*
長谷部直生と付き合いはじめ、あっという間に三か月が経とうとしていた。
「今日放課後デートなんだ~いいね、相変わらずのラブラブで」
友達の鈴香がストローに口をつけたまま、彼との話題を持ち上げてくる。
「私も彼氏ほしい」
「鈴香ならすぐにできるよ」
「違う違う、あんなルックスの男を彼氏にしたいの!」
ジト目で訂正する鈴香に、私は「なるほど」と当たり障りのない相槌を打つ。
「長谷部君みたいな高スペック持った男子に、突然『一目惚れしました!付き合ってください!』とか言われてみたい!」
「長谷部君は一目惚れしたとか言ってないよ?」
「でも、二人は今まで面識なかったんでしょ?なのに、告白されたってことは、つまり一目惚れしたってことになんない!?」
鈴香の興奮した声が教室内に轟き、クラスメイトが迷惑そうな視線で一瞥し、すぐに自分たちの世界に戻っていく。
「長谷部君の好きなタイプって、由衣みたいな子なんだ。私も由衣みたいに猫被ったら長谷部君みたいな男子ゲットできるかな!?」
「んー、どうだろう」
煮え切らない私の返答に、鈴香は唇を尖らせる。
「どうせ私みたいなバカには高スペックの彼氏なんてできないですよー」
「そんなことないじゃん」
鈴香の容姿と明るさは男子生徒にも人気だ。高望みしなければ、今すぐにでも彼氏はできるだろう。現に先週も告白されていたし、私が知っている限りでは高校に入ってから五人には告白されている。対して、私は彼一人だけだ。
「羨ましいよ」
「え」
一瞬寒気がするような鈴香の声に、反射的に視線を向ける。
「由衣をひとり占めできる長谷部君が羨ましいよ。たまには私とも遊んでよね!」
「鈴香、吹奏楽の部活で忙しいじゃん」
「そうだけど~」
鈴香は私を抱きしめ、「誰にも渡したくないよ」と冗談交じりの束縛をする。左右に揺らされながら、私も冗談交じりに「私は長谷部君のものだよ」と言った。
今は浮かれた声で笑っているが、実際彼と付き合うことは想像以上に試練の連続だった。
告白を受けた翌日には、すでに付き合っていることが広まっており、同学年の生徒だけでは留まらず、なぜか上級生や下級生にまで話は行き渡り、“長谷部直生の彼女”を一目見ようと数日間に亘って教室には野次馬が集まった。私の存在は、見世物のように扱われた。
学校内での恋事情はよく耳にするがここまで拡散力があったとは知らず、私はただただ現状に慄き、口に運んだおかずの味がわからないくらいに居心地悪かった。
他にも、一部女子生徒の裏垢で私の容姿や性格を非難する投稿や、文面から熱を感じるほどの過激なやり取りがSNSで活発に行われていることを、顔が広い鈴香に教えられて粟立ったのを憶えている。
昇降口で待ち合わせをしただけで名前も知らない男子生徒に冷やかされ、彼が私の知らないところで目立つ度に、廊下で“長谷部直生の彼女”と指を差され囁かれた。
恋は楽しいことばかりじゃないことを思い知らされた三か月だった。
全授業が終え、鈴香とは手を振って別れ、彼が待つ昇降口に向かう。人を待たせない真面目な彼のことだから、もうすでに昇降口にいるはずだ。三組の私と、五組の長谷部君。昇降口までの距離は私のほうが短いはずなのに、いつも彼には敵わない。
早足で向かった場所で、彼はやっぱり待っていた。
「今日も勝てなかった」
そう言って、彼の前に登場する。
「由衣ちゃんは僕には勝てないと思うよ」
今日も今日とて、爽快感溢れる笑顔を向けられる。
「確かに長谷部君は、体育祭の団対抗リレーで三人抜きした実力者だからね」
「容易には勝てまい」
「なにその喋り方」
最初はぎこちなかった会話も、今では笑みがこぼれるほどラフに話せるようになった。差し出された手をなんの迷いもなく握れるようになったし、帰り際のキスも嫌ではなかった。
彼と付き合いはじめてから試練の連続だったのにこの手を放さなかったのは、彼が思っているよりもずっと優しく、ずっと誠実で、ずっと笑顔を絶やさずに接してくれたから。
初めての彼氏を長谷部君にしてよかった。そう思えるほど、私は彼に心を許しつつあった。
今日は初めてのお家デート。向かう先は長谷部君の家。
「ここだよ」
彼の家は赤い屋根で、不思議と風情のある家に見えた。
「どうぞ」
誰かの家にお邪魔することは小学生ぶりで緊張しながら足を踏み入れる。
「お邪魔します」と少々声を張って挨拶したが返答はみられない。つい先ほどまでの不在特有の家の静寂が残っていて、玄関には一足も靴は置いてなかった。
