のSNSをまめにチェックしいくつかの情報をゲットした。『烏屋ユクネ』のコスプレでイベントに参加するのだということ、イベントに参加するのは午前中だけだということ、イベントのための宿泊はしないのだということ。
 その情報から、私は黒川ひかりは横浜からあまり遠くない場所に住んでいるのでは――と推測した。完全にストーカーの思考である。

「だけど肝心の黒川ひかりがどこにもいないんだよなぁ。『黒魔女』の物販の方に行ってみよっかなぁ……お?」

 そのとき、奇跡が起こった。
 人混みとうだるような熱気をかきわけて、目の前から黒川ひかりが歩いてきたのだ。実物を目にするのは初めてのことだが見間違えるはずがない。丁寧に作り込まれた烏屋ユクネの衣装も、陶器のように白い肌も、人形のように細い腕足も、いつも写真を通して見ていた黒川ひかりだった。

「……ぁ」

 突然の出会いに私は興奮し、そして混乱した。黒川ひかりが目の前にいる。それも私が初めて彼女の写真を目にしたときと同じ烏屋ユクネのコスプレをして。夢を見ているように頭がほわほわとしたが、すぐに現実へと引き戻された。
 
 ぼさっとしてる場合じゃねえ! せっかく憧れの黒川ひかりに会えたのに素通りしてどうすんだよ。まずは挨拶……って私なんかが声をかけてもいいのか? 向こうは私のことを知らないんだし、いきなり声をかけたら迷惑なんじゃねぇ?

 あれこれと考える間に、黒川ひかりは私の真横を通り過ぎた。肩が触れるくらい近くを通ったため、艶々とした黒髪がふわりと鼻先をかすめていく。
 私はとっさにスマホを構えた。黒川ひかりに声をかけることはためらわれたが、彼女に会ったという事実を何らかの形で残しておきたかった。だからこっそり写真を撮ってしまえば――そう考えたのだ。

 撮影画面に黒川ひかりの後ろ姿をおさめ、撮影ボタンを押そうとした。
 瞬間、後ろからぽんと肩を叩かれた。

「君、レイヤーさんを隠し撮りするのはマナー違反だよ」

 低くて落ち着いた男性の声だった。私が驚いて振り返ると、30代半ばと見える男性が厳しい目つきで私のことを見据えていた。私はうろたえながら聞き返した。
 
「え……マ、マナー? 私、こういうイベントにくるの初めてで……」

 つたない説明だったが、男性は私が言おうとしていることを理解してくれたようだった。非難するような目つきをやめ、丁寧に教えてくれた。

「レイヤーさんの写真を撮りたいときは、本人の許可を得るのがマナーなんだ。駄目と言われたら大人しく諦めること。あと、撮った写真をSNSにあげるときもレイヤーさんの許可が必要だよ」
「そ、そうなんだ。知らなかった……」
 
 私はしおしおと小さくなった。会場アクセスやイベントスケジュールは熱心に調べたが、写真を撮られてもらうときのマナーなんて気にも留めなかった。
 黒川ひかりの居住地を特定しようとしてるくらいなら、最低限のマナーくらい調べとけよ。私のあほう。

「――どうしたんですか?」

 耳に心地良いハスキーボイス。長い黒髪が視界をかすめ、私ははっと顔をあげた。
 目の前に、びっくりするくらい近いところに黒川ひかりが立っていた。不思議そうな表情で私と男性のことを見つめている。やりとりを聞きつけ戻ってきたのだろうか。

「この子が勝手にあなたの写真を撮ろうとしていたので、注意していました」
「あ、そうなんですか?」
「会場のルールを知らなかったみたいです。僕が簡単に説明しておきましたから――」

 目の前で黒川ひかりがしゃべっている――という事実をすぐに信じることができなかった。己の失態も忘れ、またたく間に気分が高揚する。

「あの、勝手に写真を撮ろうとしてすみませんでした! 私、黒川ひかりさんのファンでして! もしよければ一枚写真を撮らせてもらえないかな、なんて!」

 私は野球帽をとり、黒川ひかりに向けて勢いよく頭を下げた。さっきまでは声をかけることをためらったが、せっかく訪れたこのチャンスを無駄にしたくはなかった。
 私は頭を下げたまま黒川ひかりの返事を待った。しかしいつまで待っても返事はなく、代わりに痛いくらいの視線を感じた。おそるおそる顔をあげる。黒川ひかりは長いまつげに覆われた瞳を大きくして、私の顔を見つめていた。

「……相原?」
「え?」

 時間が止まった気がした。なぜ黒川ひかりが私の名前を知っているのか、脳味噌をフル回転させて考えてもさっぱりわからなかった。
 ただ私の名前を呼ぶ声にはどこか聞き覚えがあった。そう、あれはいつだっただろうか。私が声を荒げて彼を呼び止めたとき、『何で俺が、相原に気をつかわなきゃなんねぇの』って――

「え………………黒川?」

 黒川ひかりはうなづかなかった。驚きと嫌悪感を込めた表情で、私のことをじっと見つめ返していた。その表情は、私がよく知る黒川と同じもの。

 ……ええ、ちょっと待てや。黒川と黒川ひかりが同一人物なんてそんな馬鹿な話があってたまるかい。だって同じ黒川だけど、黒川は根暗で冴えない奴だし。黒川ひかりは魅力たっぷりの神レイヤーだし。あれ……そういえば黒川の下の名前ってなんだっけ? 今まで気にしたこともなかったけど……あ、(ひかる)だ。黒川(ひかる)。黒川……ひかる……。

「うわ、ひ……ぎゃあああー!!」

 私は両頬に手をあてて声の限りに叫んでいた。
 神様! いくら私の日頃の行いが悪いからってこの仕打ちはひどすぎるだろ! 大好きなコスプレイヤーの正体が、私と犬猿の仲のクラスメイトだった――なんて。