物心ついた頃から、自分はいつも的外れなことを言って誰かを傷つける存在だった。それに正式な名前がついたのは小学校六年生の夏だった。
大人に成長していく上でコミユニケーションは大事で、社会性は必須となっていく。それなのに、人の気持ちが理解できないという障害は、当然僕の足枷となった。
「空気が読めない」「場が白ける」「何もわかっていない」「気持ち悪い」
否定的な言葉を投げかけられるのは、人よりも数倍多かった。思春期に入ると、意図せず相手の逆鱗に触れてしまうことが度々あり、人間関係のトラブルは増えていく一方だった。母は僕が持ってくるトラブルにほとほと疲れ果てていて、父はあまり僕に関心を示さなくなった。
自分の人格が欠陥だらけだということは、僕が一番よくわかっていた。
だから、人の気持ちがわかるよう映画を山ほど観た。
僅かな表情の変化だけでなく、視線の動きや口調にまで気を配り、食い入るように観た。
泣くという行為が、悲しい感情だけで起きうるわけではないのだと知ったのも映画からだった。特に恋愛映画はあらゆる感情が詰まっていた。
僕は、人の気持ちがわからない。それでも、誰かを好きになるという気持ちが特別な感情だということは、恋愛映画をとおして知り尽くしていた。
恋愛をしてみようと思ったのは、好きがどういう気持ちなのか理解したいと思ったから。こんな僕でも、誰かに恋をすることはできるんじゃないかという興味も湧いたからだった。それが相手を利用する形になったとしても、いずれ好きになれるなら問題ないと思っていた。だから、僕は彼女に告白した────。
「ごめん、待ったよね」
僕の彼女、千崎由衣が当たり前のように僕の左隣に並ぶ。
「ううん」
「嘘つかなくていいよ、絶対に待ったでしょ。終鈴から軽く一時間は経っているし」
夏休み明けの二学期初日を迎える前日、彼女から【久しぶり。明日学校で話したい。放課後昇降口で待ってる】という一方的なメッセージが送られてきた。だが、約束の時間になっても彼女はなかなか姿を見せず、現れたのは終鈴が鳴った一時間後だった。
「だいぶ待った」
言い直すと、彼女は小さく笑みをこぼす。
「そうだよね。ホントごめん。担任に捕まっちゃってさ」
彼女は顔の前で合掌ポーズを作り、平謝りする。
こうして彼女と顔を合わせ、言葉を交わしたのは一ヶ月ぶりだった。夏休み中、七割の気まずさと三割の反抗で連絡を絶っていた。彼女からも連絡がくることはなかった。このまま自然消滅で終わるのかと頭に過った時、まだ煮え切らない想いがあることに気づいた。こままでは終われないと思った矢先、先に行動に移したのは彼女だった。
「それで、話って?」
「あー、うん、話、そうだよね」
早速本題に入ると、彼女は突然歯切れの悪い返答をして、もじもじとまごつきはじめる。
もう既に一時間は待たされているので、彼女が話し出すまでの時間くらい容易に待てる。急かさず大人しく待っていると、彼女がまた笑った。
「何かおかしかった?」
「いや、長谷部君は長谷部君だなって思っただけ。私が話しはじめるまで、ずっと待っててくれるんだろうなって」
「日が暮れたらさすがに帰るよ?」
言下に、彼女が声に出して笑う。そして、心を整えるようにフゥーっと息を吐く。
「あれから、鈴香とはちゃんと話したよ。好きって言ってもらって、ちゃんとごめんなさいって断った。さすがに夏休みは気まずくて会えないかなと思ってたけど、鈴香がバカみたいに連絡してきて、会ってもバカみたいに陽気で振る舞ってくれたおかげで、ちょっとずつだけど前みたいな関係に戻りつつある。……いや、前とそっくりな関係には多分もう戻れない。でも、新しい関係を築きたいとは思ってる」
告白を受け、あの日の彼女は関係が終わると言っていた。でも、今は前向きに友達と向き合っている彼女を見て、心の底からよかったと安堵する。