「基本平日はどっちも仕事だから」
私の母親も夜の七時になるまで帰ってこない。今ではどこの家庭も共働きで、学校から帰ったら家に誰もいないというのは珍しくなかった。そう珍しくはない。私は今日、そのことをわかっていて彼の家に来ている。
入って早々、長谷部君の部屋へと案内される。
「彼女を入れるのは初めてなんだ」と照れた顔を見せながら、促された彼の部屋は、なんとも彼らしい綺麗に片付けられたシンプルな部屋だった。
ベッド、勉強机、本棚、そしてかなり大きめのテレビ。必要最低限だけが置かれた部屋という印象だった。
「あんまりジロジロ見ないで、大人しく座ってて」
「わかった」
私は適当に、カーペットが敷かれた床に座る。
すると、彼は当たり前のようにテレビのリモコンを手に取り電源を入れた。日常の習慣として身についているのか、その動作に迷いはなかった。ローカル番組が映し出され、アナウンサーの大袈裟すぎるリアクションが部屋内に響き渡る。
「喉乾いたよね、飲み物持って来るね」
「あ、ありがとう」
そう言って彼が部屋から出て行く。
バタンと扉が閉められると、思い出したかのように嫌な緊張が体中を巡る。一旦落ち着かせようと大きく息を吸って吐くが、その行為は逆効果だったのかさらに緊張が駆け巡った。逃げたい衝動に駆られ、脂汗まで出てくる。
その時、階段を上がってくる長谷部君の足音が耳に入り、慌てて居住まいを正す。
扉が開き、彼は部屋に入るなりスクールバッグを漁りはじめ、財布を取り出した。
「ごめん、冷蔵庫なんもなくて、すぐ近くのコンビニで買ってくるよ」
「えっ、そんな!いいよ!」
「ううん。なにより僕が喉乾いたし、小腹も空いたからお菓子でもつまみたいんだよね。ついでにアイスも買ってくるよ。由衣ちゃんの好きなアイスなに?」
「……じゃあ、シャーベット系を。口の中スッキリするアイスがいい」
「了解。すぐそこだからそんなに待たせないと思うけど、暇だったらそのボタンを押すとサブスク開けるから好きな映画でも観て待ってて」
「うん、わかった。ありがとう」
「じゃあ行ってくる」
「気をつけて!」
すぐに部屋を出て行く長谷部君の後ろ姿を見て、これは走ってコンビニに向かうだろうという予感が働いた。慌てて「急がないでいいからね!」と付け足すと、彼からは「急がないように急ぐね」と矛盾した返答が茶目っ気に返ってきた。
玄関の扉が閉まると、途端に長谷部君の家は眠ったように静まり返る。テレビの無機質な音声が流れていても、家主がいない部屋では静寂が飲み込んでしまう。他人の家という慣れない場所でくつろげるわけもなく、ソワソワと体が小さく動く。
静寂に耐えられなくなった私はテレビのリモコンを手にした。彼に言われた通り、ボタンを押すと彼が契約しているサブスクが表示される。私も登録しているので操作はわかる。
観たい映画はなかったが、やることもないので邦画の一覧を意味なく眺めていく。
ふと、彼の趣味が映画鑑賞だったことを思い出す。付き合いたての頃、まだぎこちなく手探り状態だった私は、お見合いでもしているかのような質問ばかりを投げかけていた。彼の趣味が映画鑑賞で、彼の休日の過ごし方は映画を観ること。そんな会話を交わしたのに、私たちはまだ映画デートに行ったことがない。
彼はどんな映画を観るのだろうか。私は映画をあまり見ないからそんなに詳しくない。
彼のプライバシーは守らなければ思う反面、彼の気が合う女でいたいとも思った。観る映画がたまたま似ていて、その作品について語り合える彼女だったら彼にとっても都合がいいはずだ。私にとって、前者と後者はどちらも善意だった。善意同士を天秤にかけた結果、人のプライバシーを覗く行為に抵抗感はまるでなかった。
私は、彼のマイページに移動し閲覧履歴を覗いた。
「へえ、恋愛映画とか観るんだ」
彼の最新の閲覧履歴には、少女漫画を実写化した甘酸っぱい青春映画や、涙を誘う感動青春映画、仕事と恋愛の両立の苦労さを描いたリアルな恋愛映画、男女の別れを描くまでの苦い恋愛映画など、さまざまな恋愛映画が視聴済みとして履歴に残っていた。
「恋愛映画にハマっているのかな」
そうぼやきながら、最近視聴した映画の中から知らない作品を適当に再生した。彼はこの作品を最後まで見ていなかったのか、続きからの映像が液晶画面に映し出される。
「え」
思わず声が洩れた。
