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 この日から長谷部君との連絡は途絶えた。同時に、鈴香は遠慮がなくなった。
 鈴香は、廊下で長谷部君とすれ違うと、絶対に声をかけるようになった。二日に一回の頻度で昼休憩を三人で過ごし、鈴香の口から「長谷部君」と話題が出る日も徐々に増えていく。明らかに長谷部君を意識しているのが見てとれた。
 一方、長谷部君は変わらず“私の彼氏”を演じつづけていた。律儀に、丁寧に。
 自分のしている行動が誰に対しても誠実ではないことくらいは弁えている。そして、彼も私と同類のはずだ。それなのに、彼からにじみ出る誠実さはずっと消えない。
 もしかしたら、本当の彼こそが誠実な彼なのかもしれない。こんな私に情を抱いてしまうほど、彼は根からどうしようもなく優しい人で、私が別れたいと言うまで、なんだかんだ付き合ってくれるのではないか。そんな浅はかな考えまで浮かぶようになっていた。


 今日は終業式だった。明日から夏休みに入る。そんな日に限って日直に当たってしまうような不運を持っている私は、すぐには帰れないことを鈴香に話すと、逆に今日の部活はミーティングだけで早く終わるという鈴香と帰り時間がうまい具合に重なることで、急遽カフェでお茶して帰ることに決まった。
 私は、職員室に日誌を渡し終え、鈴香を待つためまた教室に戻っていた。
 ふと窓から空を見る。今にも泣き出しそうな雲が、辛うじて残っていた最後の青の欠片を隠し、いつ降ってもおかしくない曇り空へと移り変わった。
 「雨、降らないといいけど」
 放課後の静謐感を纏った廊下でひとりごちる。その時、ポツ、ポツと音を立て、窓に水滴が付着する。私の一言が引き金となったように、雨が降り出した。最悪だ。
 雨が降ると、途端に何もかもが嫌になる。
 私は覚束ない足取りで廊下をまた歩きはじめた時、
 「何言ってんの!」
 悲鳴に似た怒声が、扉の開いた教室から聞こえてきた。聞き覚えのある声に息を呑む。背筋から悪寒が走るような不穏な空気は、離れたこの距離でも十分に感じ取れる。劈く声は私を急き立たせるかのように歩みを促す。
 走って駆け寄った教室内の光景に、私は眉根を寄せた。この目に映るのは、床に尻もちをついている長谷部くんと、その長谷部君を鬼の形相で睨みつける鈴香だった。さっきの怒声は鈴香の声で間違いないはずだ。
 尻もちをついている長谷部君に視線を移す。彼の周囲は乱れていた。私がついさっき綺麗に並べた机は歪み、椅子は背もたれが床に寝転がった状態で倒れている。惨状を見ても理解できず、ただただ混乱していた。
 「だから、僕達は好き同士じゃないから、こんなことしても無意味だって言ってるの」
 私に気づいていない二人が、状況が読めない話をつづける。
 「……二人とも、どうしたの?」
 恐る恐る声を出した。
 私を見た鈴香の目からは、怒りと憎悪が入り交じったような色を感じる。
 「由衣と長谷部君って、お互い好きじゃないのに付き合ってるの?」
 喉が唸る。
 彼がついに話したのだ。今まで私の身勝手に付き合ってくれていたから、彼も別れるつもりはないのだと勝手に思っていた。だが、復讐というものは相手が油断しはじめた最悪なタイミングで明かすもの。結局、彼は私を許してはいなかったのだ。
 「ねえ、由衣。本当なの?」
 さらに追求され、わかりやすくも視線を逸らしてしまう。逸らした先には長谷部君がいた。まっすぐに私を見据えている。今まで彼を利用して散々逃げた。だけど、彼が手のひらを返した今、ここが潮時で限界だった。逃げ惑えるほどの足場はもう残されていない。
 「そうだよ」
 意を決し、答えた。
 鈴香は面食い、その動揺は怒りとなって長谷部君へと矛先を向ける。
 「長谷部君から告白したって言ってたよね?もしかして由衣を脅したの?好きでもない由衣を無理やり彼女にして、何かひどいことする気だったんでしょ?何したの!由衣に何をしたの!」
