陽菜が本来持っているかもしれない脆さに気づいてから、俺の心はますます落ち着かなくなった。彼女の写真を見返しては、そこに隠されたサインを探し、SNSの投稿を深読みし、結城蓮という男への疑念を募らせる。だが、それはすべて俺の頭の中での出来事に過ぎず、現実には何も変わらない。陽菜との距離は開いたままだし、俺は相変わらず、自分の殻に閉じこもっているだけだった。
そんなある日。特に目的もなく校舎をうろついていた俺は、普段あまり使われていない視聴覚室の前を通りかかった。ドアが少しだけ開いており、中から微かに機材を操作するような音が聞こえる。誰かいるのか、と覗き込むと、プロジェクターの配線をチェックしている樹の後ろ姿があった。彼は放送委員か何かの仕事で残っていたらしい。
「……よう」
俺が声をかけると、樹は肩越しにちらりとこちらを見た。
「なんだ、相川か。お前、暇人かよ」
「何言ってんだ、お前も同じようなもんだろ」
軽口を叩きながら、部屋に入る。暗幕が引かれた室内は薄暗く、機材のランプだけが点滅していた。俺は壁際に置かれたパイプ椅子に腰を下ろす。
樹は手元の作業を続けながら、独り言のように呟いた。
「お前、その顔だとまだ撮れてないようだな」
「……まあな」
「ふーん、そうか」
樹は配線のチェックを終えると、俺の隣に腰を下ろし、黙って自分のスマホを取り出した。何かを検索するような仕草。そして、不意に顔を上げて俺を見た。その目は、いつもの醒めた視線とは少し違う。何かを探るような色を帯びていた。
「なあ、相川」
「……なんだよ」
「お前の幼馴染……広瀬さん、だっけ。付き合ってる奴、結城って言ったか?」
陽菜と蓮の名前が出て、心臓が跳ねる。
「……ああ。それが、どうかしたか?」
警戒心を悟られないように、努めて平静を装う。樹は、スマホの画面を一瞥すると、淡々とした口調で続けた。
「いや、ちょっと耳にしただけなんだがな。そいつ、前の彼女との別れ方、あんまり良くなかったらしいぜ」
「……!」
樹の言葉に息を呑んだ。彼は続ける。
「なんでも、他に気になる奴ができたとかで、一方的に振ったとか……別れるときにだいぶ揉めたらしい。まあ、ただの噂だけどな。確証はない」
「……どこで、そんな話を」
「さあな。人づてだ。女子の噂話なんて、尾ひれがついてるかもしれんし」
樹はそう言って肩をすくめたが、その目は、俺の反応を注意深く観察しているようだった。
「ただ……広瀬さん、大丈夫なのかと思ってな。お前、幼馴染なんだろ?」
樹の言葉は、俺の中に燻っていた疑念の火に、油を注いだようなものだった。蓮のSNSで感じた違和感。陽菜の投稿に時折見えた翳り。それらが、樹の語った噂と結びつき、急速にリアリティを帯び始める。
(やっぱり、そうなのか……? 蓮は、陽菜に対しても同じことをするつもりなんじゃ……)
強い衝動に駆られた。今すぐ陽菜に伝えなければ、と。あいつが傷つく前に、真実……かもしれないことを知らせてやるべきではないのか、と。
しかし、同時に、別の考えが頭の中で渦巻く。
(待てよ。これはただの噂だ。確証なんてないじゃないか)
(それに、俺がこれを陽菜に伝えたとして、それは本当に陽菜のためなのか? 自分の嫉妬心や、蓮への敵意からくる行動じゃないのか?)
(俺に、陽菜の恋愛に口を出す資格なんてあるのか? そんなことをすれば、陽菜をさらに傷つけ、混乱させるだけじゃないのか?)
