*

 顔を上げると、長谷部君が私を見ていた。
 昇降口、上履きに履き替えようとしている彼に偶然にも鉢合わせる。まっすぐに私を見据えたその目には何の感情の色も見えない。
 「……おはよう」
 よく挨拶できるなあ、と自分で自分の図々しさに引く。
 その時、背後から誰かが私の肩を叩いた。振り返った瞬間に、右腕を持っていかれる。
 「おはよ!由衣!」
 朝の気だるさなんてどこ吹く風で、いつでも陽気で明るい鈴香が私の右腕にしがみついていた。蛇のように右腕に巻きつき、力任せに振り回しても離れてくれない粘着さだった。
 「あっ、長谷部君もおはよ~!」
 私の腕にしがみついたままの鈴香が、私ごと引っ張って長谷部君に駆け寄る。
 「今日も二人で仲良く登校なんて相変わらず仲良しカップルだね~」
 いつもの鈴香の冷やかしは、彼の前でも健在だ。
 「ちょっと鈴香」と諫めるが、そんな軽い注意で鈴香が黙ることはない。私を無視する形で「そういえば」とつづける。
 「私のこと知ってる?」
 鈴香の突然の質問に、彼は面食らう。
 「やっぱり知らないのか、なんかショックだな。私はいつも由衣から惚気話聞かされていて長谷部君とは初めてな感じしないのに!」
 一瞬だけ私を一瞥し、すぐにまた逸らされる。その僅かな視線だけで、私への不信感を彼が募らせているのだと気づく。昨日の出来事がなければ、鈴香の発言に対し不審がることはなかったはずなのに。
 「改めまして、由衣の友達の鈴香です!私の大事な友達の彼氏である長谷部君とはずっと話してみたかったんだ!なのに、由衣がいつも私のことのけ者にして、なかなか会わせてくれなくて悲しかったから今日やっと自己紹介できて嬉しい!」
 天真爛漫に笑いかける鈴香を横目に、彼が余計な事を言わないかハラハラしていた。だけど、そんな心配をよそに彼は爽やかな笑顔を作って自己紹介に応じる。
 「僕も、由衣ちゃんの友達と話せるの嬉しいよ」
 「え~!紳士的!」
 鈴香が、周りの視線に憚ることなく黄色い歓声を上げる。
 「ちょっと声大きいから」とまた諫めても、鈴香が周りの目なんか気にしないことはとうにわかりきっていた。諦めて二人の会話をしばらく静観していると、鈴香が突然の行動に出る。
 「でもでも」
 そう言いながら、一瞬にして彼に距離を詰める鈴香。なるべく彼の耳元に顔を近づける。止める間も与えないまま、遊ぶように今度は声量を抑えて彼の耳元で囁いた。
 「キスする場所は考えたほうがいいよ」
 突拍子のない鈴香の発言に、彼の目の温度が下がるのを感じた。
 「昨日たまたま見ちゃったんだよね、二人がここでキスしてるところ」
 言われるとは思っていたが、まさか早々にぶっこんでくるとは予想していなかった。しかも、彼の前で。
 私は、あの場に鈴香がいることを知っていた。それだけじゃなく、あのキスは鈴香に見せるためのキスだった。そんなことを知らない彼が、また色のない目で私を見る。
 「二人がラブラブなのはいいことだけど、学校でキス現場を見せられる私の身にもなってよね!それが由衣と長谷部君だって気づいて、なおさら気まずかったんだから!」
 「まさか鈴香に見られちゃうとは思わなかったよ、ごめん忘れて!」
 「忘れられるわけないでしょ!由衣なんて首に腕回してさ」
 「そんなことしてないよ!」
 「いーやっ、してたね!この目でバッチリ見たんだから!」
 まさか見られていたなんて、という体で私は恥ずかしさを装った。私の思惑通りに事が進んだことが誰にも悟られないよう自然な振る舞いを演じた。
 私はずるい。この学校にいる誰よりも卑怯だと思う。
 それでも私は、今ここで長谷部君を手放すわけにはいかないのだ。
 何か言いたげな長谷部君と別れ、私は鈴香と教室に入る。互いに席に荷物を置くと、いつもと変わらない顔で鈴香は私のところまで来る。前席の椅子を勝手に使い、私と向かい合う形で腰を下ろす。
 「ねえ、長谷部君ってちゃんと避妊してくれてる?」
 一応鈴香なりに声量を極限まで抑える配慮はしてくれていたようだが、それでも時速百キロ越えの暴速球のような一言が飛んできて面食らう。