何がどうなっているのかわからないまま、反射的に一時停止ボタンを押した。金縛りにあったように体は動かない。
耳奥で残る艶めかしい女の声。目の前の液晶画面には、ベッドの上でもつれ合う男女が停止している。
リモコンを持つ手が震えていた。動揺している。
再生ボタンを押した瞬間はじまるベッドシーンなんて誰でも動揺するはずだ。ましてや大人の恋愛映画。性描写が含まれていたってなんら不思議ではない。そう自分に言い聞かせ、動揺で大きく脈打つ鼓動をなんとか落ち着かせようとする。
私はリモコンを握り直し、前の履歴一覧に戻る。その時にようやく気づく。私が適当に再生した作品は、R指定された『ピンク映画』だということに。
ピンク映画はざっくり言うと刺激的なコンテンツで、官能シーンが多く含まれていたりする。そういった作品が直近の閲覧履歴に立てつづけに並んでいることを知り、いろんな感情が駆け巡る。でも、一言でまとめることはできた。嫌悪感。
その時、玄関の扉が開く音が聴こえた。証拠になるものを隠す犯人みたいな気持ちですかさずテレビの電源を切る。
迫りくる足音に心臓が嫌な音を立てはじめる。扉の向こうで、ドアノブに手をかける気配を感じ取った。息を呑む。来ないで────。
「ごめん、おまたせ」
何も知らない長谷部君が笑顔で扉を開けた。手には飲み物やお菓子が入ったコンビニ袋を持っている。
「何も観てなかったの?」
「えっ」
テレビは真っ黒なのに両手でリモコンを持っている私を見て、彼が不思議そうに首を傾げた。平然を装いリモコンをテーブルに置く。
「今から何か観ようかなって思ったところで長谷部君が帰ってきたから」
「そっか。あ、アイス買ったんだった。今食べる?」
「あ、うん。じゃあ食べようかな」
「シャーベット系ってリクエストだったけど、これでよかった?」
シャーベットというよりかき氷の方に若干近い、カップに入ったミカン味のアイスを手渡される。手に触れた指先から徐々に冷えていく。
「先に食べてて。飲み物グラスに注いでくるから」
コンビニ袋から飲み物だけを取り出して、長谷部君はまた部屋を出て行く。
空調が効きすぎているのか足先が冷える上に、手に持ったアイスで指先まで冷えだす。それでもアイスは徐々に溶けはじめていた。
テーブルに置かれた長谷部君のバニラアイスもカップだった。アイス用のスプーンを店員は入れてくれただろうかとコンビニ袋に手を伸ばす。
「あった」
お菓子で埋め尽くされたコンビニ袋の奥底にスプーンを見つける。取り出そうとした時、お菓子袋とは明らかに手触りが違う角張ったモノが手に触れた。チップス系の大きいお菓子袋に隠された形で“それ”は入っていた。一瞬頭が真っ白になった。
初めて目にするコンドームに言葉を失う。恐る恐る手に取ると、それは思ったより軽く、意外にもお洒落な小箱に入れられていた。
さっき見てしまった映画の官能シーンが否応なしに脳内再生される。まるで今日のために予習していたかのような閲覧履歴に、身の毛がよだつ。
そろそろだと思っていた。今日はそういうことをするのだと覚悟をして、彼の家に上がった。それでも、いざ避妊具を目の前にすると自分の覚悟は浅はかだったことに気づかされる。これが普通にコンビニに売られていることにすら気持ち悪さを感じてしまう現状で、私は最後まで耐えられるのだろうか。
階段を上る足音が聴こえ、私はコンドームを袋の中に戻した。
戻って来た長谷部君は、やっと私の隣に腰を下ろす。
彼が持ってきたグラスに注がれたジュースにはちゃんと氷が浮かんでいる。そのまま飲めるサイズのペットボトルを購入していても、ちゃんとグラスに注ぎ、氷まで入れてくれる気遣いには誠実さを感じる。彼はいつだって誠実で優しいことは、彼女の私が一番わかっている。でも、さっきから治まることのない寒気が心までも震わせていく。
「映画でも観る?」
そう言って、リモコンのほうに伸ばした彼の手を咄嗟に掴んだ。私がいる前で互いに気まずくなるような映画を彼が選ぶわけがないのに、私は思わずその手を止めてしまった。彼に触れた瞬間、拒絶するように全身が粟立った。すぐにでも離れたい衝動に駆られるが、なんとか押し殺しゆっくりと手を放した。彼を傷つけたくはない。
「由衣ちゃん?」
不審に感じたのか、長谷部君が首を傾げる。
「ごめん、映画観る気分じゃなくて」
「そっか、じゃあお菓子でも食べながら話そう」
変に気を遣わせてしまった。
