*

 私の朝の一言で、友達の鈴香はずっとご機嫌斜めだった。
 「本当に行っちゃうの」
 産まれたばかりの子犬を彷彿とさせるような目元で鈴香は私に縋りつく。
 今朝、スマホを確認すると長谷部君から【今日の昼休憩一緒に過ごさない?】というメッセージが入っていた。断る選択肢はなかった。
 昼休憩は鈴香と過ごしていたので、今日は長谷部君と過ごす旨を伝えると、鈴香はあからさまに機嫌を悪くした。毎休憩の度、私の席まで話に来る鈴香だが、今日は一度も遊びに来ず自席で不貞腐れていた。こんなことは何度もあったので、もう慣れてしまった。
 「断ってよ」
 「ごめん、もう長谷部君にはわかったって返事しちゃってるし」
 「由衣がいないなら私一人でご飯食べなきゃいけないじゃん」
 「他の人たちと食べなよ。亜美ちゃんのグループとも仲いいでしょ?」
 「そうだけど。私が気軽に話せるのは由衣だけだもん。そうだ、私も長谷部君と一緒に食べたらダメ?私絶対変なこと言わないし!」
 「それは……ごめん、なるべくすぐ帰って来るから」
 鈴香はたまに私たちの間に入りたがる節があった。鈴香は内気な私とは違って、均等にクラスメイトと仲いいので私ばかりに拘らなくてもいいはずなのに。
 私の腕に絡まる鈴香をやんわりと払いのけ、教室を出た。
 廊下を歩きながら、スマホで長谷部君からの新着メッセージを確認する。
 【屋上で待ってる】
 私は踏み込んだことのない階段を上り、屋上につづく扉のドアノブを捻った。驚くほど簡単に扉は開いた。瞬間、青が飛び込んでくる。私は屋上の景色に思わず感嘆の声を上げた。夏の空は青い。それを視界いっぱい使って知らしめてくる。空の青さと広さに目を奪われていると、照りつける太陽が容赦なく肌をジリジリと痛めつけてきた。
 屋上を見渡し、日陰ができた場所で座って一休みしている長谷部君を見つけ、すぐに太陽から避難する。目を閉じていた彼は、私の足音に気づいて目を微かに開けた。
 「暑いのに、どうして外?」
 「誰もいない場所で自由に出入りできる場所がここしか思いつかなかったんだ。夏は暑いけど、春は涼しいから」
 「春が涼しいのはどこも当たり前だと思うよ」
 「はは、確かに」
 互いに軽快な声を鳴らす。
 昨日の重苦しい出来事は夢だったのかもしれない。
 「僕たち、別れる?」
 瞬きした瞬間に世界は一変する。未来の一秒はすぐに過去の一秒になる事実が、私たちを急き立てているのかもしれない。
 「どうして疑問形なの?」
 私は彼に問う。
 『最初から私のこと好きじゃなかった?』の質問に『ごめんね』と返したのは長谷部君だ。長谷部君が別れを切り出すことに対しては別に不思議ではないが、それが疑問形で曖昧に濁されることには違和感を覚える。
 「惜しいと思ってるから」
 「惜しい?」
 「由衣ちゃんを好きになれなくても、由衣ちゃんの隣にいるのは心地よかったから」
 言い換えれば、好きにはなれないけどそばにはいてほしいってことにもなる。
 私との関係を曖昧にしようとしている。それほど、長谷部君にとって私は都合がよかったのだろう。
 「最初から好きじゃなかったのに、どうして私に告白してきたの?私たち話したこともなかったよね」
 「一目見た時、あまり自分の意見を主張しなさそうに見えたから。人の意見に流されて生きてきたような内気な子なら誰でもよかった」
 今、私は彼に侮辱されている。言い返すべきなのに、図星すぎて言葉に詰まった。
 「すべて流してくれると思った。だから、昨日初めて由衣ちゃんに拒絶されて、段取りよく思い通りに進むことなんてないんだなってわかって、恋愛って面倒だなってつい言ってしまったんだ」
 「……今、自分がどれだけ惨いこと言ってるかわかってる?」