 「誠実だろうなって思ってたのに、学校でキスするなんて意外にも性欲あるタイプ?心配なんだけど。やっぱり別れたほうがいいんじゃない?何かあってからじゃ遅いし」
 長谷部君に対して不穏な空気が流れると、決まって鈴香は“私たちが別れること”で最終的に話を着地させようとする。目いっぱい別れたほうがいいことをほのめかす。今日もそれは変わらない。
 「大丈夫だから、ちゃんと誠実だよ」
 「……ならいいんだけど」
 語尾が消えていく。納得のいかない頷きだった。
 何度も見逃してきた私は、「そういえば」とまた新しい話題を出して空気を切り替える。
 どうか。どうか早く、とひたすら願っていた。
 長谷部君から連絡が来たのは、朝のHR中だった。今の時間はどこの教室も朝のHR中だ。真面目な彼が、休憩中以外に私にメッセージを送ってくるのは初めてのことで、スマホを手に持ったまま戸惑った。
 机の死角で手元を隠し、こっそりスマホを操作する。彼からのメッセージには【僕に言わないといけないこと、あるんじゃない?】と綴られてあった。
 多分確信には至っていない。ただ、なんとなく私の企みに気づきはじめているような気がした。そっと息を呑む。
 なんて返信すればいいのか悩んだ末、一旦返信することを放棄した。彼と迂闊に会って、別れを切り出されたらもう受け入れるしか道はないから。今はまだ駄目だ。まだ彼とは別れられない。彼じゃないといけない理由は明確にはないが、始めたからには最後まで折れるわけにはいかない。じゃないと、これまでの私の苦労も頑張りも無駄になってしまう。
 ハッとした。長谷部君も『由衣ちゃんが僕を理解して肯定してくれないと、僕の今までの頑張りが無駄になるでしょ』と言った。それと同じ気持ちを私も抱いている。
 私は、彼を気持ち悪いと罵れる立場ではなかったのだ。
 午前の授業はほとんど身が入らなかった。
 もはや誰に対してかもわからない罪悪感と、それでもやり遂げなければという使命感が交互に顔を出す。返信を放棄したままのスマホは引き出しの奥で眠っている。
 「由衣、弁当食べよう~」
 小さな弁当箱を持って現れた鈴香はいつもと変わらない。それすらも苛立つ自分がいる。
 鞄から弁当箱を取り出したタイミングで、「由衣ちゃん」とクラスメイトに声をかけられる。
 「彼氏来てるよ」
 え。
 扉に視線を移すと、爽やかな笑顔で立っている長谷部君がいた。
 「一緒に弁当食べない?よければ、鈴香ちゃんも一緒に」
 今までにおいて、彼が私の教室に迎えに来ることはなかった。
 事前に待ち合わせ場所を決めていたし、借り物をするときは必ず連絡を入れていた。
 私たちが付き合っていることはすでに周りに知れ渡っていたが、だからといって堂々と二人で肩を並べ、学校内を歩くのは気が引けた。知られていても、周囲の目が気にならないわけではなかったから。なるべく目立つ行動は避けたいという私の要望に、彼は紳士に受け止め、それが今まで破られることはなかった。
 でも、今日彼はあえてこの行動を取った。────いや、違う。学校でキスをしたのは私からだ。破ったのは私が先。
 「いいね!食べようよ!」
 鈴香はすぐさま快く承諾し、私の手を取った。
 三人で廊下を歩きながら「どこで食べる?」という鈴香の問いかけに、「食堂にしよう」と人気の多い目立つ場所を彼が提案する。
 案の定、食堂は生徒で溢れかえっていた。長谷部君が学校内ではちょっとした有名人なこともあるせいでチラチラと視線を向けられる。端の席に座ったが居心地は悪い。
 それぞれの弁当を前に、私たちは手を合わせる。
 「私まで誘ってくれて嬉しい!」
 「由衣ちゃんが友達の前では普段どんな感じか気になっていたし、朝に挨拶したからこれはいい機会かなと思って誘ったんだ。急だったのに、こちらこそ来てくれてありがとう」
 「奇遇~!私も由衣が彼氏の前ではどんな感じか見たかったんだ!」
 私を置いて、二人は会話を弾ませる。今までにない居心地の悪さに、早く食べ終わって解散したいのにご飯がうまく喉を通っていかない。
 私は彼に目配せするが、彼はちらりともこちらを見ない。
