陽菜への気持ちを自覚し、そしてそれが叶わないことも知ってしまった今、俺の世界からは色と音が急速に失われていくような感覚があった。好きだった音楽を聴いても以前のように心が動かず、読みかけの本のページも進まない。そして何より、あれほど没頭していた写真が、全く撮れなくなっていた。
あの日、母とアルバムを見てから数日後。放課後に俺は、半ば強迫観念に駆られるように、再びLumina Vision Classic 2をリュックに詰め込み、電車に乗った。向かったのは、いつもの河川敷ではなく、市の外れにある古い港エリアだ。かつては活気があったのかもしれないが、今は錆びついたクレーンや使われなくなった倉庫が寒々しい風景を作り出している。平日の夕暮れ時、人影はほとんどなく、聞こえるのは海風の音と、遠くで鳴る船の汽笛だけ。こういう場所なら、何か撮れるかもしれない。そう思ったのだ。
岸壁に立ち、カメラを構える。ファインダー越しに、傾いた陽の光を浴びて乱反射する海面や、古びた係留ロープ、遠くに見える対岸の島影を捉える。悪くない景色だ。悪くない、はずなのに。
シャッターにかけた指が、動かない。
なぜ、これを撮るのか。俺はいったい何を残したいのか。
その意味を見つけることができない。以前は、ただ美しいと感じた瞬間、心が動いた瞬間を、衝動的にフィルムに焼き付けていた。けれど今は、その衝動がどこかへ消え失せてしまったようだった。ファインダーを覗く目が、ただ空虚に風景の上を滑っていく。
(ダメだ……)
ため息をつき、カメラを下ろす。結局、一枚もシャッターを切れないまま、俺は重い足取りで家路についた。
自室に戻り、机の引き出しを開ける。中には、先日現像した陽菜の写真が数枚、裏返しになって入っていた。あれ以来、まともに見ることができなかったものだ。意を決して写真を手に取る。
赤いセーフライトの下で見た時とは違い、蛍光灯の下で見る写真は、あまりにも鮮明に過去を写し出していた。
小学生の頃の、日焼けした笑顔。
中学生の頃の、少し照れたような横顔。
高校に入ってからの、友人たちとふざけ合う姿。
俺は、感傷を振り払うように、一枚一枚の写真を、まるで初めて見るかのように注意深く見つめた。ピント、露出、構図。そして何よりも、陽菜の表情。その細部に、何かを見つけ出そうとするように。
すると、気づいた。
どの写真の陽菜も、確かに笑っている。明るく、楽しそうに。けれど、その笑顔の中に、ほんの一瞬、写真の隅に、微かな翳りのようなものが潜んでいることがある。
例えば、満面の笑みのはずなのに、どこか遠くを見ているような瞳。
例えば、友達の輪の中にいながら、ふと誰かに寄りかかるような、あるいは誰かの反応を窺うような仕草。
例えば、一人で写っている写真で見せる、一瞬の物憂げな表情。
これらは、俺がシャッターを切った時には気づかなかったものだ。いや、気づかないふりをしていたのかもしれない。陽菜は、いつも明るく、元気で、強い子だと、俺は勝手に思い込んでいたから。
けれど、写真に焼き付けられた一瞬は、雄弁に語りかけてくるようだった。陽菜が、俺が思っていたよりもずっと、脆くて、寂しがり屋で、誰かの肯定を必要としていたのではないか、と。
(そうか……だから、陽菜は……)
蓮が必要だったのは、陽菜の方だったのかもしれない。俺にはない、スマートさや、ストレートな好意を示してくれる存在が。俺が、その陽菜の心の隙間に、気づいてやれなかっただけなのかもしれない。幼馴染という関係性に甘え、彼女の内面と真剣に向き合おうとしてこなかった罰なのかもしれない。
だとしたら、俺が抱いていた蓮への嫉妬や不信感は、あまりにも身勝手なものだ。
それでも。
それでも、蓮のSNSで見せた、冷めたような一面や、陽菜以外の女子とのやり取りが、脳裏にちらつく。陽菜は、本当に満たされているのだろうか。彼女が求めていた支えを、蓮は本当に与えてくれているのだろうか。
陽菜への理解が深まったことで、俺の感情はさらに複雑になった。単なる失恋の痛みではない。彼女を守りたい、というような、おこがましい気持ち。そして、もし彼女が傷ついているのなら、力になりたいという、行き場のない想い。
写真を見つめながら、俺は改めて感じていた。
フィルムに焼き付けられた像は、過去の記録ではない。それは、時に言葉以上に多くのことを語り、目を凝らせば、隠された真実や、本人すら気づいていないかもしれない内面を、浮かび上がらせることがあるのかもしれない。