彼は、コンドームが入ったコンビニ袋を漁り、スナック菓子を取り出した。あの袋は、お菓子や飲み物が入ったただのコンビニ袋だったのに、もうそうは思えない。テーブルに広げられたお菓子のことも見たくはなかった。
聞き上手の彼が、あまり話さなくなった私に気を遣ってかたくさんの話題を出してくれる。友達の話、先生の話、授業の話、どれも学校での出来事だった。そんなパクパクと動く彼の口を眺めながら、私は右から左へと彼の話を聞き流していた。
その時、彼が左手を床につけ、私のほうに身を寄せた。徐々に顔が近づいてきて、あっという間にキスをされた。数回いつものキスをされたあと、少しだけ強く長いキスへと変わっていく。今までのキスは、お互いの唇がただ触れていただけの接触にすぎなかったことを知る。
彼の空いている手が、いつの間にか私の脚に置かれていた。繰り返されるキスは徐々に熱を帯びていき、息が苦しくなる。一瞬だけ唇が離れた時、自分の口から洩れ出た吐息が気持ち悪く、同時に得体の知れない恐怖を感じた。
ふと視線を動かすと、コンビニ袋から透けて見えるコンドームが目に入る。お洒落ぶった箱で紛れていることに苛立ちさえ募った。
男子は中学生になると一気に下品になる。男は、同性の体よりも異性の体に興味を持ち、勝手に脚の形や胸の大きさで女を順位づけする。だけど、長谷部君の第一印象では、そういう下劣な遊びを通ってきてないような清廉潔白な男子に見えた。だが、蓋を開けてみればこのざまだ。映画という芸術作品で性的欲求を満たしたのだ、と想定できる履歴すら残っている。彼も、このお洒落ぶった小箱と一緒だ。
瞬間、覚悟は一瞬で崩れ、建前のように見せていたウソも、恋に浮かれる女子高校生というキャラも、手のひら返したくなるほどに嫌悪感が爆発した。
私は、長谷部君の胸を両手で押して拒否した。もう限界だった。いや、初めから無理だった。
「……ごめん、嫌だった?」
何も悪くない彼が、申し訳なさそうに目尻を下げている。
「由衣ちゃん?」
彼の手が向かってくる。私はその手を思いっきり払ってしまった。無理だと認めた瞬間、触れられることすらも嫌気がさした。
まず何から説明すればいいのかわからなかった。どこから話をはじめて、どこを弁明して、何に対して謝らなければいけないのか模索しているうちに、長谷部君のほうから距離を取られる。彼は後ろ手をつき、不格好な体勢で項垂れる。
「本当は、みてたんだよね?」
「……え?」
脈絡のない彼の問いに顔を上げると、気だるげな目と合った。
「映画、観ようと思ってたところって言ってたけど本当は観てたんだよね?僕の閲覧履歴でも見た?それで僕のこと嫌になった?それとも、コンビニ袋の中身を見た?ゴムがあること知って嫌になった?」
温厚な話し方、優しい目つき、柔らかい表情。すべてをどこかに置いてきたかのような振る舞いに、私は目を疑っていた。知らない長谷部君に背筋が凍る。
「それとも、まだ早かった?三か月がベストだって聞いたんだけど、やっぱり人それぞれなんだね」
純然たる饒舌な口調に鼓膜が遠のいていくのを感じ、聞き逃してしまわないよう必死で耳を傾けた。
彼は、天井を見上げフゥーっと息を吐く。そして、トドメを刺す。
「恋愛って、結構面倒くさいんだね」
初めて食べたものが口に合わなかった、みたいな軽い口ぶりだった。
この恋は、長谷部君の告白からはじまった。なのに、はじめた張本人が「面倒くさい」と言って、この恋を放棄しようとしている。
「長谷部君は、最初から私のこと好きじゃなかった?」
天井から視線を下ろし、私を見つめる。
答えは聞かずとも明白に表れていた。彼の瞳はこんな風に冷たかっただろうか。今までの彼は嘘だったのだろうか。
嘘は眼から感じ取れるものだと聞くけれど、それは見ているものがすべてではないことを私がよく知っていることが大前提なのかもしれない。
私は、彼を大まかにしか見ていなかったのかもしれない。
「……ごめんね」
長谷部君はそう言って、小さく笑った。
そのあとすぐに、長谷部君の母親が仕事から帰って来て、その流れに乗る形で私は長谷部君の家を出た。
勝手にお邪魔しておきながら黙って帰るのも気が引けたので、長谷部君の母親に軽く挨拶をした。その時、彼は私を「彼女」と紹介した。
別れ際、長谷部君は「明日また話そう」と言って、何事もなかったかのように私に手を振った。
今日はまだ彼女でも、明日まだ彼女でいるとは限らない現状に、帰り道中小さくため息をついた。
明日、どんな話をするのだろうか。考えながら眠った。
