週末の土曜日。昼過ぎまで自室で惰眠を貪っていた俺は、喉の渇きを覚えてようやく部屋から這い出した。リビングへ行くと、母さんが古い棚の整理をしている。普段は図書館でパートをしている母さんだが、どうやら今日は休みらしい。

「あら、湊。起きたの? 顔色悪いわよ、ちゃんと夜は寝てるの?」
 エプロン姿の母さん――相川典子(あいかわのりこ)は、俺の顔を見るなり心配そうな声を上げた。穏やかで、普段はあまり口うるさくない母さんだが、俺が最近部屋にこもりがちで、口数も減っていることには気づいているのだろう。

「……んっ。多分寝てるよ」
 冷蔵庫から麦茶を取り出しながら、素っ気なく答える。母さんはため息を一つつくと、棚の奥から埃をかぶった段ボール箱を取り出した。

「ちょっと、これ見てくれる? あなたの小さい頃のものなんだけど、自分で持っておきたいかなと思って」
 箱の中には、古びた文集や工作、そして数冊の分厚いアルバムが入っていた。俺は麦茶のグラスを片手に、仕方なく箱の前にしゃがみ込む。

 アルバムを開くと、色褪せた写真の中に、記憶の奥底にしまわれた過去の自分がいた。幼稚園の発表会、小学校の運動会、家族旅行。そして、そのほとんどの写真に、当たり前のように陽菜が一緒に写っていた。

 隣のページには、七五三の写真があった。慣れない着物を着せられ、緊張した面持ちの俺と、満面の笑みでピースサインをする陽菜。二人とも、今よりずっと小さくて、無邪気で。

「ふふ、懐かしいわね。この頃は、本当に二人いつも一緒だったのにねえ」
 母さんが、俺の隣に腰を下ろしてアルバムを覗き込む。
「陽菜ちゃん、昔から可愛かったわよね」

 その言葉に、胸が小さく痛んだ。アルバムをめくる指が止まる。一枚の写真に目が釘付けになった。近所の公園で撮った写真だ。小学生の頃だろうか。俺と陽菜が、泥だらけになって砂場で何かを作っている。二人とも、歯が抜けた間抜けな笑顔だ。

(……あの時だ)

 鮮明に思い出した。この日、俺たちは砂場で秘密基地を作っていて、日が暮れるまで夢中になっていた。そして、夕焼け空の下で、陽菜が言ったのだ。
「ねぇ湊。私たち、大人になってもずっと一緒にいようね! 絶対だよ!」
「うん、約束!」
 そう言って、小指を絡ませ合った。子供どうしの、他愛ない約束。けれど、あの時の陽菜の真剣な目は、今でもはっきりと覚えている。

 段ボール箱の底から、小さな小物入れが出てきた。中には、ビー玉や古い切手と一緒に、色褪せたプラスチックのキーホルダーが二つ、絡まるようにして入っていた。イルカの形をした、青とピンクのキーホルダー。これも、陽菜と一緒に小遣いを貯めて、お揃いで買ったものだ。いつの間にか使わなくなり、ここに仕舞い込んでいたらしい。

 絡まったキーホルダーをそっと解き、青いイルカを手に取る。ひんやりとしたプラスチックの感触が、指先に過去の記憶を呼び覚ます。

「ずっと隣に……」

 あの日の約束は、もう果たされることはないのだろうか。いや……そもそも、あの約束の意味合いが、俺と陽菜とでは違っていたのかもしれない。俺がそれを『特別』だと意識し始めた時には、陽菜はもう、違う誰かの隣を選んでいた。

「ねえ、湊」
 母さんが、心配そうな声で再び呼びかけた。
「最近、陽菜ちゃんと何かあったの? なんか、前みたいに話してないみたいだけど……」
 核心を突くような問いに、心臓が跳ねる。俺は慌ててキーホルダーを箱に戻し、アルバムを閉じた。

「別に……なんもないよ」
 顔を見ずに、ぶっきらぼうに答える。
「でも……」
「なんでもないって。……ちょっと、色々忙しいだけだよ、お互い」
 そう言って、俺は立ち上がった。
「これ、もう全部捨てていいから」

 母さんは、何か言いたげな顔をしていたが、結局はそれ以上何も言わず、「そう……」とだけ呟いた。俺はリビングから逃げるようにして自室に戻り、ドアを閉める。

 ベッドに倒れ込み、天井を見上げる。過去の記憶が、甘酸っぱい感傷と共に、鋭い後悔となって胸を抉る。あの約束を、もっと早く思い出していれば。いや、思い出していたとしても、臆病な俺には、きっと何もできなかっただろう。

 過去の絆は、今となっては、ただ切ないだけの重荷なのかもしれない。それでも、あの青いイルカのキーホルダーの感触は、まだ指先に残っているような気がした。