三月が近づき、卒業までのカウントダウンが現実味を帯びてきた。だが、俺の心は冬の寒空の下に取り残されたままだった。陽菜を避ける生活は続いていたが、皮肉なことに、彼女の存在を意識する時間はむしろ増えていた。その元凶は、ポケットの中にあるスマートフォンの、青白い光を放つ画面だ。

 授業中、教科書の影で。満員電車の中、吊革に掴まりながら。家に帰れば、自室のベッドの上で。俺は、まるで強迫観念に取り憑かれたかのように、SNSのアプリを開き、陽菜のアカウントをチェックしてしまっていた。分かっている。見れば見るほど、自分が惨めになるだけだと。それでも、指は無意識に彼女のアイコンをタップしてしまうのだ。

 陽菜のフィードは、俺の知らないキラキラした世界で埋め尽くされていた。
 カフェのラテアートと、その隣に添えられた細くて綺麗な指先。新港(しんみなと)エリアの展望デッキから撮った、宝石箱のような夜景。流行りの料理店での、友人たちとの賑やかな食事風景。そして、その多くに、結城蓮(ゆうきれん)の姿があった。

 ストーリーには、短い動画が頻繁にアップされていた。イルミネーションの下で、陽菜が蓮にマフラーを巻いてもらっている様子。おしゃれなレストランで、少し照れたように微笑む陽菜と、その隣でクールにピースサインをする蓮。蓮が運転しているように見える車の助手席から撮られた、流れていく都会の夜景。
 それらはすべて、陽菜が今、幸せであることの証明のように見えた。俺の知らない場所で、俺の知らない誰かと、俺の知らない時間を過ごしている。その事実が、痛いほど俺の胸を締めつけた。写真の中の陽菜の笑顔は、俺に向けてくれていたものとは、どこか違う種類のものに見えた。もっと華やかで、もっと無防備で、そして、俺には決して向けられることのない種類の笑顔。

(……楽しそう、だな)

 スマホを持つ手が、じっとりと汗ばむ。羨望と、嫉妬と、どうしようもない疎外感。画面をスクロールする指が、怒りに似た感情で震えた。

 けれど、時折、その完璧に見える日常の中に、ほんの僅かなノイズのようなものが混じる瞬間があった。深夜にふと投稿される、風景写真に添えられた短いポエムのようなキャプション。『ひとりじゃないって、信じたいな』とか、『大切にされてるって、実感できる瞬間が宝物』とか。あるいは、楽しそうな友人たちとの写真の隅に、一瞬だけ浮かべる、どこか寂しげな表情。気のせいかもしれない。俺の歪んだフィルターが、そう見せているだけなのかもしれない。それでも、俺はその微かな翳りを、必死で読み取ろうとしていた。まるで、陽菜が発しているSOSでもあるかのように。

 ある夜、陽菜の投稿につけられたタグを辿っているうちに、俺は偶然、蓮のアカウントを見つけてしまった。鍵はかかっておらず、誰でも閲覧できる状態になっていた。プロフィール欄には、海外の風景写真のアイコンと、『Wanderer』という一言だけ。投稿数はそれほど多くない。洗練された構図のモノクロ風景写真がいくつか。有名ブランドの新作スニーカーの写真。そして、陽菜とのツーショットも数枚あった。どれも、完璧な彼氏としての蓮の姿を切り取ったものに見えた。

 だが、スクロールしていくうちに、俺はいくつかの投稿に、言いようのない違和感を覚えた。
 雨に濡れたアスファルトを写した写真に添えられた、『結局、誰も誰かの本当の渇きなんて癒せない』という一文。あるいは、コメント欄での、陽菜以外の女子生徒との、少し馴れ馴れしいとも取れるやり取り。
 そして、彼がストーリーでシェアしていた音楽。それは、俺が普段聴いているようなインディーロックとは対極にあるような、耳障りなほど派手なEDMだった。

(こいつが、陽菜の言っていた優しい蓮なのか?)

 陽菜に見せている顔と、このアカウントから垣間見える姿とには、微妙な、しかし無視できない齟齬があるように感じられた。もちろん、これも俺の嫉妬心が見せている幻影なのかもしれない。人は誰だって、多かれ少なかれ、見せる相手によって違う顔を持っているものだ。

 それでも、疑念の種は、一度蒔かれると、心の暗い場所で静かに、しかし確実に根を張り、芽を出し始める。
 陽菜は、本当にこの男の隣で幸せなのだろうか。あの完璧に見える笑顔の下で、本当は何を感じているのだろうか。

 俺の葛藤は、いつの間にか、単なる失恋の痛みだけではなくなっていた。陽菜への届かぬ想いと、彼女への言いようのない心配。そして、結城蓮という男への、明確な輪郭を持ち始めた不信感。それらが複雑に絡み合い、俺の中で渦巻き始めていた。

 スマホの画面を消し、天井を見上げる。白々とした蛍光灯の光が、やけに目に染みた。俺は、この状況に対して、一体何ができるというのだろう。