 「もしかして、傷ついた?」
 とぼけているのか、本当にわかっていないのか、首を傾けたままキョトンとしている彼と対峙する。
 「ごめん、由衣ちゃんのことを傷つけたいわけじゃないんだ」
 さっきから矛盾している。隣にいるのは心地よかったと別れを惜しむ割には私を嘲笑っているように感じる。私の性格や生き方を侮辱する発言をしたかと思えば、傷つけたくはないのだと弁明してくる。
 「ただ、由衣ちゃんなら僕を肯定してくれるんじゃないかと思ったんだ」
 「もしかして、これも全部理解してくれるって思っているの?」
 「難しい?」
 「難しいっていうか、どうして私がそこまで理解しなきゃいけないの?」
 「僕は、由衣ちゃんのことを理解しようと思っていろんな話に耳を傾けてきたし、いろんなことを勉強してきたんだ。だから、今度は由衣ちゃんが僕を理解して、肯定してくれないと、僕の今までの頑張りが無駄になるでしょ」
 彼はこんなに噛み合わない人だっただろうか。
 鋭い刃先で肌をなぞられているような恐怖を感じた。
 「……気持ち悪い」
 つい本音が洩れた。
 「え?」
 「普通に気持ち悪いんだけど。そもそも、なんで私のこと理解した気になってるの?私は長谷部君に理解してほしいとか、味方になってほしいとか、そういう期待を一ミリも寄せずに接してきてたんだから、長谷部君が私を理解できるわけがないんだよ。勝手に理解した気になって、全肯定貰おうなんて烏滸がましいんだけど」
 躍起になって彼を否定した。自分のことは棚に上げたまま、彼のやってきたことに首を振る。
 「そもそも理解したら理解した分だけ相手が自分を肯定してくれるなんて、そんな方程式ないから。もう一つ言うけど、『ごめんね』って謝ったら許してもらえるっていう方程式も存在しないから」
 ほぼ八つ当たりのようなものだった。
 彼の言った通り、私は流されるように生きてきた。波風立てないよう、聞き役に徹することに重きを置いた。その方が楽だったから。言葉を選び取ることは難しく、思いもよらない言葉で相手の地雷を踏んだりする。だから、自分の感情や主張をむやみにひけらかさず、相手の考えをできるだけ尊重しようとした。そうすれば、平和に物事は進んでいくと思ったから。誰も傷つけなければ、誰かに傷つけられることもないと思っていたから。
 「全体的におかしいよ、長谷部君って」
 長谷部君の人格すべてを否定する言葉を吐き捨て、私は屋上をあとにした。
 彼に私は傷つけられた。そのお返しに彼の心に傷をつけたかった。やられたらやり返す。復讐だけが正当化された方程式だなと廊下の真ん中で嘲笑う。
 「あ、本当にすぐ戻って来た」
 逃げるように階段を駆け下り、怒りに任せ足を進めていたら気づけば教室に着いていた。
 私に気づいた鈴香がステップを踏んで寄ってくる。
 「二人ともご飯食べるの早いんだね」
 「あ……食べてない」
 「えー!何しに行ったの!?」
 鈴香が目を見張り絶句する。それに苦笑する。
 「もしかして、喧嘩でもした?」
 「え」
 「眉間にすごく深いシワ作って帰ってきたから。大丈夫~?」
 至近距離から顔を窺われ、私は慌てて口角を上げた。
 結局、私たちは別れることになったのだろうか。私が逃げてしまったせいでこの話はできずじまいで終わってしまった。それでもまた決着をつけるために会って話そうという気は起きない。このまま自然消滅とやらで終わってしまってもそれはそれで構わないが、こういう時周りにはなんて説明するのだろう。
 弁当を広げながら自分の都合ばかりを考えていた。
 「私にすら怒らない由衣が彼氏に怒るなんて、長谷部君一体どんなひどいこと言ったの?」
 否定しなかったことで、鈴香の中では喧嘩で話が進む。話を合わせるか迷った挙句、曖昧な笑みで無言を貫いた。
