ガタン、ゴトンと電車が揺れる。
 鈴と花音とおしゃべりを楽しんだ私は、午後4時を回った頃にようやく帰路についた。まだ帰宅ラッシュというには早い時間だから、客車内はがらりと空いている。

 乗座席に腰かけ目的もなくスマホをいじる私の目に、とあるニュース記事が飛び込んできた。記事のタイトルは――『黒の魔女と白の街・アニメ化決定!』

「え、『黒魔女』アニメ化すんの? マジ?」

 私は目を皿のようにしてその記事を読みあさった。黒の魔女と白の街――通称『黒魔女』は、私は1年くらい前からはまっている漫画のタイトルだ。
 ――すべてが管理され、調和された近未来都市である『白の街』。その街で暮らす主人公の伊崎ニノの日常は、転校生としてやってきた烏屋ユクネとの出会いにより変わっていく。烏屋ユクネは数百年の眠りから覚めた『最後の魔女』であり、白の街の調和を壊すという使命を担っていた――

 最初の1冊は、電子コミックサイトの無料版を読んだ。ダークな世界観と魅力的なキャラクターたちに心を奪われ、気がついたときには紙コミックを最新刊まで揃えていた。
 老若男女とわず人気の作品だからいつかアニメ化するのではと期待はしていたが、まさかこんなにも早く期待が現実のものになろうとは。

「うわ……嬉し。放送いつからだろ」

 私はすいすいとスマホを操作して、いつも使っているSNSを開く。最新の情報をゲットしたいときにはSNSを頼るのが一番だ。

「#黒魔女アニメ化……お、盛り上がってんな。放映時期は……秋頃ってことはまだ半年は先か? なんにせよ胸アツすぎて今夜は寝れねー……」

 アニメ化が発表されたのは昨日の夕方のことのようで、SNS上はアニメ化を祝う人々の声で溢れ返っていた。
 ふと、ひとつの投稿が私の目に留まった。#黒魔女アニメ化から始まるその投稿は、内容自体はありふれたお祝いの言葉だ。しかし他の投稿と違うのは、アニメ化の記事を引用するではなく写真を一枚添付しているということ。

 その写真に、私は心を奪われた。

 黒魔女のキャラクターである烏屋ユクネのコスプレ写真だった。しかしただのコスプレ写真だというには完成度が高い。まるで烏屋ユクネが漫画の世界から飛び出してきたような錯覚すら覚えてしまう。
 腰まで伸びた黒髪には一本の乱れ毛もなく、白い肌の澄んでいて美しいこと。衣装の作り込みもさることながら、原作の烏屋ユクネを投影したミステリアスな表情まで完璧だ。

 すげー……コスプレって本気でやったらここまでできるもんなの?
 私はまばたきも忘れて烏屋ユクネのコスプレ写真に見入ってしまった。たかだか一枚の写真にここまで心惹かれたのは人生で初めてのことだ。

 コスプレイヤーの名前は――黒川ひかり。
 はやる気持ちを抑えながら、黒川ひかりのプロフィールページへと飛んでみる。

「んー……プロのコスプレイヤーではないのか? いや、コスプレにプロもなにもないか……ってフォロワー数が10万人⁉」
 
 思わず大きな声が出てしまったので、慌ててわざとらしい咳払いをした。幸いにも賑やかな電車の音にかき消され、周囲の人々が私の叫びを気にかけた様子はない。
 
 気持ちを落ち着かせてから黒川ひかりのプロフィールページを眺めてみたが、あまり多くのことはわからなかった。フォロワー数は多いが精力的な活動をしているコスプレイヤーではないようで、居住地や年齢といった個人情報はいっさい明かしていない。イベントへの参加頻度も高くはない。
 何となくだが、学生があまりお金をかけずに趣味でコスプレを楽しんでいる――という印象を受けた。

 いや、フォロワー10万人はもう趣味の域じゃないけどな。#黒魔女アニメ化の投稿なんて、リアクションが1万超えてんぞ。これが万バズってやつ?
 
 私は電車に揺られながら、夢中になって黒川ひかりのプロフィールページを眺めていた。たまたま見つけたコスプレイヤーに私はすっかり心を奪われてしまった。
 
「……この人のこと、もっと知りてぇな」

 小さな声でつぶやいて、アカウントのフォローボタンを押した。少しだけ期待してみたが、黒川ひかりからのフォローバック通知が届くことはなかった。

 ◇

 黒川ひかりの投稿を見ることは私の日課となった。
 毎日欠かさず投稿を見るうちにわかったことは、黒川ひかりは高校生の可能性が高いということ。というのも、投稿時間が土日と平日の午後3時以降に集中しているからだ。社会人ならこんな時間にSNSは開かないだろうし、大学生ならもう少し投稿時間がばらついているはず――そうして黒川ひかりの素性を探ろうとするくらい、私は彼女に傾倒していた。

「はい、本日の授業はここまで。次回は授業のはじめにミニテストをするから、今日の内容をよく復習しておくように」

 老齢の物理教師がそう告げると、生徒たちのあいだからは不満の声があがった。私も机に頬杖をつきながら「うげぇ」と顔をしかめた。不満たらたらで教科書を片付けていると、教室の扉のそばから物理教師の声が聞こえてきた。