 『別れたくない』と言い逃げし、返信すら既読無視なことに怒っているのだろうか。彼の質問をはぐらかし、自分勝手な行動ばかりをとる私は彼に見限られて当然だ。今、私は彼の反逆を受けているのかもしれない。
 「鈴香ちゃんの前で、由衣ちゃんは僕の話をするの?」
 「それはそれは、もうお腹いっぱいになるくらい!」
 「ちょっと、そんなにしてないでしょ」
 ちゃんと突っ込んだ。
 鈴香の話は大体盛られているが、彼はそんなことを知らないから。
 「逆に、長谷部君の前で由衣は私の話題とか出したことある?」
 彼だけじゃなく私にも問うように、鈴香は視線を交互に向ける。
 「それは」
 「友達と遊んだ話とかは聞くことあっても、鈴香ちゃんの名前は出たことなかったかな」
 私の声を遮り、彼がつらつらと答える。
 決して、彼が嘘を言っているわけではない。私が意図的に鈴香の名前を出さなかっただけで、彼の話したことは真っ当な事実だ。だからこそ、否定も言い訳もできない。
 「そうなんだ……」と鈴香が急に盛り下がるような相槌を打つ。
 空気が淀むのを感じた。
 「まあ、僕も友達の名前をいちいち出したりしないから。互いに知っているならまだしも、交友関係もないのに知らない名前出されたって、ふーんって感じになるだけだから」
 「そうだよ。鈴香がいない場所で鈴香の名前を出すのは鈴香が嫌がるんじゃないかと思って、あえて友達って言っただけだよ」
 彼の発言に乗っかる形で言い逃れようとする。
 「でも、いつも私、長谷部君に会いたいって言ってたんだよ。紹介してって」
 それでも引かない鈴香。
 「そうだったんだね」
 「私、もしかして警戒されてた?私が二人の関係を邪魔しちゃうんじゃないかって」
 「そんなことないと思うよ。むしろ僕が警戒されていたのかも。僕が鈴香ちゃんを好きになっちゃうんじゃないかって」
 「……どっちも、変なこと言わないでよ」
 冷房がガンガンに効いた食堂で、汗が背筋を伝う。
 「ごめんごめん、ちょっとした悪ふざけだよ」
 鈴香は軽く非を詫びて、丸いミートボールを口に入れる。鈴香の小さい弁当箱を覗くと、まだ半分も食べ終えていなかった。
 「そういえば、長谷部君にずっと聞きたかったことがあって」
 「なに?」
 「ぶっちゃっけ、由衣に一目惚れしたんでしょ?」
 飲み込もうとしたおかずが鈴香の発言でむせ返る。慌てて水筒の水で流し込んだ。
 「ちょっと、何言ってるの!」
 「だって、由衣も気になっていたでしょ?二人は付き合うまで面識なかったのに、急に長谷部君に告白されるって、それってもう長谷部君が由衣を一目惚れしたってことしか考えられないじゃん!」
 当時はわからなかったけど、今はもう知っている。
 『一目見た時、あまり自分の意見を主張しなさそうに見えたから。人の意見に流されて生きてきたような内気な子なら誰でもよかった』と惨いことを悪びれる様子なく教えてくれたから。
 彼が正直に答えてしまうんじゃないかと気が気じゃなかった。
 鈴香の興味津々な問いに、彼は唸り声を上げしばらく沈思してから答えた。
 「なんとなく目についたんだ、それが一目惚れだったのかも」
 「ほら~やっぱり!」
 その真の意味を知らない鈴香は、黄色い声を上げて私の肩をバシバシ叩く。
 物は言いようだなと彼に感心すら覚える。
 その後も、鈴香の踏み込んだ問いはつづいたが、あくまで私を好きでいるという彼氏の立場を崩すことなく、長谷部君は軽やかに返していった。
 「なんか色々聞いちゃってごめんね」
 結局、昼休憩が終わる五分前に食堂を出た。
 三人で廊下を歩きながら、唐突に鈴香が手を合わせて平謝りする。
 「でも、二人がめっちゃ仲いいことが知れてホッとした!」
 「ホッと?」
 「ほら、だって長谷部君って学校の有名人だし、狙ってる女の子多いから、恋愛未経験の由衣にはちょっとハードル高いんじゃないかって思ってたの。由衣が傷つくのは友達として見たくなかったから、長谷部君が本当はチャラチャラしている人だったら速攻別れさせようと決めてたんだけど、噂通りのイイ人でよかった!」
 彼が誠実な心を持ったただの紳士な人だけではないということは、私だけが知っている。弱みにもできるその秘密を知っていても優越感には浸れない。こんな秘密を私は欲していない。