「私ね、たぶん恋愛感情を持てない体質なんだと思う」
天を仰ぎながら、ポツリと呟いた。
彼女のカミングアウトに驚きはしなかった。僕だって、人の気持ちがわからないという欠陥を持って生きてきたから。
「好きっていう感情がいまいちピンとこない。人として生きていく上で、恋愛の重要さがわからない。だから、鈴香が向けてくる恋愛感情が本当に怖かった。友達のままでいたくて、鈴香の気持ちを勝手に絶ち切らせようとした。鈴香にも、長谷部君にも最低なことをした」
彼女の視線が泳ぐように下りてくる。空から僕へと移すと、彼女はここに来てやっと僕の目を見た。
「長谷部君、傷つけてごめんなさい」
彼女の心からの謝罪をまっすぐに受け取る。
今までいろんな人に言われた否定的な言葉の数々を思い出す。人の気持ちがわからないのに、ちゃんと傷ついている自分が煩わしかった。でも、今彼女の心からの謝罪を受け、僕はずっと謝ってほしかったことにようやく気づく。
笑わないでほしかった。馬鹿にしないでほしかった。僕のことも傷つけたくせに、僕以上に傷ついた顔をしないでほしかった。
「長谷部君のせいじゃないから」
誰でもいいから、一人だけでいいから、僕のせいじゃないって言ってほしかった。
「長谷部君がいたから、私は鈴香とも自分とも向き合うことができた。こんなこと言うのは都合がよすぎるけど、長谷部君と付き合ってよかったと心の底から思ってる」
体のいたるところにつっかえて消えてくれない異物が、彼女の言葉であっという間に消えた。息がしやすくなって、体も心も軽くなる。
「ねえ、長谷部君」
光が弾く。空の青が透き通る。君が大丈夫と言うように笑う。
「長谷部君の話を聞いて、自分のことを見返して、ずっと考えてた」
「ん?」
「私が思うに、“好き”ってあらゆる感情の総称だと思うの」
「……え」
「伝えやすくするために二文字にしただけで、好きだけの気持ちなんてないよ。人それぞれ想いがあるように、好きに込められた感情や色や濃度も人によって違う。嬉しくても好きで、悲しくても好きで、痛くても好きなんだよ」
彼女が僕の手をそっと握る。あたたかい。
「長谷部君は、自分が誰かを好きになれるって信じたい、誰かに好きになってもらえるって信じたいってあの日言ったけど、信じたいって思った気持ちも、理解したいって思った気持ちも、それってもうすでに好きになってるってことなんじゃないかな。長谷部君の好きが、そういう気持ちだったってことなんじゃないかな」
信じたいって思う気持ちが“好き”になる。理解したいって思う気持ちも“好き”になる。彼女はそう言って微笑む。
「それで言ったら、私も今、長谷部君のことが好きだよ。長谷部君のこと理解したいし、信じてみたい」
そう言うと、彼女は僕を優しく抱きしめた。
「嬉しかったよ、理解したいって言ってくれて。好きって言ってもらえるくらい嬉しかった。ありがとう、長谷部君」
苦しくなるくらい、力いっぱいに抱きしめられた。
ああ、本当だったんだ。確かに、人のぬくもりは自分を突き動かす力を持っている。
瞬間、心が震え、涙腺が壊れた。
「私は、君が好き」
僕は、生まれてはじめてもらった“好き”を胸に大事にしまう。
「だから、私たち……別れよう」
「……うん」
僕は静かに頷いた。
この関係を終わらせられるのは、やっぱり由衣ちゃんだけだ。
彼女の別れの言葉を受け入れた時、彼女が「それで」と語を繋げた。
「新しくはじめよう」
「え」
「私たちの好きは手放さなくてもいいの。恋人とか友達とか、そういうのじゃなくても私たちなら大事にできるよ。だから、そばにいてよ。そばにいるから」
内側からじんわりとぬくもりが広がった。これが、“好き”なんだと知った。
