三月に入り、卒業式まであと一週間となった。教室にはどこか浮ついたような、それでいて感傷的な空気が漂い始めていた。解放感と、別れへの寂しさ。友人たちと卒業旅行の計画を立てたり、記念写真を撮り合ったりする輪の中心には、いつも陽菜がいた。彼女は相変わらず明るく、笑顔を振りまいていたけれど、俺にはその笑顔が、以前よりも少しだけ、無理をしているように見えていた。

 樹から蓮の噂を聞いて以降、俺の心は鉛のように重かった。陽菜に伝えるべきか、伝えざるべきか。答えの出ない問いを抱えたまま、ただ時間だけが過ぎていく。結局、俺は何も行動を起こせないまま、卒業式の日が刻一刻と近づいていた。

 その日の放課後、俺は駅前の喫茶店で、窓際のカウンター席に座りぼんやりと外を眺めていた。特に何をするわけでもなく、ただ時間を潰していただけだ。店内は、同じように放課後を過ごす高校生や、パソコンを開く大学生、商談をしているらしいスーツ姿の男女で賑わっている。

 不意に、入り口のドアベルが鳴り、聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。
「あっ、湊じゃん! 珍しいね、こんなところにいるなんて」
 顔を上げると、そこには陽菜が立っていた。隣には、いつものように莉子がいて、二人で買い物でもしてきた帰りらしい。
「どうしたの? そんな泣きそうな顔して、何かあった?」
 俺はいったいどんな顔をしていたのだろう。不意を突かれて素が出てしまったのかもしれない。
「……おう。まあ、たまにはな。泣きそうな顔ってなんだよ。俺の顔はいつもこんなだろ」
 平静を装って答える。陽菜と莉子は、俺の向かいの席に当然のように腰を下ろした。
「湊、最近全然うちらと話してくんないじゃん。寂しいんですけどー」
 莉子がからかうように言う。
「いや、別に……そういうわけじゃ……」
 俺が口ごもると、陽菜が苦笑しながら莉子を窘めた。
「もー、莉子ったら。湊は忙しいんだって」
 そう言いながら、俺に向き直る。
「卒業旅行、湊は行かないの? 圭太たちが誘ってたでしょ?」
「……ああ、俺はパスかな」
「そっか。まあ、湊はそういうの好きじゃなさそうだもんね」
 陽菜は少し寂しそうな顔をしたが、すぐに笑顔に戻った。けれど、その笑顔には、やはりどこか影があるように見えた。目の下には、うっすらと隈ができているような気もする。

 莉子が「ちょっとトイレ行ってくるー」と席を立った。店内には、落ち着いた洋楽のBGMが流れている。陽菜は、テーブルに置いたスマホの画面を、指で意味もなく撫でていた。

「……なあ、陽菜」
 俺は、意を決して声をかけた。
「最近、なんか……疲れてるんじゃないか?」
 その言葉に、陽菜は驚いたように顔を上げた。そして、数秒間、何か言いたそうに唇を震わせた後、ふっと表情を崩した。それは、いつもの明るい笑顔ではなく、困ったような、助けを求めるような、そんな頼りない笑顔だった。

「……うん。まあ、ちょっとね」
 陽菜は、小さな声で呟いた。
「なんかさ、最近、蓮とあんまり上手くいってなくて……」
 予想していた言葉だったが、実際に聞くと胸が締め付けられる。俺は黙って、次の言葉を待った。

「連絡とか、前より減ったし……なんか、会ってても、上の空みたいな時があって。私が何か気に障ることしちゃったのかなって、色々考えちゃうんだけど、聞いても『別に』しか言ってくれないし……」
 陽菜の声が、だんだんと震えてくる。
「この前もね、他のクラスの子と、二人でカフェにいるの見ちゃったんだ。別に、やましいことなんてないのかもしれないけど、でも、私には内緒にしてたみたいで……」
 大きな瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていく。
「私って……重いのかな。束縛とかしてるつもりないんだけど……でも、やっぱり不安になっちゃうんだよ。……湊、私、どうしたらいいのかな?」

 泣きじゃくる陽菜を前にして、俺は何も言えなかった。心配だった。助けてあげたかった。けれど、どんな言葉をかければいいのか、全く分からなかった。樹から聞いた噂が、喉まで出かかっていた。けれど、今それを伝えたら、陽菜はもっと傷つくだけだろう。俺は、ただ黙って、陽菜の震える肩を見つめることしかできなかった。無力感が、全身を苛む。

 その時、陽菜のスマホがテーブルの上で震えた。画面には『蓮』の文字。陽菜は慌てて涙を拭い、少し震える声で電話に出た。
「……もしもし。蓮?」
 しかし、数秒後、彼女の表情が曇る。
「えっ……? あ、うん……。ううん、別に用事じゃ……。うん、わかった……じゃあ、また」
 力なく通話を終えると、陽菜はスマホをテーブルに置いた。
「……『また後でかける』だって」
 その声は、ひどくか細かった。

 気まずい沈黙が流れる。窓の外では、街灯が灯り始めていた。
「……ごめん、湊」
 しばらくして、陽菜が顔を上げた。目元はまだ赤かったが、無理に笑顔を作っている。
「こんな話、湊にしても仕方ないよね! なんか、急に色々不安になっちゃって。もう大丈夫だから! 心配かけてごめんね!」
「……陽菜」
「あ、莉子も戻ってきたみたいだし! 私たち、そろそろ行くね!」
 陽菜は、俺が何か言う前に、一方的にまくし立てて席を立った。そして、トイレから戻ってきた莉子と一緒に、逃げるようにカフェを出て行った。

 一人残された俺は、まだ温かいままのコーヒーカップを握りしめた。陽菜の涙と、無理に作った笑顔が、瞼の裏に焼き付いて離れない。彼女は明らかに限界に近づいていた。そして、蓮との関係も、終わりが近いのかもしれない。

 卒業まで、あとわずか。
 このまま、俺はただ見ていることしかできないのだろうか。陽菜が傷つくのを、黙って待つことしかできないのだろうか。
 いや、それではダメだ。
 何かしなければ。たとえそれが、どんな結果を招くことになったとしても。
 俺の中で、何かが動き始めたような気がした。