 「言えないようなひどいことなんだね。ひどいことする人は、また同じこと平気でするよ。ここで別れるのもアリだと思うよ」
 鈴香は突然話の角度を変えた。
 おかずをつついていた箸が止まり、食欲は一気に失せる。鈴香からこうやって諭されるのは今日が初めてではなかった。
 「……別れないよ」
 今にも別れそうなのに、口は嘘を吐く。
 「そっか、じゃあちゃんと仲直りしなね!」
 鈴香はヘラリと笑うと、私の弁当に入ったプチトマトを勝手に盗んで口に運んだ。
 「ちょっと!」
 「へへ~、早く食べないと午後の授業はじまるよ!」
 すでに食べ終わっている鈴香は、食べはじめたばかりの私を急かしたり、時折私の箸を止めさせたりして、私の食べる姿をじっと見ていた。


 六限の授業中に降りはじめた雨は、放課後になっても降りつづけたままだった。
 私は昇降口で止まない雨に立ち尽くしていた。
 スマホに入った天気アプリを確認すると、朝の段階ではくもりだったマークも、今では知らぬ顔で雨マークへと変わっていた。天気予報はあてにならないことを何度も経験したのに、いまだに折り畳み傘を常備しておかない学習力のなさにほとほと呆れる。
 雨が止むまで教室で時間を潰していたので、部活動に所属していない生徒はすでにほとんどが下校していた。
 全然止みそうにない雨に重たい腰を上げ、屋根がある外まで出てみたものの、雨のまあまあな強さに飛び込む勇気が出ない。帰りのHR終わりよりも明らかに雨は強くなっていて、憂鬱な天気が勉強終わりの僅かに残る気力を容赦なく削いでいく。
 どうしようもないため息を吐きそうになった時、ジャリッと靴が擦れる音が聴こえた。
 「傘、忘れたの?」
 聞いたことのある声で気づき、見たことのある傘で確信へと変わる。私は小さく呼吸を整え、隣にそっと立つ長谷部君へと視線を移す。
 「忘れたんじゃないよ、天気予報が外れたんだよ」
 「僕が見た天気予報は午後から雨だったよ」
 「そう、よかったね」
 まだあの昼休憩から四時間ほどしか経っていない。仲睦まじく話すには無理があった。
 「……行かないの?」
 なかなか傘を広げない彼に痺れを切らし、嫌味ったらしく言い放つ。傘を持っている人が立ち往生する必要はない。だけど、彼は私の含ませた嫌味すらも意に介さない表情で、降りつづく雨を眺めている。妙な雰囲気を漂わせたまま、やがて真一文字の口を開く。
 「前に、雨が嫌いな男女二人の恋愛映画を観たんだ」
 突拍子もなくはじまる冒頭。
 私は彼の言葉を雨と一緒に聞き流す。
 「うまくいかない時は大抵雨の日で、雨が二人の運気を奪ってしまうのか、雨が降るから変に身構えてしまうのか。雨にトラウマを抱えた二人が、ラストシーンではどちらも傘を差さずに雨の中手を繋いで歩くんだ」
 彼が、鑑賞した映画の話をするのは初めてだった。
 ふと思い出す映画というものは、それだけ自分の心に影響を受けた素敵な作品だったということ。でも、盗み見た彼の横顔からは、その作品に対してのリスペクトを感じなかった。むしろ、煮え切らない顔で淡々とあらすじを伝えているだけのように見える。
 「人のぬくもりは自分を突き動かす力を持っている。だから、二人は傘がなくても雨の中を歩けたんだ。一人じゃ無理でも二人なら乗り越えられる」
 誰かが感じた解釈をそのまま抜き取ってきた、みたいな感想を言い終わったあと、彼は嘲笑うように鼻を鳴らした。
 「単純だなって思った。もしかしたら、恋愛って意外と単純なのかもしれないなあって。でもやっぱり、映画は誰かが創り上げた物語にすぎないんだね」
 彼は、手に持った傘をクルクルと回す。しゃがみ込み、俯いて、地面に歪な丸を描く、いじけた子供みたいな顔で手遊びしている。