日差しが散り、足元のアスファルトがキラキラと光っている。君が散りばめた光だと、僕は信じることにした。
[完]
大人に成長していく上でコミユニケーションは大事で、社会性は必須となっていく。それなのに、人の気持ちが理解できないという障害は、当然僕の足枷となった。
「空気が読めない」「場が白ける」「何もわかっていない」「気持ち悪い」
否定的な言葉を投げかけられるのは、人よりも数倍多かった。思春期に入ると、意図せず相手の逆鱗に触れてしまうことが度々あり、人間関係のトラブルは増えていく一方だった。母は僕が持ってくるトラブルにほとほと疲れ果てていて、父はあまり僕に関心を示さなくなった。
自分の人格が欠陥だらけだということは、僕が一番よくわかっていた。
だから、人の気持ちがわかるよう映画を山ほど観た。
僅かな表情の変化だけでなく、視線の動きや口調にまで気を配り、食い入るように観た。
泣くという行為が、悲しい感情だけで起きうるわけではないのだと知ったのも映画からだった。特に恋愛映画はあらゆる感情が詰まっていた。
僕は、人の気持ちがわからない。それでも、誰かを好きになるという気持ちが特別な感情だということは、恋愛映画をとおして知り尽くしていた。
恋愛をしてみようと思ったのは、好きがどういう気持ちなのか理解したいと思ったから。こんな僕でも、誰かに恋をすることはできるんじゃないかという興味も湧いたからだった。それが相手を利用する形になったとしても、いずれ好きになれるなら問題ないと思っていた。だから、僕は彼女に告白した────。
「ごめん、待ったよね」
僕の彼女、千崎由衣が当たり前のように僕の左隣に並ぶ。
「ううん」
「嘘つかなくていいよ、絶対に待ったでしょ。終鈴から軽く一時間は経っているし」
夏休み明けの二学期初日を迎える前日、彼女から【久しぶり。明日学校で話したい。放課後昇降口で待ってる】という一方的なメッセージが送られてきた。だが、約束の時間になっても彼女はなかなか姿を見せず、現れたのは終鈴が鳴った一時間後だった。
「だいぶ待った」
言い直すと、彼女は小さく笑みをこぼす。
「そうだよね。ホントごめん。担任に捕まっちゃってさ」
彼女は顔の前で合掌ポーズを作り、平謝りする。
こうして彼女と顔を合わせ、言葉を交わしたのは一ヶ月ぶりだった。夏休み中、七割の気まずさと三割の反抗で連絡を絶っていた。彼女からも連絡がくることはなかった。このまま自然消滅で終わるのかと頭に過った時、まだ煮え切らない想いがあることに気づいた。こままでは終われないと思った矢先、先に行動に移したのは彼女だった。
「それで、話って?」
「あー、うん、話、そうだよね」
早速本題に入ると、彼女は突然歯切れの悪い返答をして、もじもじとまごつきはじめる。
もう既に一時間は待たされているので、彼女が話し出すまでの時間くらい容易に待てる。急かさず大人しく待っていると、彼女がまた笑った。
「何かおかしかった?」
「いや、長谷部君は長谷部君だなって思っただけ。私が話しはじめるまで、ずっと待っててくれるんだろうなって」
「日が暮れたらさすがに帰るよ?」
言下に、彼女が声に出して笑う。そして、心を整えるようにフゥーっと息を吐く。
「あれから、鈴香とはちゃんと話したよ。好きって言ってもらって、ちゃんとごめんなさいって断った。さすがに夏休みは気まずくて会えないかなと思ってたけど、鈴香がバカみたいに連絡してきて、会ってもバカみたいに陽気で振る舞ってくれたおかげで、ちょっとずつだけど前みたいな関係に戻りつつある。……いや、前とそっくりな関係には多分もう戻れない。でも、新しい関係を築きたいとは思ってる」
告白を受け、あの日の彼女は関係が終わると言っていた。でも、今は前向きに友達と向き合っている彼女を見て、心の底からよかったと安堵する。
「私ね、たぶん恋愛感情を持てない体質なんだと思う」