長谷部直生と付き合いはじめ、あっという間に三か月が経とうとしていた。
「今日放課後デートなんだ~いいね、相変わらずのラブラブで」
友達の鈴香がストローに口をつけたまま、彼との話題を持ち上げてくる。
「私も彼氏ほしい」
「鈴香ならすぐにできるよ」
「違う違う、あんなルックスの男を彼氏にしたいの!」
ジト目で訂正する鈴香に、私は「なるほど」と当たり障りのない相槌を打つ。
「長谷部君みたいな高スペック持った男子に、突然『一目惚れしました!付き合ってください!』とか言われてみたい!」
「長谷部君は一目惚れしたとか言ってないよ?」
「でも、二人は今まで面識なかったんでしょ?なのに、告白されたってことは、つまり一目惚れしたってことになんない!?」
鈴香の興奮した声が教室内に轟き、クラスメイトが迷惑そうな視線で一瞥し、すぐに自分たちの世界に戻っていく。
「長谷部君の好きなタイプって、由衣みたいな子なんだ。私も由衣みたいに猫被ったら長谷部君みたいな男子ゲットできるかな!?」
「んー、どうだろう」
煮え切らない私の返答に、鈴香は唇を尖らせる。
「どうせ私みたいなバカには高スペックの彼氏なんてできないですよー」
「そんなことないじゃん」
鈴香の容姿と明るさは男子生徒にも人気だ。高望みしなければ、今すぐにでも彼氏はできるだろう。現に先週も告白されていたし、私が知っている限りでは高校に入ってから五人には告白されている。対して、私は彼一人だけだ。
「羨ましいよ」
「え」
一瞬寒気がするような鈴香の声に、反射的に視線を向ける。
「由衣をひとり占めできる長谷部君が羨ましいよ。たまには私とも遊んでよね!」
「鈴香、吹奏楽の部活で忙しいじゃん」
「そうだけど~」
鈴香は私を抱きしめ、「誰にも渡したくないよ」と冗談交じりの束縛をする。左右に揺らされながら、私も冗談交じりに「私は長谷部君のものだよ」と言った。
今は浮かれた声で笑っているが、実際彼と付き合うことは想像以上に試練の連続だった。
告白を受けた翌日には、すでに付き合っていることが広まっており、同学年の生徒だけでは留まらず、なぜか上級生や下級生にまで話は行き渡り、“長谷部直生の彼女”を一目見ようと数日間に亘って教室には野次馬が集まった。私の存在は、見世物のように扱われた。
学校内での恋事情はよく耳にするがここまで拡散力があったとは知らず、私はただただ現状に慄き、口に運んだおかずの味がわからないくらいに居心地悪かった。
他にも、一部女子生徒の裏垢で私の容姿や性格を非難する投稿や、文面から熱を感じるほどの過激なやり取りがSNSで活発に行われていることを、顔が広い鈴香に教えられて粟立ったのを憶えている。
昇降口で待ち合わせをしただけで名前も知らない男子生徒に冷やかされ、彼が私の知らないところで目立つ度に、廊下で“長谷部直生の彼女”と指を差され囁かれた。
恋は楽しいことばかりじゃないことを思い知らされた三か月だった。
全授業が終え、鈴香とは手を振って別れ、彼が待つ昇降口に向かう。人を待たせない真面目な彼のことだから、もうすでに昇降口にいるはずだ。三組の私と、五組の長谷部君。昇降口までの距離は私のほうが短いはずなのに、いつも彼には敵わない。
早足で向かった場所で、彼はやっぱり待っていた。
「今日も勝てなかった」
そう言って、彼の前に登場する。
「由衣ちゃんは僕には勝てないと思うよ」
今日も今日とて、爽快感溢れる笑顔を向けられる。
「確かに長谷部君は、体育祭の団対抗リレーで三人抜きした実力者だからね」
「容易には勝てまい」
「なにその喋り方」
最初はぎこちなかった会話も、今では笑みがこぼれるほどラフに話せるようになった。差し出された手をなんの迷いもなく握れるようになったし、帰り際のキスも嫌ではなかった。
彼と付き合いはじめてから試練の連続だったのにこの手を放さなかったのは、彼が思っているよりもずっと優しく、ずっと誠実で、ずっと笑顔を絶やさずに接してくれたから。
初めての彼氏を長谷部君にしてよかった。そう思えるほど、私は彼に心を許しつつあった。
今日は初めてのお家デート。向かう先は長谷部君の家。
「ここだよ」
彼の家は赤い屋根で、不思議と風情のある家に見えた。
「どうぞ」
誰かの家にお邪魔することは小学生ぶりで緊張しながら足を踏み入れる。
「お邪魔します」と少々声を張って挨拶したが返答はみられない。つい先ほどまでの不在特有の家の静寂が残っていて、玄関には一足も靴は置いてなかった。