 「人と関わることにおいて単純な関係性なんてないでしょ。ましてや恋愛なんて一対一なんだから。手さえ繋いでおけば離れない、みたいな単純な話じゃないんだよ」
 私が現実を吐き捨てると、彼は神妙な面持ちで顔を向けてきた。
 「……なに?」
 「ちょっと困惑して」
 「は?困惑?」
 「今まで見てきた由衣ちゃんと、今日の由衣ちゃんはなんか違うから」
 それはこちらの台詞でもある。
 「君こそ、僕のことをちゃんと好きだった?」
 聞き逃したかったが、こういう時だけ雨は弱まったりする。
 「これでも、僕は君を好きになろうと努力したんだよ。毎日のように恋愛映画を観て勉強したし、少しずつカップルらしいことをして慎重に距離を詰めてきた。君を傷つけないように最大限の努力はしてきたんだ。どこからどう振り返っても、僕のやってきたことに間違いなんてなかったはずだ。閲覧履歴を見たことで僕の印象が下がったとしても、男子高校生がみんな純情なわけない。みんなそれなりに観てるし、経験だってしてる。それは君もわかっていたはずだ。だから、僕の部屋に入った。それなのに君は僕を受け入れなかった。こんな僕を君は気持ち悪いと責めたけど、君はどうだった?僕を責めるほど好きだった?」
 背中がじっとりと汗をかいている。湿気を多く含んだ蒸し暑さのせいだけではない。
 『気持ち悪い』と発言した時点で私の恋愛ごっこは終わってしまった。彼もまた『面倒くさい』と放ってしまった時点で諦めたのだ。どう言い逃れをしても、私たちはもう恋人同士ではいれない。それなのに、終わってしまうことに焦りを覚えていた。
 その時、和気あいあいと話すはじゃいだ声が聞こえてきた。
 昇降口を進んだ先の階段に視線を移す。階段を下りる女子生徒数人が見え、彼女たちは手にそれぞれ楽器を持っていた。吹奏楽部に所属している部員たちだとわかる。彼女たちの存在に気づいた私は、真っ先にある人物を探し────見つける。
 タイミングを見計らった。遠くでは靴箱に隠れて見えないかもしれない。私だと識別できるところまで近づかないとダメだ。
 「由衣ちゃん?」
 長谷部君の声が引き金となった。
 彼女と目が合う寸前に、視線を彼へと戻す。彼の肩に手を置き、私はそっと踵を上げた。そして、彼の唇に自分の唇を押し当てた。彼の了承を得ることもなく、自分の都合だけを考えたキスだった。当然、彼が反射的に離れようとしたので今度は彼の首へと回し、蛇みたいに巻きついた。唇を塞いだ隙間から、彼の困惑した声が洩れる。それでも離れない。
 できるだけ長くキスをする必要があった。彼女が私たちの存在に気づくまで。
 靴箱奥の廊下で、「鈴香、どうしたの?行くよ」という声が聞こえる。慌てたような返事をして、逃げるような足音が鈴香のものだと確信した時、安堵すると同時に罪悪感が襲う。
 足音が完全に消えるまで、私は長谷部君を縛りつけた。
 やっと解放すると、彼は手の甲で自分の唇を拭った。
 「今の、どういう意味?」
 そう言って、冷めた目を向けられる。
 「君は一体何がしたいの?」
 「私は……別れたくない」
 私は長谷部君に恋愛感情を一度も抱いたことはない。それでも、別れたくない。
 「別れないから」
 自分勝手に言い残し、私は雨の世界へと踏み込む。
 私も雨は嫌いだ。湿気を含んだ体はやけに重く、傘を差すことすらも億劫になる。雨が止むまで教室で待機して粘る日もあった。だけど、そんな都合よく雨が止んでくれることはない。そんな時は決まって部活終わりの鈴香が現れ、私のために黄色の傘を差して一緒に歩いてくれた。青春のたった一ページにすぎない記憶を思い出し、力失くしたように立ち止まる。
 私はもう、鈴香が差してくれた傘には入らないと決めた。