天を仰ぎながら、ポツリと呟いた。
彼女のカミングアウトに驚きはしなかった。僕だって、人の気持ちがわからないという欠陥を持って生きてきたから。
「好きっていう感情がいまいちピンとこない。人として生きていく上で、恋愛の重要さがわからない。だから、鈴香が向けてくる恋愛感情が本当に怖かった。友達のままでいたくて、鈴香の気持ちを勝手に絶ち切らせようとした。鈴香にも、長谷部君にも最低なことをした」
彼女の視線が泳ぐように下りてくる。空から僕へと移すと、彼女はここに来てやっと僕の目を見た。
「長谷部君、傷つけてごめんなさい」
彼女の心からの謝罪をまっすぐに受け取る。
今までいろんな人に言われた否定的な言葉の数々を思い出す。人の気持ちがわからないのに、ちゃんと傷ついている自分が煩わしかった。でも、今彼女の心からの謝罪を受け、僕はずっと謝ってほしかったことにようやく気づく。
笑わないでほしかった。馬鹿にしないでほしかった。僕のことも傷つけたくせに、僕以上に傷ついた顔をしないでほしかった。
「長谷部君のせいじゃないから」
誰でもいいから、一人だけでいいから、僕のせいじゃないって言ってほしかった。
「長谷部君がいたから、私は鈴香とも自分とも向き合うことができた。こんなこと言うのは都合がよすぎるけど、長谷部君と付き合ってよかったと心の底から思ってる」
体のいたるところにつっかえて消えてくれない異物が、彼女の言葉であっという間に消えた。息がしやすくなって、体も心も軽くなる。
「ねえ、長谷部君」
光が弾く。空の青が透き通る。君が大丈夫と言うように笑う。
「長谷部君の話を聞いて、自分のことを見返して、ずっと考えてた」
「ん?」
「私が思うに、“好き”ってあらゆる感情の総称だと思うの」
「……え」
「伝えやすくするために二文字にしただけで、好きだけの気持ちなんてないよ。人それぞれ想いがあるように、好きに込められた感情や色や濃度も人によって違う。嬉しくても好きで、悲しくても好きで、痛くても好きなんだよ」
彼女が僕の手をそっと握る。あたたかい。
「長谷部君は、自分が誰かを好きになれるって信じたい、誰かに好きになってもらえるって信じたいってあの日言ったけど、信じたいって思った気持ちも、理解したいって思った気持ちも、それってもうすでに好きになってるってことなんじゃないかな。長谷部君の好きが、そういう気持ちだったってことなんじゃないかな」
信じたいって思う気持ちが“好き”になる。理解したいって思う気持ちも“好き”になる。彼女はそう言って微笑む。
「それで言ったら、私も今、長谷部君のことが好きだよ。長谷部君のこと理解したいし、信じてみたい」
そう言うと、彼女は僕を優しく抱きしめた。
「嬉しかったよ、理解したいって言ってくれて。好きって言ってもらえるくらい嬉しかった。ありがとう、長谷部君」
苦しくなるくらい、力いっぱいに抱きしめられた。
ああ、本当だったんだ。確かに、人のぬくもりは自分を突き動かす力を持っている。
瞬間、心が震え、涙腺が壊れた。
「私は、君が好き」
僕は、生まれてはじめてもらった“好き”を胸に大事にしまう。
「だから、私たち……別れよう」
「……うん」
僕は静かに頷いた。
この関係を終わらせられるのは、やっぱり由衣ちゃんだけだ。
彼女の別れの言葉を受け入れた時、彼女が「それで」と語を繋げた。
「新しくはじめよう」
「え」
「私たちの好きは手放さなくてもいいの。恋人とか友達とか、そういうのじゃなくても私たちなら大事にできるよ。だから、そばにいてよ。そばにいるから」
内側からじんわりとぬくもりが広がった。これが、“好き”なんだと知った。
日差しが散り、足元のアスファルトがキラキラと光っている。君が散りばめた光だと、僕は信じることにした。
[完]