 自我を失った獣のように声を荒らげると、鈴香は近くにあった黒板消しを長谷部君に投げつけた。チョークの粉が彼の制服を汚し、白い跡が残る。それでも彼は動じない。
 「鈴香!」
 「由衣のこと傷つけたの!?ねえ!どうなの!」
 慌てて鈴香の腕にしがみつき暴走を止めようとするが、あっという間に振り払われてしまう。
 「鈴香ちゃん、僕の話ちゃんと聞いてた?由衣ちゃんも最初から僕を好きじゃなかったんだよ。それについては何も不審に思わないの?」
 長谷部君は、付着したチョークの粉を叩きながらゆっくりと立ち上がった。
 怒り心頭の鈴香の動きが止まる。
 「それに、君だって今、由衣ちゃんを傷つけようとしていたじゃないか」
 鈴香の喉が上下にゆっくりと動いた。怯えたように息を呑んでいる。
 「僕にキスしようとしたくせに」
 「え……」
 「由衣ちゃんが教室に戻ってくるのを知ってて、わざわざ僕をここに呼び出したんでしょ?キスしてるところ見せつけて僕たちを別れさせる計画でも企てていたのかな。揃いも揃って、似た者同士だね」
 長谷部君は私たちを嘲笑いながら、机に腰かける。
 「女の子ってみんな牽制したがる生き物なんだね。誰かのことを利用してでも優位に立ちたいとか、どっちが“気持ち悪い”んだか」
 そういうんじゃない。
 喉まで出かかった言葉を飲み込んだ時、「そんなんじゃないから!」と代弁するように鈴香が声を上げた。
 「私は確かに気持ち悪いかもしれないけど、由衣は違うから」
 ダメ。それ以上は言わないで。
 そんな念を送るが、当然鈴香の口が閉じたりはしない。
 「私は、二人が付き合っているのが嫌だったから、見ていて辛かったから、長谷部君と私がどうかなれば由衣から別れを切り出してくれるって、そう思って……」
 徐々に口篭っていき、最後は消えるように鈴香の声は空気中に溶けていく。そのまま溶けて、消えてなくなれ。そう願うものの、長谷部君のせいでその願いは打ち消され、明かされることになる。
 「どういうこと?」
 この期に及んで、長谷部君は消えた先の言葉を追求した。それが鈴香の後押しになったのか、覚悟を固めた表情で私を見据える。息を吸った瞬間、
 「やめて────」
 たまらず拒んだ。
 向き合わなければいけないという気持ちと、聞きたくないという気持ちがせめぎ合い、殺したような低い声が出た。まさに切実のような声だった。
 私の反応に鈴香が恐れたように口を閉じるが、それでも彼は逃さない。
 「鈴香ちゃん、言って」
 「鈴香、やめて」
 「言えよ」
 「やめてってば!長谷部君には関係ないじゃん!」
 「関係あるよ。僕は巻き込まれたんだ、聞く権利くらいある」
 彼は厳然たる態度で私たちに反発する。
 みんな肩で息をしていた。恐怖、怒り、苦しみといった感情が、それぞれの乱れた呼吸から伝わってくる。声にならない叫びってこういうことなのかもしれない。
 「暴こうとしないでよ、言おうとしないでよ。私は聞きたくないんだよ」
 だから、今まで好きでもない人と好きでもないことをしてきたんだ。優位に立ちたいとか、優越感に浸りたいとか、そんな劣等感と戦ってきたわけじゃない。私は、ただこの関係に異様な風が吹くのが嫌だっただけだ。
 それでも、気持ちというものはそもそも明かされるために存在していて、明かされてはいけないものなんてない。だから────。
 「好き」
 雨音の中で解き放たれた言葉は、濁ることなく綺麗に響いた。多分、あらゆる感情の中で一番鮮やかで純粋で綺麗で優しい感情。でも、私にはどうすることもできない感情。
 私は心を決めて、鈴香を見た。
 泣いていた。鈴香の頭上にも雨雲が浮かんでいるんじゃないかと思うくらい、頬が濡れていた。
 「私だって、言うつもりなんてなかった」
 握った小さな拳が震えている。力を込めても震えてしまうほど怖いのだろう。
 「由衣が好きなんて、こんな感情を向けられても由衣を困らせるだけだって、ちゃんとわかっていた」
 「じゃあ、言わないでよ」
 「無理だよ。押し込めてもこの気持ちが消えるわけじゃない。呆気なく付き合えている長谷部君に嫉妬だってするし、早く別れてしまえって最悪なことを願ったりする」