「基本平日はどっちも仕事だから」
私の母親も夜の七時になるまで帰ってこない。今ではどこの家庭も共働きで、学校から帰ったら家に誰もいないというのは珍しくなかった。そう珍しくはない。私は今日、そのことをわかっていて彼の家に来ている。
入って早々、長谷部君の部屋へと案内される。
「彼女を入れるのは初めてなんだ」と照れた顔を見せながら、促された彼の部屋は、なんとも彼らしい綺麗に片付けられたシンプルな部屋だった。
ベッド、勉強机、本棚、そしてかなり大きめのテレビ。必要最低限だけが置かれた部屋という印象だった。
「あんまりジロジロ見ないで、大人しく座ってて」
「わかった」
私は適当に、カーペットが敷かれた床に座る。
すると、彼は当たり前のようにテレビのリモコンを手に取り電源を入れた。日常の習慣として身についているのか、その動作に迷いはなかった。ローカル番組が映し出され、アナウンサーの大袈裟すぎるリアクションが部屋内に響き渡る。
「喉乾いたよね、飲み物持って来るね」
「あ、ありがとう」
そう言って彼が部屋から出て行く。
バタンと扉が閉められると、思い出したかのように嫌な緊張が体中を巡る。一旦落ち着かせようと大きく息を吸って吐くが、その行為は逆効果だったのかさらに緊張が駆け巡った。逃げたい衝動に駆られ、脂汗まで出てくる。
その時、階段を上がってくる長谷部君の足音が耳に入り、慌てて居住まいを正す。
扉が開き、彼は部屋に入るなりスクールバッグを漁りはじめ、財布を取り出した。
「ごめん、冷蔵庫なんもなくて、すぐ近くのコンビニで買ってくるよ」
「えっ、そんな!いいよ!」
「ううん。なにより僕が喉乾いたし、小腹も空いたからお菓子でもつまみたいんだよね。ついでにアイスも買ってくるよ。由衣ちゃんの好きなアイスなに?」
「……じゃあ、シャーベット系を。口の中スッキリするアイスがいい」
「了解。すぐそこだからそんなに待たせないと思うけど、暇だったらそのボタンを押すとサブスク開けるから好きな映画でも観て待ってて」
「うん、わかった。ありがとう」
「じゃあ行ってくる」
「気をつけて!」
すぐに部屋を出て行く長谷部君の後ろ姿を見て、これは走ってコンビニに向かうだろうという予感が働いた。慌てて「急がないでいいからね!」と付け足すと、彼からは「急がないように急ぐね」と矛盾した返答が茶目っ気に返ってきた。
玄関の扉が閉まると、途端に長谷部君の家は眠ったように静まり返る。テレビの無機質な音声が流れていても、家主がいない部屋では静寂が飲み込んでしまう。他人の家という慣れない場所でくつろげるわけもなく、ソワソワと体が小さく動く。
静寂に耐えられなくなった私はテレビのリモコンを手にした。彼に言われた通り、ボタンを押すと彼が契約しているサブスクが表示される。私も登録しているので操作はわかる。
観たい映画はなかったが、やることもないので邦画の一覧を意味なく眺めていく。
ふと、彼の趣味が映画鑑賞だったことを思い出す。付き合いたての頃、まだぎこちなく手探り状態だった私は、お見合いでもしているかのような質問ばかりを投げかけていた。彼の趣味が映画鑑賞で、彼の休日の過ごし方は映画を観ること。そんな会話を交わしたのに、私たちはまだ映画デートに行ったことがない。
彼はどんな映画を観るのだろうか。私は映画をあまり見ないからそんなに詳しくない。
彼のプライバシーは守らなければ思う反面、彼の気が合う女でいたいとも思った。観る映画がたまたま似ていて、その作品について語り合える彼女だったら彼にとっても都合がいいはずだ。私にとって、前者と後者はどちらも善意だった。善意同士を天秤にかけた結果、人のプライバシーを覗く行為に抵抗感はまるでなかった。
私は、彼のマイページに移動し閲覧履歴を覗いた。
「へえ、恋愛映画とか観るんだ」
彼の最新の閲覧履歴には、少女漫画を実写化した甘酸っぱい青春映画や、涙を誘う感動青春映画、仕事と恋愛の両立の苦労さを描いたリアルな恋愛映画、男女の別れを描くまでの苦い恋愛映画など、さまざまな恋愛映画が視聴済みとして履歴に残っていた。
「恋愛映画にハマっているのかな」
そうぼやきながら、最近視聴した映画の中から知らない作品を適当に再生した。彼はこの作品を最後まで見ていなかったのか、続きからの映像が液晶画面に映し出される。
「え」
思わず声が洩れた。
何がどうなっているのかわからないまま、反射的に一時停止ボタンを押した。金縛りにあったように体は動かない。
