放課後の校舎は、いつもより静かだった。

 明日に控えたアンサンブル発表会に向けて、
 校内のあちこちから練習の音が漏れ聞こえるはずなのに、
 この時間、この場所は──まるで、時が止まっていた。

 「ごめんね、付き合ってもらって」

 ピアノ室で、神谷奏多が軽く頭を下げた。

 「ううん、むしろ練習したいなって思ってたの。細かいテンポの合わせとか……」

 心音が笑って言うと、奏多も安心したように微笑んだ。

 グランドピアノの前に座る奏多。
 その隣に、ヴァイオリンを構えた心音が立つ。

 「じゃあ、最初から」

 頷いて、心音は深く息を吸った。
 奏多の指が鍵盤に触れた瞬間、室内に音が広がる。

 その音は、誰かに見せるためのものじゃなかった。
 ただ──心と心を重ねるためだけの、音楽だった。

 (……やっぱり、神谷くんのピアノ、好き)

 柔らかくて、でも揺るぎなくて。
 そこに乗ると、まるで自分の音まで優しくなれる気がする。

 曲が終わったとき、ふたりは、しばらくそのまま沈黙していた。

 「……心音の音、最近変わったよね」

 不意に、奏多が言った。

 「え?」

 「前より、深くなった。色が増えたというか……温かくて、柔らかい。
 誰かのために弾いてる、そんな感じがする」

 心音の頬が、ふわっと熱を帯びた。

 (それって……美月さんのこと?)

 でも、その問いを飲み込む。

 「……もしかしたら、そうかも」

 「誰のため?」

 すぐに返された問いに、心音は答えられなかった。

 でも、答えは心の中にあった。

 (──あなたのため、だよ)

 その沈黙の意味に、奏多は気づいたのだろうか。

 「明日、うまくいくといいね」

 「ううん、“うまくやる”じゃなくて、“伝える”演奏がしたい。
 私たちの音で、ちゃんと何かを届けたい」

 そう言った心音の言葉に、奏多はふっと笑った。

 「……心音ってさ、やっぱり強いね」

 「え?」

 「ううん、なんでもない」

 奏多はピアノの蓋をそっと閉じた。
 それは、ふたりだけの秘密の時間の終わりを告げる仕草のようだった。

 (もっと、話したかった)

 (もっと、奏多くんのことを知りたかった)

 けれど、今はまだ、胸の奥の言葉を「音」にして届けるしかない。

 明日、ステージで──
 心音は、自分のすべてを音に乗せると誓った。