 「それならよかった」
 彼は結局、最後まで鈴香の前で誠実な彼氏を演じつづけた。
 私たちの関係性なんて、長谷部君が「別れた」と言ってしまえば終わるような脆く弱い線のはずだ。なのに、彼はここでもその線を切ろうとはしなかった。
 「長谷部君やっぱりイイ人だったね」
 鈴香は、自分の教室へと戻っていく長谷部君の姿を見送りながら言った。
 「あんなイイ人が彼氏って羨ましいなあ。私もあんな彼氏ほしいよ」
 「……本当に、彼氏ほしい?」
 そう尋ねると、鈴香は私と目を合わせず「うん」と頷いた。その横顔に焦燥感が走る。
 「あ、ちょっと長谷部君に言い忘れたことあった。ちょっと追いかけてくる」
 「えっ、でももう予鈴鳴るよ!」
 次の休憩でいいじゃん、と手を掴まれる。
 「すぐ戻る」
 私は鈴香の手を振り払い、教室を飛び出した。先で見える長谷部君の後ろ姿を追いかけ、彼が教室に入るギリギリで腕を掴んだ。そのまま止まることなく彼を引っ張り、教室を素通りする。人気の少ない場所まで移動し、ようやく彼の腕を解放する。
 「ねえ、何考えてるの?」
 グイッと顔を近づけた。
 「弱みでも握ろうとしてるの?それとも気持ち悪いってひどいこと言った腹いせに何か復讐しようって企んでる?」
 微動だにせず彼は私を見下ろす。今の彼からは、鈴香の前で見せていた誠実さは微塵も感じられない。焦りと、彼に対する苛立ちを悟られないよう、なるべく冷静さを装うが洩れ出る呼吸が震えていた。
 「由衣ちゃんこそ何を考えているの?別れたくない理由って、もしかして鈴香ちゃんに関係してる?」
 何も気づかれたくないのに、表情は顔に出てしまう。
 「僕を、利用しているんだね」
 「それはお互い様だよね。長谷部君だって、私のこと好きじゃなかったのに告白したでしょ?好きじゃないのに、好きなフリして私を騙したよね?」
 「僕と、君は違う」
 「どこが!?」
 興奮して声が上擦った。
 私たちは、意図せずして互いに互いを利用する形で恋人関係を築いていた。それなのに、自分の行いだけ正当化しようとしている彼に腹が立った。
 「僕は、君のことを好きになろうと努力した。でも、君は自分の優越感のために僕を利用している。昨日の行動は、鈴香ちゃんに見せつけたいためだけの打算的行動だった。そうだろ?だから、突然キスをした。……違う?」
 言えない。言わない。私は唇を噛み、都合の悪い質問だけ無言を貫く。そんな私の様子に、彼は小さく息を吐いた。
 「これでも僕は、君の気持ちを理解したいと思ったんだ。君に僕のことを理解してほしいと思ったから」
 俯いていた顔を上げると、彼と目が合う。その表情に息を呑んだ。
 彼が、今にも泣き出しそうな顔をしていたから。
 「君に『気持ち悪い』って言われても、それでも僕は『別れたくない』って言った君のことを理解しようと思ったんだ。だから今日会いに来た。でも、君は僕に興味なんてなかった。やっぱり人はそこまで他人に興味がないんだって思い知らされただけだった」
 そう吐き捨てる彼は、酷く憔悴しているように見えた。その顔が無性に癪に障った。
 「自分だけ被害者ぶらないでよ。そっちだって最初は私のことなんて見てなかったくせに。誰でもよかったって言ったくせに。好きになる努力したとか都合のいいことばっか言って、自分の過ちを正当化させようとしないで」
 「そんなこと」
 「結局、私たちはどっちもお互いのことを好きにならなかったんだから同類なんだよ。自分だけ歩み寄った気にならないでよ。そもそもこの関係をはじめたのは長谷部君なんだから、私に利用されていても自業自得でしょ」
 勢いのまま捲し立てた。こんなのは、ただ自分の非を認めたくない頑固者たちの罪の擦りつけ合いで、討論したところでどちらかの言い分が正当化されるわけではない。そうわかっているのに言葉は衝いて出た。
 言い終わったタイミングで、予鈴が鳴る。今さら後には引けない。
 「長谷部君にこの関係を終わらせる権限なんてないから。だから、もう余計なことはしないで」
 自分の都合でしか考えてない発言。でも、みんなご都合主義で生きている。そう開き直って、彼に背を向けた。