耳奥で残る艶めかしい女の声。目の前の液晶画面には、ベッドの上でもつれ合う男女が停止している。
リモコンを持つ手が震えていた。動揺している。
再生ボタンを押した瞬間はじまるベッドシーンなんて誰でも動揺するはずだ。ましてや大人の恋愛映画。性描写が含まれていたってなんら不思議ではない。そう自分に言い聞かせ、動揺で大きく脈打つ鼓動をなんとか落ち着かせようとする。
私はリモコンを握り直し、前の履歴一覧に戻る。その時にようやく気づく。私が適当に再生した作品は、R指定された『ピンク映画』だということに。
ピンク映画はざっくり言うと刺激的なコンテンツで、官能シーンが多く含まれていたりする。そういった作品が直近の閲覧履歴に立てつづけに並んでいることを知り、いろんな感情が駆け巡る。でも、一言でまとめることはできた。嫌悪感。
その時、玄関の扉が開く音が聴こえた。証拠になるものを隠す犯人みたいな気持ちですかさずテレビの電源を切る。
迫りくる足音に心臓が嫌な音を立てはじめる。扉の向こうで、ドアノブに手をかける気配を感じ取った。息を呑む。来ないで────。
「ごめん、おまたせ」
何も知らない長谷部君が笑顔で扉を開けた。手には飲み物やお菓子が入ったコンビニ袋を持っている。
「何も観てなかったの?」
「えっ」
テレビは真っ黒なのに両手でリモコンを持っている私を見て、彼が不思議そうに首を傾げた。平然を装いリモコンをテーブルに置く。
「今から何か観ようかなって思ったところで長谷部君が帰ってきたから」
「そっか。あ、アイス買ったんだった。今食べる?」
「あ、うん。じゃあ食べようかな」
「シャーベット系ってリクエストだったけど、これでよかった?」
シャーベットというよりかき氷の方に若干近い、カップに入ったミカン味のアイスを手渡される。手に触れた指先から徐々に冷えていく。
「先に食べてて。飲み物グラスに注いでくるから」
コンビニ袋から飲み物だけを取り出して、長谷部君はまた部屋を出て行く。
空調が効きすぎているのか足先が冷える上に、手に持ったアイスで指先まで冷えだす。それでもアイスは徐々に溶けはじめていた。
テーブルに置かれた長谷部君のバニラアイスもカップだった。アイス用のスプーンを店員は入れてくれただろうかとコンビニ袋に手を伸ばす。
「あった」
お菓子で埋め尽くされたコンビニ袋の奥底にスプーンを見つける。取り出そうとした時、お菓子袋とは明らかに手触りが違う角張ったモノが手に触れた。チップス系の大きいお菓子袋に隠された形で“それ”は入っていた。一瞬頭が真っ白になった。
初めて目にするコンドームに言葉を失う。恐る恐る手に取ると、それは思ったより軽く、意外にもお洒落な小箱に入れられていた。
さっき見てしまった映画の官能シーンが否応なしに脳内再生される。まるで今日のために予習していたかのような閲覧履歴に、身の毛がよだつ。
そろそろだと思っていた。今日はそういうことをするのだと覚悟をして、彼の家に上がった。それでも、いざ避妊具を目の前にすると自分の覚悟は浅はかだったことに気づかされる。これが普通にコンビニに売られていることにすら気持ち悪さを感じてしまう現状で、私は最後まで耐えられるのだろうか。
階段を上る足音が聴こえ、私はコンドームを袋の中に戻した。
戻って来た長谷部君は、やっと私の隣に腰を下ろす。
彼が持ってきたグラスに注がれたジュースにはちゃんと氷が浮かんでいる。そのまま飲めるサイズのペットボトルを購入していても、ちゃんとグラスに注ぎ、氷まで入れてくれる気遣いには誠実さを感じる。彼はいつだって誠実で優しいことは、彼女の私が一番わかっている。でも、さっきから治まることのない寒気が心までも震わせていく。
「映画でも観る?」
そう言って、リモコンのほうに伸ばした彼の手を咄嗟に掴んだ。私がいる前で互いに気まずくなるような映画を彼が選ぶわけがないのに、私は思わずその手を止めてしまった。彼に触れた瞬間、拒絶するように全身が粟立った。すぐにでも離れたい衝動に駆られるが、なんとか押し殺しゆっくりと手を放した。彼を傷つけたくはない。
「由衣ちゃん?」
不審に感じたのか、長谷部君が首を傾げる。
「ごめん、映画観る気分じゃなくて」
「そっか、じゃあお菓子でも食べながら話そう」
変に気を遣わせてしまった。