「ああ……そうだ。出席番号6番と9番。実験道具を物理準備室まで運んでおくように」
「――え」

 9番は私の出席番号だ。びっくりして声をあげたときには、もうそこに物理教師の姿はなかった。指名した出席番号が誰かも確認しないまま、教室を出て行ってしまったようだ。

 えー……何でよりにもよって6番と9番なんだよ。あ、今日が6月9日だからか。うわ、ツイてねぇ。
 心の中でぐちぐちと文句を言いながらも、大人しく教壇の方へと向かった。ギャルグループの一員としてクラスメイトから恐れられている私だが、教師に頼まれた仕事をこなすくらいの分別はあるのだから。

「お、愛美。ご指名いただいたの? ツイてないねぇ」

 と揶揄うような鈴の声。うるせぇ、と悪態を返した。

 教壇の横には二つの段ボール箱が置かれていた。実験に使われた木製の板や、鉄球、測定器などがざらざらと詰めこまれている。
 私は少し悩んでから、より軽そうな方の段ボール箱に手を伸ばした。しかし私が段ボールに触れるより早く、誰かがさっと段ボール箱を持ち上げたのだった。

「おい!」

 声を荒げてその人物の顔を見た。するとそこに立っていたのは予想外の人物だった。

「……ん、黒川?」

 私の指先から段ボール箱をかすめとったのは黒川だった。だらしなく伸びた前髪と、顔半分を覆い隠す大きなマスク。放課後の教室で、私が黒川と口喧嘩をしたのはつい先週のできごとだ。

「何で黒川が……ああ、出席番号6番って黒川か。嫌な偶然だな――っておいこら! 私の段ボール箱を勝手に持っていくんじゃねぇ!」

 私はせわしなく黒川を怒鳴りつけた。私が狙っていた軽い方の段ボール箱を、黒川が勝手に持っていってしまおうとしたからだ。残されたもう一つの段ボール箱には、鉄球や測定器が詰めこまれ見るからに重そうだ。
 いやいや、こういうときは男子が重い方を持つのが普通だろ! 何でしれっと軽い方を持っていくんだよ! 常識ぶっとんでんのか!

 私は段ボール箱を奪い返すべく黒川に詰め寄った。しかし黒川は私の形相など気にかけた様子もなく、さらっとした調子で言い放った。

「何で俺が、相原に気をつかわなきゃなんねぇの」

 相変わらずぼそぼそと小さな声ではあったが、黒川の言葉は私に対する敵対心が込められていた。どうゆら先日の出来事をかなり根に持っているようだ。

 ああ……これはマジでツイてねぇ……
 敵対心を隠そうともしない相手を引き留めることなどできるはずもなく、私は呆然と黒川の背中を見送ったのだった。

 ◇

「ぐあぁー! 腹立つ腹立つ! 死ね、黒川!」
 
 私は黒川に対する暴言を吐き散らかしながら廊下を歩いていた。両腕で抱えているのは殺人的に重たい段ボール。もう窓からエイヤッと放り投げてしまいたい。

「……休憩すっか」

 私は溜息を零しながら重たい段ボール箱を置いた。
 もしも私がごくごく普通の女子生徒だったなら、こうして廊下を歩くうちに男子生徒が声をかけてくれたりするのだろう。「相原、重そうだね。俺が代わりに運んであげるよ!」などと言って。
 だけどギャルグループの一員として周囲から恐れられている私に声をかけようとする猛者などいるはずもなし。まさに身から出た錆、ということだ。

 イライラを鎮めるためにSNSを開いた。最近の私は、嫌なことがあると黒川ひかりのSNSを開くことが日課となっていた。
 そういえば黒川と黒川ひかりは同じ名字だ――と今さらながら気がついた。

「ん?」

 SNSのタイムラインを眺めるうちに、ある投稿が目に留まった。投稿時刻は今日の正午過ぎ――彼女にしては珍しい時間帯だ。

『週末の横浜コスプレサミットに参加します! 久しぶりのイベントなので楽しみ♡ 皆さん、イベント会場でお会いしましょう!』

 私はその投稿を何度も読み返した。読み返すうちにドキドキと胸が高鳴ってきた。
 横浜コスプレサミットは、テレビや雑誌でもたびたび取り上げられている有名なコスプレイベントだ。コスプレ界の情報には疎い人でも、漫画やアニメを楽しんでいれば一度くらいはその名前を耳にしたことはあるだろう。

 そのコスプレイベントに黒川ひかりがやってくる。つまりそのイベント会場に行けば、生の黒川ひかりを見ることができるかもしれないということ。

「うそうそうそ。黒川ひかりに会えんの? 横浜コスプレサミットって会場どこ……え、赤煉瓦倉庫? 特急に乗ればすぐじゃん」

 私は光の速さでイベントの詳細と会場へのアクセスを調べた。入場料はなし、一般人の参加もOK、交通費も往復で数百円程度。これはもう私に来いと言っているようなものだ。

「よっしゃ、行ってやるぜ! 待ってろよ、横浜コスプレサミットぉ!」

 私はさっきまでの怒りを忘れ、スキップをしながら物理準備室へと向かった。しかし喜びのあまり段ボール箱を廊下に置き忘れ、泣く泣く来た道を引き返す羽目になるのだった。