ぐるぐると、思考が堂々巡りになる。額にじっとりと汗が滲んだ。
どうすればいい。何が正しい。
樹は、そんな俺の葛藤を見透かすように、静かに立ち上がった。
「まあ、俺が言えるのはここまでだ。あとは、お前がどうするかだろ」
そう言い残し、彼は機材を片付け始め、部屋を出て行った。
一人残された視聴覚室の暗闇の中で、俺は身動き一つ取れなかった。
陽菜の顔が浮かぶ。蓮の顔が浮かぶ。そして、何もできない自分の姿だけがここにある。
樹から渡された情報は、まるで時限爆弾のようだ。抱えているだけで、息が詰まりそうになる。けれど、それをどう処理すればいいのか、俺には全く分からなかった。
行動できない自分の不甲斐なさと、陽菜への心配と、蓮への黒い感情。それらがごちゃ混ぜになって、重く、暗く、俺の心にのしかかっていた。
そんなある日。特に目的もなく校舎をうろついていた俺は、普段あまり使われていない視聴覚室の前を通りかかった。ドアが少しだけ開いており、中から微かに機材を操作するような音が聞こえる。誰かいるのか、と覗き込むと、プロジェクターの配線をチェックしている樹の後ろ姿があった。彼は放送委員か何かの仕事で残っていたらしい。
「……よう」
俺が声をかけると、樹は肩越しにちらりとこちらを見た。
「なんだ、相川か。お前、暇人かよ」
「何言ってんだ、お前も同じようなもんだろ」
軽口を叩きながら、部屋に入る。暗幕が引かれた室内は薄暗く、機材のランプだけが点滅していた。俺は壁際に置かれたパイプ椅子に腰を下ろす。
樹は手元の作業を続けながら、独り言のように呟いた。
「お前、その顔だとまだ撮れてないようだな」
「……まあな」
「ふーん、そうか」
樹は配線のチェックを終えると、俺の隣に腰を下ろし、黙って自分のスマホを取り出した。何かを検索するような仕草。そして、不意に顔を上げて俺を見た。その目は、いつもの醒めた視線とは少し違う。何かを探るような色を帯びていた。
「なあ、相川」
「……なんだよ」
「お前の幼馴染……広瀬さん、だっけ。付き合ってる奴、結城って言ったか?」
陽菜と蓮の名前が出て、心臓が跳ねる。
「……ああ。それが、どうかしたか?」
警戒心を悟られないように、努めて平静を装う。樹は、スマホの画面を一瞥すると、淡々とした口調で続けた。
「いや、ちょっと耳にしただけなんだがな。そいつ、前の彼女との別れ方、あんまり良くなかったらしいぜ」
「……!」
樹の言葉に息を呑んだ。彼は続ける。
「なんでも、他に気になる奴ができたとかで、一方的に振ったとか……別れるときにだいぶ揉めたらしい。まあ、ただの噂だけどな。確証はない」
「……どこで、そんな話を」
「さあな。人づてだ。女子の噂話なんて、尾ひれがついてるかもしれんし」
樹はそう言って肩をすくめたが、その目は、俺の反応を注意深く観察しているようだった。
「ただ……広瀬さん、大丈夫なのかと思ってな。お前、幼馴染なんだろ?」
樹の言葉は、俺の中に燻っていた疑念の火に、油を注いだようなものだった。蓮のSNSで感じた違和感。陽菜の投稿に時折見えた翳り。それらが、樹の語った噂と結びつき、急速にリアリティを帯び始める。
(やっぱり、そうなのか……? 蓮は、陽菜に対しても同じことをするつもりなんじゃ……)
強い衝動に駆られた。今すぐ陽菜に伝えなければ、と。あいつが傷つく前に、真実……かもしれないことを知らせてやるべきではないのか、と。
しかし、同時に、別の考えが頭の中で渦巻く。
(待てよ。これはただの噂だ。確証なんてないじゃないか)
(それに、俺がこれを陽菜に伝えたとして、それは本当に陽菜のためなのか? 自分の嫉妬心や、蓮への敵意からくる行動じゃないのか?)
(俺に、陽菜の恋愛に口を出す資格なんてあるのか? そんなことをすれば、陽菜をさらに傷つけ、混乱させるだけじゃないのか?)
ぐるぐると、思考が堂々巡りになる。額にじっとりと汗が滲んだ。
どうすればいい。何が正しい。
樹は、そんな俺の葛藤を見透かすように、静かに立ち上がった。
「まあ、俺が言えるのはここまでだ。あとは、お前がどうするかだろ」
そう言い残し、彼は機材を片付け始め、部屋を出て行った。
一人残された視聴覚室の暗闇の中で、俺は身動き一つ取れなかった。
陽菜の顔が浮かぶ。蓮の顔が浮かぶ。そして、何もできない自分の姿だけがここにある。
樹から渡された情報は、まるで時限爆弾のようだ。抱えているだけで、息が詰まりそうになる。けれど、それをどう処理すればいいのか、俺には全く分からなかった。
行動できない自分の不甲斐なさと、陽菜への心配と、蓮への黒い感情。それらがごちゃ混ぜになって、重く、暗く、俺の心にのしかかっていた。