彼は、コンドームが入ったコンビニ袋を漁り、スナック菓子を取り出した。あの袋は、お菓子や飲み物が入ったただのコンビニ袋だったのに、もうそうは思えない。テーブルに広げられたお菓子のことも見たくはなかった。
聞き上手の彼が、あまり話さなくなった私に気を遣ってかたくさんの話題を出してくれる。友達の話、先生の話、授業の話、どれも学校での出来事だった。そんなパクパクと動く彼の口を眺めながら、私は右から左へと彼の話を聞き流していた。
その時、彼が左手を床につけ、私のほうに身を寄せた。徐々に顔が近づいてきて、あっという間にキスをされた。数回いつものキスをされたあと、少しだけ強く長いキスへと変わっていく。今までのキスは、お互いの唇がただ触れていただけの接触にすぎなかったことを知る。
彼の空いている手が、いつの間にか私の脚に置かれていた。繰り返されるキスは徐々に熱を帯びていき、息が苦しくなる。一瞬だけ唇が離れた時、自分の口から洩れ出た吐息が気持ち悪く、同時に得体の知れない恐怖を感じた。
ふと視線を動かすと、コンビニ袋から透けて見えるコンドームが目に入る。お洒落ぶった箱で紛れていることに苛立ちさえ募った。
男子は中学生になると一気に下品になる。男は、同性の体よりも異性の体に興味を持ち、勝手に脚の形や胸の大きさで女を順位づけする。だけど、長谷部君の第一印象では、そういう下劣な遊びを通ってきてないような清廉潔白な男子に見えた。だが、蓋を開けてみればこのざまだ。映画という芸術作品で性的欲求を満たしたのだ、と想定できる履歴すら残っている。彼も、このお洒落ぶった小箱と一緒だ。
瞬間、覚悟は一瞬で崩れ、建前のように見せていたウソも、恋に浮かれる女子高校生というキャラも、手のひら返したくなるほどに嫌悪感が爆発した。
私は、長谷部君の胸を両手で押して拒否した。もう限界だった。いや、初めから無理だった。
「……ごめん、嫌だった?」
何も悪くない彼が、申し訳なさそうに目尻を下げている。
「由衣ちゃん?」
彼の手が向かってくる。私はその手を思いっきり払ってしまった。無理だと認めた瞬間、触れられることすらも嫌気がさした。
まず何から説明すればいいのかわからなかった。どこから話をはじめて、どこを弁明して、何に対して謝らなければいけないのか模索しているうちに、長谷部君のほうから距離を取られる。彼は後ろ手をつき、不格好な体勢で項垂れる。
「本当は、みてたんだよね?」
「……え?」
脈絡のない彼の問いに顔を上げると、気だるげな目と合った。
「映画、観ようと思ってたところって言ってたけど本当は観てたんだよね?僕の閲覧履歴でも見た?それで僕のこと嫌になった?それとも、コンビニ袋の中身を見た?ゴムがあること知って嫌になった?」
温厚な話し方、優しい目つき、柔らかい表情。すべてをどこかに置いてきたかのような振る舞いに、私は目を疑っていた。知らない長谷部君に背筋が凍る。
「それとも、まだ早かった?三か月がベストだって聞いたんだけど、やっぱり人それぞれなんだね」
純然たる饒舌な口調に鼓膜が遠のいていくのを感じ、聞き逃してしまわないよう必死で耳を傾けた。
彼は、天井を見上げフゥーっと息を吐く。そして、トドメを刺す。
「恋愛って、結構面倒くさいんだね」
初めて食べたものが口に合わなかった、みたいな軽い口ぶりだった。
この恋は、長谷部君の告白からはじまった。なのに、はじめた張本人が「面倒くさい」と言って、この恋を放棄しようとしている。
「長谷部君は、最初から私のこと好きじゃなかった?」
天井から視線を下ろし、私を見つめる。
答えは聞かずとも明白に表れていた。彼の瞳はこんな風に冷たかっただろうか。今までの彼は嘘だったのだろうか。
嘘は眼から感じ取れるものだと聞くけれど、それは見ているものがすべてではないことを私がよく知っていることが大前提なのかもしれない。
私は、彼を大まかにしか見ていなかったのかもしれない。
「……ごめんね」
長谷部君はそう言って、小さく笑った。
そのあとすぐに、長谷部君の母親が仕事から帰って来て、その流れに乗る形で私は長谷部君の家を出た。
勝手にお邪魔しておきながら黙って帰るのも気が引けたので、長谷部君の母親に軽く挨拶をした。その時、彼は私を「彼女」と紹介した。
別れ際、長谷部君は「明日また話そう」と言って、何事もなかったかのように私に手を振った。
今日はまだ彼女でも、明日まだ彼女でいるとは限らない現状に、帰り道中小さくため息をついた。
明日、どんな話をするのだろうか。考えながら眠った。