 鈴香は溢れる涙を何度も両手で拭う。
 可愛い顔を崩してまで泣きじゃくれるほど誰かをこんなにも好きになれる鈴香のことが、私はまったくわからなかった。途端に、自分が冷酷非情な人間に思えてくる。だから聞きたくなかった。
 「長谷部君とキスしてるところを見て、嫉妬が爆発した。どうせ伝えられないし、どうせ実らないし、この恋に未来なんてない。だったら、最悪な形でもいいから長谷部君よりも強く由衣の記憶に残りたいって思った。間違ってる言動だとわかっていても、私はあえて自分の暴走を止めなかった。それくらい由衣が好きなの」
 どれだけの想いがあったとしても、私には受け止めることができない。だから、長谷部君と付き合ったのに。長谷部君と付き合えば、鈴香は嫌でも私への想いを断ち切るはずだと思っていた。でも、そう簡単ではない。自分の感情が制御できないように、人の感情も操ることはできないのだ。
 「ずっと友達じゃダメだったの?それって友達の関係にヒビが入っても言わなきゃいけないことなの?」
 「言わないと終われないから」
 「言ったら本当の意味で終わるんだよ。私は鈴香とずっと友達でいたかったんだよ。だから、長谷部君と付き合って、鈴香の前でわざと見せつけるようなことまでしたのに、どうして言っちゃうの。言ったら、私は鈴香を傷つけないといけない。一度傷がつくと、そう簡単には治らないんだよ。明日になったら忘れて、今までどおり接することなんて簡単にはできないんだから」
 「それでも私は、この恋を終わらせたかった」
 噛み合わないと思った。
 私と鈴香では、やっぱり見ている場所が違っている。結局私がしてきたことはただの逃げで、無意味なことだったのだと思い知る。
 「いい加減にしてくれない?」
 その時、長谷部君の冷めた声で我に返る。空気は一気に凍りつき、全身が粟立った。
 「要するに、鈴香ちゃんは由衣ちゃんが好きで、その気持ちに由衣ちゃんも気づいていて、どうにか諦めてほしくて由衣ちゃんは僕の告白を利用した。でもそれはうまくいかず、また僕は鈴香ちゃんの暴走に巻き込まれた。こういうこと?」
 流れをいざ整然してみると、私たちがいかに長谷部君に不誠実だったかを思い知らされる。でも、それはお互い様だ。
 「マジでなんだよそれ。何してくれてんの。僕が二人に費やした時間、返してくれよ」
 「好きでもないのに告白してきたのは長谷部君でしょ。そもそも長谷部君が告白してこなければ、全部始まらなかったのに」
 鈴香が負けじと言い返す。
 「は?僕のせいだって言いたいの?」
 「そんなことは言ってないけど、お互い様でしょ」
 鈴香も私と同じことを口にする。私たちは間違っているけど、長谷部君も間違っていた。間違い同士なのだから討論しても結果は“間違っていた”にしかならない。それならお互いの間違いを容認すれば丸く収まる。そこまで気を揉む必要はない。
 「ふざけんなよ!」
 突然、長谷部君が声を荒らげた。ハッと目が覚めるような、彼の怒声が教室内に響く。彼がここまで憤慨するのは初めてだった。
 「二人とも僕の知らないところで僕を利用したくせに、都合が悪くなった時だけ同罪みたいに言いやがって。ずるいだろ!」
 さっき鈴香が投げつけた黒板消しを掴み、彼もまたそれを放った。私と鈴香の間を切り裂くように投げ込まれ、壁にぶち当たった黒板消しがカコンと音を立て床に転がる。
 「お互い様ってなんだよ。僕のついた嘘と、二人がついた嘘を一緒にするな」
 「一緒だよ!好きじゃないのに好きって言った!私たちは好きを偽ったんだよ!」
 「違う!」
 彼が、言下に一蹴する。
 「最初は確かに好きじゃなかったけど、好きになりたいと思って告白した。好きになれると思って努力した。君にも僕を好きになってほしくて、だから必死に君を知ろうとした。君の味方でいられるような僕でいれば、好きになってもらえるって思ったから」
 彼は胸元近くのシャツを掴んで、心を明かす。その心は、震えるほど純粋無垢だった。
 「人の気持ちがわからない僕でも、誰かに好きになってもらえるって信じてみたかった。こんな僕でも、誰かを好きになれるって信じたかった」