写真には嘘がつけない。いつか樹の言っていた言葉が、頭の中で響いた。
だとしたら、俺がこれから撮るべきものは、何なのだろうか。
あの日、母とアルバムを見てから数日後。放課後に俺は、半ば強迫観念に駆られるように、再びLumina Vision Classic 2をリュックに詰め込み、電車に乗った。向かったのは、いつもの河川敷ではなく、市の外れにある古い港エリアだ。かつては活気があったのかもしれないが、今は錆びついたクレーンや使われなくなった倉庫が寒々しい風景を作り出している。平日の夕暮れ時、人影はほとんどなく、聞こえるのは海風の音と、遠くで鳴る船の汽笛だけ。こういう場所なら、何か撮れるかもしれない。そう思ったのだ。
岸壁に立ち、カメラを構える。ファインダー越しに、傾いた陽の光を浴びて乱反射する海面や、古びた係留ロープ、遠くに見える対岸の島影を捉える。悪くない景色だ。悪くない、はずなのに。
シャッターにかけた指が、動かない。
なぜ、これを撮るのか。俺はいったい何を残したいのか。
その意味を見つけることができない。以前は、ただ美しいと感じた瞬間、心が動いた瞬間を、衝動的にフィルムに焼き付けていた。けれど今は、その衝動がどこかへ消え失せてしまったようだった。ファインダーを覗く目が、ただ空虚に風景の上を滑っていく。
(ダメだ……)
ため息をつき、カメラを下ろす。結局、一枚もシャッターを切れないまま、俺は重い足取りで家路についた。
自室に戻り、机の引き出しを開ける。中には、先日現像した陽菜の写真が数枚、裏返しになって入っていた。あれ以来、まともに見ることができなかったものだ。意を決して写真を手に取る。
赤いセーフライトの下で見た時とは違い、蛍光灯の下で見る写真は、あまりにも鮮明に過去を写し出していた。
小学生の頃の、日焼けした笑顔。
中学生の頃の、少し照れたような横顔。
高校に入ってからの、友人たちとふざけ合う姿。
俺は、感傷を振り払うように、一枚一枚の写真を、まるで初めて見るかのように注意深く見つめた。ピント、露出、構図。そして何よりも、陽菜の表情。その細部に、何かを見つけ出そうとするように。
すると、気づいた。
どの写真の陽菜も、確かに笑っている。明るく、楽しそうに。けれど、その笑顔の中に、ほんの一瞬、写真の隅に、微かな翳りのようなものが潜んでいることがある。
例えば、満面の笑みのはずなのに、どこか遠くを見ているような瞳。
例えば、友達の輪の中にいながら、ふと誰かに寄りかかるような、あるいは誰かの反応を窺うような仕草。
例えば、一人で写っている写真で見せる、一瞬の物憂げな表情。
これらは、俺がシャッターを切った時には気づかなかったものだ。いや、気づかないふりをしていたのかもしれない。陽菜は、いつも明るく、元気で、強い子だと、俺は勝手に思い込んでいたから。
けれど、写真に焼き付けられた一瞬は、雄弁に語りかけてくるようだった。陽菜が、俺が思っていたよりもずっと、脆くて、寂しがり屋で、誰かの肯定を必要としていたのではないか、と。
(そうか……だから、陽菜は……)
蓮が必要だったのは、陽菜の方だったのかもしれない。俺にはない、スマートさや、ストレートな好意を示してくれる存在が。俺が、その陽菜の心の隙間に、気づいてやれなかっただけなのかもしれない。幼馴染という関係性に甘え、彼女の内面と真剣に向き合おうとしてこなかった罰なのかもしれない。
だとしたら、俺が抱いていた蓮への嫉妬や不信感は、あまりにも身勝手なものだ。
それでも。
それでも、蓮のSNSで見せた、冷めたような一面や、陽菜以外の女子とのやり取りが、脳裏にちらつく。陽菜は、本当に満たされているのだろうか。彼女が求めていた支えを、蓮は本当に与えてくれているのだろうか。
陽菜への理解が深まったことで、俺の感情はさらに複雑になった。単なる失恋の痛みではない。彼女を守りたい、というような、おこがましい気持ち。そして、もし彼女が傷ついているのなら、力になりたいという、行き場のない想い。
写真を見つめながら、俺は改めて感じていた。
フィルムに焼き付けられた像は、過去の記録ではない。それは、時に言葉以上に多くのことを語り、目を凝らせば、隠された真実や、本人すら気づいていないかもしれない内面を、浮かび上がらせることがあるのかもしれない。
写真には嘘がつけない。いつか樹の言っていた言葉が、頭の中で響いた。
だとしたら、俺がこれから撮るべきものは、何なのだろうか。