 顔を歪め、自分の気持ちを訴える。
 彼の告白は嘘だったけど、彼の言動が今まで出会った人の中で誰よりも誠実であったことは揺らぐことのない事実として私の心にあった。
 私は、彼が言った『誰でもよかった』を悪いほうに履き違えていたのかもしれない。その奥にある本当の気持ちに触れようともしていなかった。
 「僕の気持ちと、君らの気持ちは違う」
 私と鈴香では見ている場所や方向が違うように、私と長谷部君も違っているのは当たり前だった。
 「違うってわかって、違うなりに君らの気持ちを受け止めて理解しようと思った。だけど、二人は僕がどういう人間か知ろうとも思っていないのがわかっただけだった。人はそこまで人に興味を持っていないから」
 “人はそこまで人に興味を持っていない”
 冷たく聞こえるが、揺るがない事実であり、現実だった。
 結局のところ、みんな一番自分がかわいい。自分のことばかりを尊重する。誰かに自分を理解してもらいたいから、受け入れてもらいたいから、本当は興味もないくせに他人の事情に耳を傾け、理解しているフリをする。そうやってみんな綺麗事な関係を築いている。
 彼は、そんな私たちの見せかけに傷つけられたのだ。
 「由衣ちゃんは僕と付き合ってからも、こうなってしまってからも、僕がどういう人間か知ろうとしてなかったでしょ。なのに、由衣ちゃんはこんな僕を『気持ち悪い』って言ったよね」
 何かがズレている彼を気味悪いと感じ、思わず言った台詞だった。道徳心の欠けらもない一言。
 「由衣ちゃんだけじゃないよ。昔の僕は欠陥部分を隠す方法を知らなかったから、いろんな人に『気持ち悪い』って何度も言われてきた。『空気読めない』『場が白ける』『何もわかってない』。散々の言われようで、それでもめげずに理解したいって思って人と関わってきた。傷つけられても平気なフリして生きてきた。でも、人と関わる度、人はそこまで人に興味を持っていないことを思い知らされるだけだった。みんな言うだけ言って、誰も僕と向き合おうとしてくれなかった。同情するだけして、誰も踏み込んできてはくれなかった。いつも僕の努力はなかったことにされる」
 どうせ私の気持ちなんて他の人にはわからない。簡単にわかると首肯されることにすら抵抗感を覚えていた。そんな私の隣で、彼は必死に人の気持ちを理解しようとしていた。私に理解してほしくて、向き合ってほしくて、踏み込んでほしくて、誠実でありつづけていた。
 「それでもやっぱり、僕は信じたかった。僕のことを心の底から理解してくれる人が現れるはずだって」
 どうしてここまで信じたいと希望を持てるのかわからなかった。彼のあまりにも純粋すぎる主張は、私には痛々しく見えて……いや、眩しくて目を向けられなかった。
 ずっと彼から誠実さが消えなかったのは、彼が私を信じていたからだ。それなのに、私は自分のことばかり考えて、彼を無意味に縛りつけた。
 恐る恐る顔を窺うと、彼は私を睨むように見ていた。その目には水の膜が張っていて、溢れないよう必死に耐えている顔だと気づいた時、遅すぎる罪悪感が湧いた。
 「二人のこと『気持ち悪い』って言ったけど、本当はそんなこと思ってない。ただ羨ましかっただけなんだ。……ごめん」
 彼は、傷ついた顔をして、こんな時でも傷つけた私たちのことを思いやる。
 「僕から見れば、二人は贅沢だよ。心から好きだと言える鈴香ちゃんも、好きになってもらえる由衣ちゃんも」
 彼の慟哭のような叫びが、耳奥で響いた。
 どうして気づかなかったんだろう。
 長谷部君の今までの言動で泣くほど傷つけられたことは一度だってなかった。なのに、私は彼にこんな思い詰めた顔をさせるまで傷つけていたことに、どうして今まで気づけなかったんだろう。自分の痛みには敏感で、他人の痛みには鈍感だった。
 「大事にしなよ、二人とも」
 目は泣いていて、口元は笑っていた。その表情に、罪悪感で胸が締め付けられた。
 私は、彼の「理解したい」という想いをずっとないがしろにしてきたのかもしれない。